映画早送りの背景にある、最大のコストは「友だちとの人間関係」 週刊プレイボーイ連載(529) 

映画やドラマを1.5倍速で観る、会話のないシーンはスキップする、観る前にネタバレサイトをチェックする――などの習慣が若者たちのあいだで広まっているそうです。いちばんの理由は「コンテンツが多すぎる」ことで、映画なら1本で2時間、何シーズンにもわたる連続ドラマを「ドカ見」すればまる1日つぶれてしまいます。

近年、娯楽のための「お金の制約」はどんどんなくなっています。プラットフォーマーが収益を最大化するには、ユーザーをできるだけ長くサイトに留めておくことが必要です。その結果、多くのコンテンツが無料か、低額のサブスクで楽しめるようになりました。

とはいえ、それでも「時間の制約」は残ります。誰にとっても1日は24時間で、睡眠時間や食事、仕事・学校などを除くと、自由に使えるのはせいぜい4~5時間でしょう。いまやすべてのコンテンツ産業が、「時間」という稀少な資源(リソース)を奪いあっているのです。

できるだけ少ない費用(コスト)で大きな利益を得ようとするのが「コスパ(コストパフォーマンス)」です。それに対して現代社会では、できるだけ短い時間(タイム)で大きな利益を得る「タイパ(タイムパフォーマンス)」が重要になっています。

ライターの稲田豊史さんは『映画を早送りで観る人たち』(光文社新書)で、この現象の背景には、「(つまらないコンテンツで)時間をムダにしたくない」「失敗したくない」という意識や、「“推し”をつくらなければならない」「なにかに夢中になっていなければならない」というプレッシャーがあると分析しています。

アニメやドラマを“推す”ことは、オタクのような膨大な蓄積がなくてもできますが、それでも(見せ場や結末などの)最低限の知識は必要です。自分の「個性」を手っ取り早く演出するのに、ファスト映画やネタバレサイトと「早送り/スキップ」の組み合わせはものすごく便利なのです。

社会が「リベラル化」するにつれて、作り手が鑑賞の仕方を指定したり、専門家が高みから批評することが嫌われるようになりました。「(作品を)どのように好きになろうが個人の自由」なら、「意味がわからない」のは寛容さが足りないと見なされます。こうして「わかりやすさ」に配慮したナレーションや字幕が増えてくるのですが、それが1.5倍速や倍速での視聴を可能にしています。

しかし、なぜそこまでしなければならないのでしょうか。それは「友だちとの会話についていくため」のようです。音楽、アニメ、ドラマなどには旬があり、「これ面白かったよ」とSNSなどで勧められたコンテンツに素早く反応しないと、場が白けてしまいます。それを避けてノリを合わせるには、早送りしかないというのです。

だとすると、じつは最大のコストは「(友だちとの)人間関係」ではないでしょうか。それを維持するために、ひたすら時間に追われタイパを追及しているのですから。

無駄な人間関係を切り捨ててしまえば、よい映画をゆっくり楽しめるようになるでしょう。もっとも、「友だち関係がすべて」という若い世代に、このアドバイスはなんの役にも立たないかもしれませんが。

『週刊プレイボーイ』2022年7月11日発売号 禁・無断転載

あなたの一票には意味があるのか?

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなってしまったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

参院選が終わったばかりなので、法学者イリヤ・ソミンの『民主主義と政治的無知 小さな政府の方が賢い理由』(信山社)を紹介します(公開は2021年10月21日。一部改変)。

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イリヤ・ソミンは1973年に旧ソ連のサンクトベルクに生まれ、アメリカで高等教育を受け、現在はジョージ・メイソン大学ロースクール教授。政府の権限の最小化を求めるリバタリアン(自由原理主義者)で、本書でも有権者の「政治的無知」によって民主政(デモクラシー)が理想とかけ離れていることが雄弁に語られる。

とはいえ、ソミンの目的は民主政を否定することではない。逆に、「ソヴィエト連邦から合衆国への移民として――共産主義とナチズムの両方の被害者たちを親類に持つ者として――私は独裁政にまさる民主政の長所を痛いほど感じている」として、「民主政の権力がもっと厳しく制限されているならばその機能はよりよくなるという可能性は残っている」と述べる。

