禁断のアクア説(水生類人猿説)を再評価する

人類学者の篠田謙一さんと対談させていただいたので、そのなかで登場した「アクア説(水生類人猿説)」についての記事をアップします。一緒にお読みいただければ(「海外投資の歩き方」のサイトでの公開は2019年9月26日。一部改変)。

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2019年8月、380万年前の初期人類の「驚くほど完全な」頭蓋骨がエチオピア北東部で見つかったとの論文が英科学誌ネイチャーに発表された。この古代骨はアナメンシス猿人(アウストラロピテクス・アナメンシス/Australopithecus anamensis)のもので、「頭蓋骨は小さいが、成人のものだとみられる。復元された顔は、頬骨と顎が突き出て、鼻が平らで、額は狭い」とされる(AFP)。発見されたのはルーシー(Lucy)の発掘場所から55キロしか離れていない。

ルーシーはアファレンシス猿人(アウストラロピテクス・アファレンシス/Australopithecus afarensis)の若い女性(推定年齢25~30歳)で、今回見つかったアナメンシス猿人より新しい322万~318万年前に生きていたと考えられる。全身の約40%の骨がまとまって見つかったことで有名になり、ビートルズの「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」から命名された。

セラム(ディキカ・ベビー)は同じアファレンシス猿人の幼児(3歳前後)の古代骨で、同じエチオピアで発見されたことから「ルーシーズ・ベイビー (Lucy’s baby)」とも呼ばれる。こちらはルーシーより若干古く、335万~331万年前のものとされている。

ルーシーとセラムの化石は、アディスアベバ国立博物館に展示されている(ただしレプリカ)。近年の古代骨の発見は、人類の起源が東アフリカのなかでもエチオピアを中心とした地域にあるらしいことを示している。

ルーシーの骨格(アディスアベバ国立博物館)(@Alt Invest Com)
アディスアベバ国立博物館(@Alt Invest Com)

なぜサバンナばかりが注目されるのか?

日常語では「人類」と「ヒト」を区別して使うことはないが、遺伝人類学では両者は明確に異なる意味で使われる。

「ヒト」というのはホモ・サピエンス、すなわち現生人類のことで、「人類(ホモ族)」はそれよりも広義で化石人類(アウストラロピクテス属など)も含まれる。

類人猿は「尻尾がない猿」のことで、パン属、ゴリラ属、オランウータン属が大型類人猿(great apes)だ。パン属はパン・トログロダイテス(チンパンジー)とパン・パニスカス(ボノボ)に分かれる。「人類の起源」は、パン属との共通祖先と分かれた700万~600万年前とされる。

初期人類の古代骨としては、アフリカ・チャドで2001年に発見された、「トィーマイ(Toumai)」と名づけられたサヘラントロプス・チャンデンシス(Sahelanthropus tchadensis)がもっとも古い。トゥーマイの推定年代は700万~600万年前で、直立歩行していたならば人類の最初期の祖先の可能性があるが、いまだに諸説あるようだ。発見されたのが頭蓋骨のみで、脊髄が通る穴が下方にあることで直立していたと推定されるだけで、脚や足跡など直立を裏づける証拠は見つかっていない。

はっきりしているのは、約440万年前のアルディ (Ardi)と呼ばれるラミダス猿人(アルディピテクス/Ardipithecus)を含め、それ以降の初期人類の古代骨の多くがエチオピアで見つかっていることだ。人類はケニアやタンザニアなどのサバンナで誕生したとされる(ナミビアなど南部アフリカとの説もあった)が、エチオピアはサバンナより高地で、その環境はかなり異なる。エチオピアから南西に下れば、チンパンジーやボノボ、ゴリラなどが生息する森林地帯が広がっている。

地図を見れば明らかだが、初期人類の古代骨が発見された場所は大地溝帯(グレート・リフト・バレー)に沿っている。大陸プレートの分裂によって生まれたアフリカ大陸を南北に縦断する巨大な谷で、アフリカ最高峰のキリマンジャロをはじめとする山々が隆起したが、それより顕著なのはこれらの山から流れ込む水によってヴィクトリア湖、タンガニー湖などの多数の大きな湖ができたことだ。エチオピアにもタナ湖など多くの湖があり、ナイル川の水源としてエジプトから地中海に注いでいる。

人類の特徴は発汗によって体温を調節することで、大量の淡水がないと生きていくことができない。そう考えれば、初期人類が淡水湖や川の近くで暮らしていたと考えるのは合理的だ。

だとすれば、なぜサバンナばかりが過剰に注目されるのだろうか。大地溝帯で次々と見つかる初期人類の古代骨からは、「人類は水辺で誕生した」と推測することもじゅうぶんできるはずだ。

鼻の穴はなぜ下向きなのか?