原著は2013年刊で、オバマ政権での医療保険制度改革(オバマケア)が政治問題化し、民主党・共和党の分極化が進んでいく時期にあたる。

絶望的なまでの有権者の「政治的無知

「政治的無知」の調査はアメリカで詳細に行なわれていて、それによると、平均的なアメリカ人は大統領が誰かは知っているが、それ以外の知識はきわめて心もとない。

オバマ政権発足後の重要な政治イベントである2010年の中間選挙では、最大の争点は経済だったが、有権者の3分の2は前年に経済が成長したのか縮小したのか知らなかった。しかもその選挙が終わった後、アメリカ人の過半数は、共和党が下院を支配したが上院は支配しなかったことを知らなかった。

こうした政治的無知は枚挙にいとまがないが、「アメリカ人はバカだなあ」と笑っているわけにはいかない。2014年の国際調査では、平均的な日本の回答者は失業率を大幅に過大評価し、殺人件数が減少ではなく増加していると誤解し、移民の割合を実際より5倍も多いと信じていた。さらに、日本人の約3分の2は政府の14の省庁の名前を半分もあげられず、大半は自分の選挙区の国会議員立候補者についてほとんど知識をもっていない。

プラトンは『ゴルギアス』で、「民主政は無知な大衆の意見に基づいていて、哲学者やその他の専門家のよりよい知識に基づく勧告を無視するから欠陥がある」と述べた。アリストテレスはもう少し好意的で、市民が個人としてほとんど知識をもっていないとしても、集団としてはずっとたくさんの知識を得られるという「集団的知性(集合知)」に気づいていた。だがそれにもかかわらず、アリストテレスは、「女性や奴隷や肉体労働者や、その他にも徳と政治的知識を十分なレベルまで得る能力がないと彼がみなした人々を政治への参加から排除すべきだ」と主張した。

自由主義者のジョン・スチュアート・ミルは民主政を擁護したが、それでも無知な有権者の体系的な誤りを是正するため、「よい教育を受けて知識を持っている人々に余分の票を与えることが正当化される」と考えていた。

20世紀になると、政治的無知を理由に、左右両極でプラトン的なエリート主義が復活した。

レーニンは「労働者が自分たち自身で社会主義革命を起こす十分な政治的知識を開発させるとは期待できない」として、「共産主義への移行のためには、労働者自身よりも労働者階級の政治的利益を理解しているメンバーからなる「前衛」政党による強力な指導が必要だ」と論じた。

ヒトラーは、「有権者は愚かでたやすく操作でき、この問題は遠くを見通せる指導者が率いる独裁によってしか解決できない」として、『我が闘争』で「大衆が知識を受け入れる能力はごく限られており、彼らの知性は小さいが、彼らの忘却力は巨大である」と書いた。

だがソミンは、有権者(市民)が政治的に無知なのはバカだからだと主張するのではない。逆に、ひとびとは合理的に選択・行動しているのであり、それによって賢い者も「合理的無知」になるのだという。

もっとも合理的なのは、無知のまま適当に投票すること

アメリカでは1930年代後半にはじめて選挙民の政治的知識の調査が行なわれたが、それ以降、有権者の知識レベルはほとんど向上していない。その間の80数年で教育水準は大幅に上がり、メディアから得られる政治情報が爆発的に増えたにもかかわらず、政治的無知のレベルは相対的に固定したままなのだ。

この事実は、一般に思われているように、教育の不足や正確な情報が提供されないことが政治的無知の理由ではないことを示している。

誰もが気づいているだろうが、国政選挙では1票の価値はほぼゼロに等しい。アメリカ大統領選の場合、自分の1票が当落に影響を及ぼす確率は小さな州では1000万分の1、カリフォルニアのような大きな州では10億分の1で、平均すると6000万分の1とされる。日本は議院内閣制で計算はより複雑だが、自分の1票で当選した候補者の政党が(連立を含めて)政権をとる確率は、せいぜい数百万分の一だろう。

経済学者がいうように人間が経済合理的に行動するのなら、なんの価値もないことにコストをかけるわけがないから、そもそも投票所に行くはずがない。だが実際には、日本の場合1990年までは国政選挙の投票率は7割程度を維持していて、それ以降はかなり下がったものの、それでも有権者の半分は投票に行っている。2020年の米大統領選は66%で、「120年ぶりの高投票率」と報じられた。

このことは、「合理的経済人」という経済学の前提が誤っている例としてよく挙げられるが、ソミンは、有権者の行動は経済学的に説明可能だとする。

民主的な社会では、選挙権を行使することが「市民としての義務」だとされる。社会人になれば(あるいは大学生でも)「選挙に行った?」と訊かれる機会は増える。

もちろん、行ってないのに「行きました」と答えることはできるが、ウソをつくのは気分が悪いだろう。だったら、投票してすっきりしたいと思わないだろうか。

日曜に出かけるついでに近所の投票所に立ち寄るだけなら、じつはコストはそれほど大きくない。同調圧力に対処するためにささやかな負担をするひとが半分いることは、不思議でも何でもない。

だとしたら、真のコストはどこにあるのか。それは、候補者の詳細な情報を入手・検討し、誰に投票するかを決めることだ。

正しい投票のためには、自分がどのような政治を望んでいて、それに対して現状がどれほどかけ離れていて(あるいはうまくいっていて)、各候補者が掲げる政策がどのような影響を与えるのかを知る必要がある。(ほとんど)無意味なことに、こんな面倒なことをするひとがいるだろうか(すくなくとも私はやらない)。

だとしたら有権者にとってもっとも合理的なのは、投票に行かないことではなく、政治的知識を獲得するための努力をほとんど(あるいはまったく)せずに、適当に投票して安心することなのだ。――なぜなら、自分の一票の影響力はほぼゼロだから。

ここからソミンは、「もっと十分な情報を持った有権者になろうという目的で広範な政治的知識を獲得することは、大部分の場合、単純に不合理」だという。

汚染物質をコストゼロで排出できるならば、企業にとっての合理的行動は公害を垂れ流すことだ。経済学ではこれを「負の外部性」というが、政治的無知はこれと同じで、有権者の合理的行動から生まれる「民主的プロセスの一種の「公害(汚染)」」なのだ。

有権者に最低限の政治的知識をもたせることも不可能

有権者が政治的に無知であることは否定できない事実なので、民主政を擁護するためには、それでも正しい(すくなくとも他の政治制度よりもマシな)意思決定ができることを示さなくてはならない。

この問題は多くの知識人が気づいていて、経済学者のヨゼフ・シュンペーターは、「市民は現在公職についている人々の業績を評価して、パフォーマンスが悪い人々や、「よりよいパフォーマンス」を期待できる競争者よりも劣っていそうな人々を投票によって排除することができ(れば十分だ)」と述べた。

これが「回顧的投票(業績評価)」で、有権者がパフォーマンスの低い為政者を見分けることができさえすれば、多数決的な政府の支配が十分達成できるとする。それに対して予想的投票(業績予想)では、有権者はすべての候補者の影響を前もって予測・評価しなければならならない。

回顧的投票のためには、「現在その職にある人のパフォーマンスがよいか悪いかを確定するために、市民たちは自分たち自身の福利の変化さえ計算できれば足りる」とされるが、しかしこれでもハードルはかなり高いとソミンはいう。

回顧的投票をする有権者は、すくなくとも以下の4つの条件をある程度満たしていなければならない。

1)どの問題が政府の政策によって引き起こされているのか、また緩和できるかをある程度理解している。
2)どの公職者がどの争点について責任を負っているのかをある程度知っている。
3)現在の公職者の任期中にそれらの争点に関して何が起きたのかについて、すくなくとも基本的な事実を知っている。
4)現在の公職者の政策がこの状況下で可能な最善のものだったか、それとも野党の提案の方がうまくいったかもしれないかを、すくなくともある程度までは決めることができる。

新型コロナの第五波の感染拡大では、入院できないまま自宅で死亡する例が相次いできびしい批判を浴び、菅首相が再選をあきらめる事態になった。これは(選挙が行なわれたわけではないが)回顧的投票の好例で、ソミンは、大規模な飢餓のような「大きくて目につく災害」については、政治的無知でも責任ある現職者を罰することができるし、これが「民主政が対立する政治システムに勝る大きな長所」だとする。