じつはこれは、私の勝手な思い込みではない。人類がチンパンジーなどとの共通祖先から分かれたあと、樹上から棲息地域を水辺に移して独自の進化を遂げたという主張は「アクア説(水生類人猿説)」と呼ばれている。

ここで「バカバカしい」と一笑にふすひともいるだろう。実際、「私たちの祖先が人魚だったとでもいうのか」とこの説は嘲笑されてきた。

そこですこしは真剣になってもらうために、2つの例を挙げておこう。

人類が二足歩行を始めた理由として、「樹上生活からサバンナに降りた時、直立した方が遠くまで見渡せて有利だったからだ」と説明される。だがもしこれが正しいとしたら、サバンナに棲息する多くの動物たちのうち、二足歩行をするのが人類だけなのはなぜだろうか? そんなに有利なら、サバンナという環境は同じなのだから、ほかにも二足歩行に移行する動物が出てくるはずではないか?

ミーアキャットなど直立する動物たちが話題になるが、移動するときは四足歩行だ。人類以外の二足歩行の大型動物はカンガルーくらいしかいない。

それに対してアクア説なら、二足歩行をずっとシンプルに説明できる。初期人類が水辺で生活することを選んだのなら、水中で直立したほうが遠くまで移動できてずっと便利なのだ。そのうえ、水の浮力が直立する上半身を支えてくれただろう。

ここで、「同じように水辺で生活するカバは四足歩行ではないか」との反論があるかもしれない。だがウシなどと同じ偶蹄目であるカバは、そもそも直立できるような骨格になっていない。それに対して人類と共通祖先をもつチンパンジーなどは直立や短距離の二足歩行がもともと可能だったから、水中に入ることが多くなって直立二足歩行に移行するのはごく自然なのだ。

もうひとつは、人類では鼻の穴が下を向いていることだ。それに対して四足歩行の哺乳類はもちろん、ゴリラやチンパンジーも鼻の穴は正面を向いている。その方が呼吸するにも、臭いをかぐにもずっと有利だからだ。

この謎について、これまでサバンナ説は有力な仮説を提示できていない。だがアクア説なら、ものすごく単純な説明が可能だ。鼻の穴が正面を向いていると、水中に潜ったときに水を肺に取り込んでしまう。鼻の穴が下向きに進化すれば、水が入りにくくなって長い時間潜っていられるのだ。

他の哺乳類と比べて人類の特徴は嗅覚が衰えたことだが、水中では臭いはあまり役に立たないのだから、脳の嗅覚の部位が退化して、その代わり視覚など他の部位が発達したと考えることができる。

どうだろう? すこしは納得してもらえたのではないだろうか。

アクア説を無視するのはアカデミズムの女性差別?

「アクア説」はもともと1942年にドイツの人類学者マックス・ヴェシュテンヘーファーによって唱えられ、その後、海洋生物学者のアリスター・ハーディーが1960年に別の観点から主張した(ヴェシュテンヘーファーの説は忘れさられていた)。それを在野の女性人類学者、故エレイン・モーガンが再発見し、精力的な執筆活動で「啓蒙」に努めた。その総集編ともいえるのが『人類の起源論争 アクア説はなぜ異端なのか?』(望月弘子訳、どうぶつ社)だ。

海洋生物学者のハーディーは、「陸生の大型哺乳類のなかで、皮膚の下に脂肪を蓄えているのは人類だけだ」との記述を読んで、アシカやクジラ、カバなど水生哺乳類はみな皮下脂肪をもっていることに気づいた。