だがそれ以外の「もっと目につきにくい、もっと複雑な争点」に対しては、回顧的投票の条件を満たすのは容易ではないだろう。

民主政を擁護しようとするそれ以外の理論は、どれも政治的無知の壁を超えることができそうもない。

「バーク的信託」は、保守主義者のエドマンド・バークが主張したように、有権者は「エリート=自然的貴族」を選んで裁量に任せればいいとするが、候補者の経歴や適格性についていくらかのことを知っている必要がある。

「特定の争点に対する民衆の選好の代表」は、原発問題や環境問題など特定の争点で投票を決めればいいとするが、有権者が(1)争点の存在を知っており、(2)争点について立場を持っており、(3)対立する候補者たちの争点に関する立場を知っていることが前提となる。

ユルゲン・ハーバーマスなどが理想とする「熟議民主主義」はさらにハードルが高く、「「不偏不党性」に基づき「能力ある主体間の相互承認」を含む市民の議論」のみによって意思決定が行なわれるべきだとする。これを実行しようとすれば、すべての有権者を拘束して熟議過程への参加を強制しなければならないだろう。

多くの調査が、ひとびとは「非熟慮的な推論形式」を好み、「(認知コストの高い)熟慮を特別に嫌がる」ことを一貫して示している。こうした理想論(机上の空論)についてソミンは、「現代の政府の規模と範囲は、大部分の普通の市民にとって、政府がしていることの多くを意識することさえ事実上不可能なほどであり、ましてそれについて見識を持つなどということは無理な相談だ」と端的に述べている。

投票率は低いほどいい?

多くの有権者が政治的無知のまま義務的に投票しているとしても、政治について熱心に勉強し、真剣に投票するひとたちがいることも間違いない。だとすれば、論理的には「投票率は低い方ほどいい」ことになる。なぜならその分だけ政治的無知(ノイズ)が減って、より精度の高い意思決定ができるはずだからだ。

公共選択の理論では、有権者は政治の「消費者」で、自己の利益を最大化するような選択・行動をするはずだと考える。だがその後、さまざまな研究が、「大部分の人々は狭い自己利益に基づいて自らの政治的見解を選んでいるのではなく、彼らは社会全体の利益だと考えるものに基づいて通常「向社会的」に投票している」ことを示した。

これは希望のもてる話だが、問題はこの「熱心なひとたち」がなんのために政治的知識を獲得しているかだ。

政治について熱く語るひとたちにもっとも近いのはスポーツファンだと、ソミンはいう。自分が応援するチームや選手について詳細な知識をもつファンは、他のチームを含め、スポーツ界全体の(公共)利益について不偏不党の立場で考えているわけではない。むしろそれとは逆に、「俺たちのチーム」を絶対化し、チームと一体化する喜びや、勝敗に一喜一憂する高揚感(エンタテインメント性)を求めているだろう。

同様に「政治ファン」も、自分がひいきする政党や候補者、イデオロギーや利益集団と結びつき、反対者を嘲ることから喜びを得る。彼らはまた、「自分がすでに持っている見解が肯定されることからも、また自分と同じ考え方の人々の集団への所属意識からも」満足を得る。これは社会心理学では「部族(党派)主義」と呼ばれる。

選挙について奇妙なのは、事実として1票の価値がほぼゼロにもかかわらず、有権者の70%以上が自分の投票が「本当に重要だ」と信じていることだ。さらに奇妙なのは、そのわりに投票に必要な政治的知識がほぼないか、大幅に偏っていることだ。

選挙が「部族主義的エンタテインメント」というのはシニカルすぎるように思えるが、この現象をうまく説明する。自分の投票価値を過大評価する程度は、「投票行動へと刺激するのに十分な程度には強いが、十分なだけの政治的情報を獲得するために必要なずっと大きな時間と努力の投資へと刺激するには小さすぎる」のだ。

アメリカでは中絶や銃規制をめぐって民主党・共和党支持者の意見が真っ向から対立しているが、さまざまな調査で、どちらの側も自分の主張にとって有利な情報を積極的に受け入れる一方、不利な情報を無視するという一貫した結果が出ている。「政治ファン≒スポーツファン説」は、このよく知られた現象を説明することもできる。