皮下脂肪を蓄えれば冷たい水のなかでも生活できるし、水に浮きやすくなって動きもスムーズになる。それに対してサバンナの動物は、皮下脂肪を蓄えたりせずに毛皮で体温を調節している。だとしたら人類も、過去に水棲生活をしていたのではないか。

このアイデア(コロンブスの卵)を知ったモーガンは、アクア説ならさまざまな謎が一気に解けることに驚いた。

動物学者たちを悩ませていたのは、「人類はなぜ体毛を消失したのか」だった。従来のサバンナ説ではこれは、「酷暑のなかで長時間移動するには、体毛をなくし発汗によって温度調節するほうが有利だから」と説明された。だがサバンナの動物のなかで、そんな進化をしたのは人類しかいない。昼は太陽が照りつけ、夜はきびしい寒さにさらされる乾燥したサバンナでは、定説とは逆に厚い毛皮が必須なのだ。

毛皮は体温の喪失を防ぐだけでなく、太陽熱を半分遮り、残りの熱を皮膚から離れた場所に閉じ込めて対流や放射によって放散させる。さらには、閉じ込めた熱が皮膚まで伝わらないようにする断熱材の役目も果たしている。だからこそ、サバンナよりきびしい環境の砂漠で暮らすラクダも立派な毛皮を身にまとっているのだ。

それにもかかわらず人類の祖先はどこかで体毛を失い、大量の水を飲んで大量の汗をかかなければ体温調整できなくなった。繰り返す必要はないだろうが、この謎もアクア説ならかんたんに解ける。水棲の哺乳類の多くが体毛を失ったように、そのほうが水中で動きやすいのだ(水中で直立していたのなら、頭髪のみが残ったことも説明できる)。

このようにアクア説はきわめて高い説得力をもっているが、それなのになぜこれまで主流派の学者たちから馬鹿にされ、相手にされてこなかったのか? これについてはそれなりにもっともらしい理由があるだろうが、私は、アクア説を主唱したエレイン・モーガンが在野の女性研究者だったからではないかと考えている。

象牙の塔のプライドの高い男の学者にとって、「どこの馬の骨とも知れない無学の女」が自分たちより正しいなどということは、あってはならないのだ。モーガンがアカデミズムの「男性中心主義」をはげしく攻撃したこともあるだろう。こうしてアクア説は徹底的に無視され、学者たちは無理のあるサバンナ説に固執することになった。

最近になって、化石研究などから「人類の最古の祖先はサバンナではなく森林に住んでいた」との説が唱えられるようになった。ようやく通説に異を唱えることができるようになったのは、サバンナ説の否定に生涯をかけたエレイン・モーガンが2013年に亡くなったからではないだろうか。

グレート・リフト・バレーのタンガニー湖。人類はここで生まれた?(@Alt Invest Com)

赤ちゃんはなぜ「泳げる」のか?

進化論の主流派のあいだではアクア説はいまでもタブーだが、それ以外の分野にはこの「異端」を支持する専門家がいる。

シャロン・モアレムは神経遺伝学、進化医学、人間生理学の博士号をもち、医学研究者でありながら臨床も行ない、医療ベンチャーを起業して画期的な新薬を開発し、さらには医療ノンフィクションでもベストセラーを連発する現代の才人だ。その著作は日本でも翻訳されているが、『迷惑な進化  病気の遺伝子はどこから来たのか』( 矢野真千子訳、NHK出版)でアクア説を取り上げている。

チンパンジーらとの共通祖先から分かれたあと、人類は急速に知能を発達させ、それにともなって脳の容量も大きくなっていった。大きな頭蓋骨をもつ子どもを生むことは困難なので、じゅうぶんに成長する前に出産するほかなくなり、人類は異常なほど早産になった(哺乳類の基準からすれば、ヒトの赤ん坊は“超未熟児”の状態で生まれてくる)。出産時のトラブルで母親が死亡するなどということは他の哺乳類ではほとんどあり得ないが、人類にとって出産はきわめて危険だった。

それにもかかわらず、初期人類は多くの子どもを産みつづけてきた(だからこそ私たちがいま生きている)。だとしたら、困難な出産を助けるなんらかの方法があったはずだ。モアレムは、それが「水中出産」だという。