社会心理学でいう「確証バイアス」は「信じたいものを信じ、見たいものを見る」ことだ。なぜなら、「相手の方によい論拠があるかもしれないと認めると、自分の心理的満足を減少させてしまう」から。こうした偏向は、「心理的満足という目標にとっては合理的だが、彼らの投票の質の向上という目標にとっては非合理的」だとして、経済学者のブライアン・カプランは「合理的非合理性」と呼んだ。

政治的知識をもっとも多く持っている有権者(熱狂的党派主義者)は、政治的無知なひとより強いバイアスがかかっている傾向がある。これが、トランプの熱心な支持者が(世界は闇の政府に支配されているという)ディープ・ステイトの陰謀論にはまっていく理由だろう。

教育も熟議も無駄

ソミンによれば、合理的な有権者は、政治的無知なまま義務的に投票するか、部族的な偏向によって投票するか、いずれかになる(自分の政治的無知を知っている誠実な有権者は棄権するかもしれない)。これは、投票率が上がると政治的無知のノイズが大きくなって意思決定の質が下がり、逆に投票率が下がると部族(党派)主義の影響が強まって極端な結果になりやすいということだ。

さらに不都合なのは、この問題は公教育やメディアの努力によっては改善できないことだ。なぜなら問題の本質は、正しい政治情報が供給されないことではなく、消費者(有権者)がその情報を学び理解するために必要な時間と努力を惜しむこと、すなわち需要側にあるからだ。

この難問に対して、「熟議の日」が提案されている。具体的には、選挙前に「熟議の日」を国民の休日としてもうけ、すべての有権者が500人ずつのグループになって、主要な政党の代表者による主要争点に関する発表を聞き、その後、有権者は質問をして自分たちのあいだで争点を議論する。――熟議の参加者には150ドル≒1万6500円が支払われると同時に、労働者を熟議に参加させない雇用主には重い罰金が科せられる。

提案者たちは、無作為に選んだ有権者が専門家の話を聞き、その後に議論する「ミニ熟議の日」を開催し、多くの参加者がその日討議された争点について、対立した議論を聞いたあとで自分の意見を変えたとする。だがソミンは、「熟議の日」には2つの問題があるという。

ひとつは、現代の国家が社会のほぼすてのセクターを規制しており、膨大な争点を取り扱っていること。参加者の大部分は、「熟議の日」の争点の大部分についてほとんど知識をもたずに参加することになるだろう。

もうひとつは、政権をもつ側が自分たちに有利なテーマやルールを設定できること。現職政治家たちは、自分が落選するかもしれない「公正な熟議」よりも、有権者のバイアス(合理的不合理性)に働きかけて、当選確率を高める機会として利用するのではないか。

それ以外にも、政治的無知に対処する方法として以下のような案が検討されている。

1)選挙権の制限:相対的に高いレベルの教育を受けている有権者だけに選挙権を制限する。あるいは、有権者が投票を許可される前に政治的知識の試験を受けて合格することを要求する。
2)専門家に権力を委ねる:可能な限り民主的過程から断絶された、選挙によらない専門家にもっと大きな政策形成権限を移す。
3)有権者の学習に対して金を払う:政治的試験の合格者に金銭的報酬で報いる。

だがいずれも欠点があり、有効な解決策にはなりそうもない。そこでソミンは、「政治的無知の問題には知識の増大よりも無知の影響力の減少を試みることによって効果的に対処できる」かもしれないとして、「足による投票」を提案している。

足による投票では、有権者は選挙ではなく転居によって意思表示する。連邦制のアメリカでは、リベラルなニューヨークやカリフォルニアに住むか、保守的なテキサスやフロリダで暮らすかを国民が選択できる。選挙よりも転居の方がはるかに大きなコストがかかる以上、ひとびとは地方政府のパフォーマンスをより客観的に評価し、正しい選択をしようとするだろう。

ソミンはリバタリアンらしく、本書を「政府への民主的コントロールは、コントロールされるべき政府が小さくなれば、一層うまく機能するだろう」との言葉で終えている。この提案は興味深いものの、残念ながら日本にそのまま当てはめることはできない(道州制にする必要があるだろう)。

最後に訳語についてひと言。

私はずっと、「デモクラシー(democracy)」は「主義(ism)」ではなく、神政(theocracy)や貴族政(aristocracy)と同じ政治制度のことだから、「民主主義」は誤訳で、「民主政治」「民主政」「民主制」などとすべきだと指摘してきた。

本書の訳者は日本を代表する法哲学者の一人である森村進氏だが、democracyを「民主政」とし、「デモクラシーついての理論」を意味する場合のみ「民主主義」の訳語を使っていて、読んでいてまったくストレスがない(一般の翻訳書では、「民主主義」の訳語が政治制度のことか、イデオロギーのことかいちいち悩まなくてはならない)。

アカデミズムはもちろん、学校教育やメディアも早くこの「誤訳」を訂正すれば、「民主主義」についての政治的無知もすこしは改善されるのではないだろうか。

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同性婚を「類似の制度」で認めることは「不当な人権侵害」なのか 週刊プレイボーイ連載(528)

同性婚を認めない民法や戸籍法の規定が憲法に違反するとして、3組の同性カップルが国に損害賠償を求めた訴訟で、大阪地裁は「違憲とはいえない」と原告の訴えを退けました。

この判決で興味深いのは、「婚姻は、両性の合意のみに基づいていて成立」とする憲法24条1項が、「明治民法下の封建的な家制度を否定し、婚姻は当事者間の合意だけに委ねられるとした」ものだと述べながらも、「両性」とは英語原案の「both sexes」の翻訳で、「(婚姻が)異性間でするものであることが当然の前提」だったとしたことです。この英語原案はGHQがつくったものなので、日本国憲法がアメリカから敗戦国の日本に与えられたものであることを認めたという意味で「画期的」かもしれません。

判決では、同性カップルが法制度の保護を受けられないことで不利益を被っていると認定しつつも、「婚姻類似の制度やその他の個別的な立法」で解消可能で、どのような制度が適切かは民主的な議論で決めるべきだとしました。これについて原告らは「『類似の制度』では差別と同じ」「不当な人権侵害で、本当に悔しい」などと述べ、多くのメディアも「不当判決」という論調です。しかし、「類似の制度」というのはそんなに悪いアイデアでしょうか。

日本における婚姻とは、戸主(筆頭者)の戸籍に配偶者(ほとんどは女)が入って新たにイエを構え、「天皇の臣民」として登録されることです。これは明らかに天皇を頂点とする身分制社会の遺制で、だからこそ「日本人=天皇の臣民」とする保守派・伝統主義者は、どんなことをしてでも戸籍制度を守ろうとするのです。

保守派が同性婚に反対する真の理由は、戸籍の「配偶者」欄に同性の者が記載されると「イエ制度」が崩壊すると恐れているからでしょう。夫婦別姓(別氏)では、戸籍の「氏(うじ)」は血縁集団の名称で、そこに異なる「氏」が入ってくることは制度上、あり得ないとされます。

共同親権も同じで、子どもがどちらかの戸籍に入ったまま両親に「親権」を認めれば、「ほんとうの(戸籍上の)親」と「形式上の親」とのあいだで差別が生じることは避けられないでしょう。

このように日本の場合、夫婦や親子など家族にかかわる問題にはつねに「戸籍」がかかわってきます。それにもかかわらず「夫婦別姓/同性婚は当然だ」と主張するリベラルなメディアは、天皇制の話になる面倒だという理由から、意図的にこの本質から目を逸らせ「きれいごと」だけをいっているのです。

戸籍は世界には日本にしかありませんが、市民社会を個人ではなくイエによって管理しようとするこの古い制度をどのようにリベラルな価値観に合わせていけばいいのでしょうか。ひとつの試案として、相続や子どもの権利などは婚姻と同等の法的保護を保証され、その一方で夫婦別姓や同性婚を許容する、戸籍制度とは別の「カジュアルな事実婚(パートナーシップ)制度」をつくるのはどうでしょう。

この「類似の制度」が婚姻より便利なら、異性愛者のカップルもこちらの方を使うようになり、戸籍制度は形骸化して、たんなる「伝統」になっていくのではないでしょうか。

参考:「同性婚認めぬ法律「合憲」」朝日新聞2022年6月21日

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