1600件の水中出産を行なったイタリアの病院では、温水で水中出産した妊婦は分娩が加速され、会陰切開の必要が減り、ほとんどが鎮痛剤なしですませた(通常の出産では妊婦の66%が硬膜外麻酔を求めるが、水中出産は5%だけだった)。

子宮内にいる胎児は息を止めており(代わりに羊水を吸い込んでいる)、顔に空気があたったときにはじめて息を吸う。このとき分娩時の残余物などがいっしょに肺のなかに入ってしまうと感染症を引き起こすが、水中出産なら赤ん坊は呼吸していないので、母親は落ち着いて残余物を顔から拭うことができる。

しかしより決定的なのは、出産直後の赤ちゃんが「泳げる」ことだ。すでに1930年代に、乳児は水中で反射的に息を止めるだけでなく、水をかくように腕をリズミカルに動かすことが知られていた(こうした動作は生後4カ月ごろまでつづき、その後はぎこちなくなる)。「熱く乾燥したアフリカのサバンナで進化した動物の赤ちゃんが、なぜ生まれてすぐに泳げるのか」とモアレムは問うている。

人類は水辺で進化し、サバンナへ向かった

人類がチンパンジーなどの共通祖先から分岐したのが700万年ほど前で、エチオピアなどで400万年~300万年前の人類の化石が発見されている。だとしたらこの間の300~400万年を私たちの祖先はどのように進化してきたのだろうか。

エレイン・モーガンはこの「ミッシング・リング」のあいだ、人類の祖先は海辺で暮らしていたと考えたが、環境の変化で森林が縮小し、樹上生活から徐々に淡水湖や河川などの水辺に移行したとしても同じような「進化」が説明できるだろう。

ヒトはごくふつうに呼吸をコントロールできるが、近縁種であるチンパンジーは意識的に息を止めたり吐いたりすることがうまくできず、これが「しゃべれない」大きな理由になっている。だが水棲生物は、水中で呼吸をコントロールするよう進化してきた。私たちがごくふつうに会話できるのは、祖先たちが水に潜ったことの恩恵かもしれない。

水辺の進化で高い知能とコミュニケーション能力を手に入れた人類にとって、栄養価の高い肉を手に入れることはきわめて重要だった。巨大な脳を維持するには、大きなエネルギーが必要になるのだ。こうして水辺を離れ、大型動物のいるサバンナに向かったと考えれば、人類だけが特異な特徴をもっていることが説明できるだろう。

アディスアベバ国立博物館には、セラム(ルーシーズ・ベイビー)をフランスの研究者が復元した像が置かれている。それが下の写真だが、すぐにわかるように、これはチンパンジーを直立させ、体毛を薄くしたものにすぎない。なぜ化石人類が「サルとヒト(サピエンス)の中間」になるかというと、初期人類が現生人類に近づくようにサバンナで段階的に進化したと考えているからだ。

セラムの骨格/アディスアベバ国立博物館(@Alt Invest Com)
セラムの復元/アディスアベバ国立博物館(@Alt Invest Com)

だがこの大前提は、「なぜそのように進化しなければならなかったのか?」という単純な疑問にうまく答えることができなくなっている。

約300万年前に生きてきたルーシーやセラムは直立二足歩行をしていたのだから、現生人類と同様に体毛のほとんどを消失していたかもしれない。なぜならどちらも「水棲生活」のあいだに獲得された特徴なのだから。

もちろんこれは、いまはたんなる推測にすぎない。だがこのように考えると、エチオピアの博物館にいるルーシーやセラムをもっと身近に感じられるのではないだろうか。

禁・無断転載

遺伝人類学が解き明かす「人類誕生」と「人種」の謎

人類学者の篠田謙一さんと対談させていただいたので、関連記事として、デイヴィッド・ライク『交雑する人類 古代DNAが解き明かす新サピエンス史』(日向 やよい 訳、NHK出版)の紹介をアップします。一緒にお読みいただければ。

原題は“Who We Are and How We Got Here: Ancient DNA and the new science of the human past(我々は何者で、どのようにしてここに至ったのか 人類の過去を探る古代DNAと新しい科学)”(「海外投資の歩き方」のサイトでの公開は2018年10月19日。一部改変)。

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30億ドル(約3300億円)の予算をかけたヒトゲノム計画が完了してわずか十数年で、全ゲノム解析のテクノロジーは驚くべき進歩をとげ、いまでは誰でもわずか数万円で自分のDNAを調べられるようになった。

さらに近年、遺跡などから発掘された遺骨からDNAを解析する技術が急速に進歩し、歴史時代はもちろん、サピエンスが他の人類と分岐する以前の古代人の骨の欠片からDNAを読み取ることもできるようになった。この「古代DNA革命」によって、従来の遺跡調査からはわからなかった人類の移動や交雑の様子が明らかになり、古代史・歴史の常識が次々と覆されている。

デイヴィッド・ライクは、サピエンスとネアンデルタール人の交雑を証明したマックス・プランク進化人類学研究所のスヴァンテ・ペーボと並んで、この「古代DNA革命」を牽引する遺伝人類学者だ。一般向けに書かれた『交雑する人類』では、この魅力的な新分野の成果があますところなく紹介されている。

詳細は本を読んでいただくとして、ここではそのなかから興味深い知見をいくつか紹介したい。とはいえ、その前に用語について若干断っておく必要がある。

日常的に「人類」と「ヒト」を区別することはないが、人類学では両者は異なる意味で使われる。「ヒト」は現生人類(ホモ・サピエンス)のことで、「人類」はヒト族のみならず化石人類(アウストラロピクテス属など)を含むより広義の分類だ(専門用語ではホモ属=ホミニンhomininという)。ここでは、ユヴァル・ノア・ハラリに倣って現生人類を「サピエンス」とし、ネアンデルタール人やデニソワ人など絶滅した古代人を含むホモ属やその祖先を「人類」とする。

本書でいう「交雑」とは、人類のなかの異なる集団(サピエンスとネアンデルタール人)や、サピエンスのなかの異なる集団(アフリカ系とヨーロッパ系)のDNAが混じりあうことだ。これは一般に「混血」とされるが、血が混じり合うわけではないから、科学的には明らかに誤っている。そのため「交配」が使われたりしたが、これはもともと品種改良のことで優生学的な含みがあるため、消去法で「交雑」に落ち着いたのだろう。

そうはいっても、「交雑」には「純血種をかけあわせたら雑種になる」というニュアンスがあり、「彼らは混血だ」というのと、「彼らは交雑だ」というのではどちらがPC(政治的に正しい)かというやっかいな問題は避けられないだろう。しかし私に代案があるわけでもなく、将来、よりPCな用語が定着するまで、本稿でもサピエンス内の集団の性的交わりを含め「交雑」とする。

これまで何度か書いたが、「原住民」と「先住民」では漢語として明確なちがいがある。「原住民」は「かつて住んでいて、現在も生活している集団」で、「先住民」は「かつて住んでいて、現在は絶滅している集団」のことだ。日本では「原住民」が一部で差別語と見なされているが、ここでは漢語本来に意味にのっとり、「アメリカ原住民」「オセアニア原住民」として「(絶滅した)先住民」と区別する。

これまでの常識が覆されていく

進化の歴史のなかでは、ホモ・サピエンス(現生人類)にはさまざまな祖先や同類がいた。ラミダス猿人やホモ・ハビルス、北京原人やネアンデルタール人などの化石人類を含めた人類(ホモ族)は、700万~600万年前にアフリカのどこかでチンパンジーやボノボとの共通祖先から分かれた。

これについては大きな異論はない(あまりに遠い過去で証明のしようがない)が、その後の人類の歴史については、多地域進化説と単一起源説(アフリカ起源説)が対立した。

多地域進化説では、180万年ほど前にユーラシアに拡散したホモ・エレクトス(原人)が各地で進化し、アフリカ、ヨーロッパ、アジアの異なる地域で並行的にサピエンスに進化したとする。それに対して単一起源説では、サピエンスの祖先はアフリカで誕生し、その後、ユーラシア大陸に広がっていった。

1980年代後半、遺伝学者が多様な民族のミトコンドリアDNAを解析して母系を辿り、すべてのサンプルがアフリカにいた1人の女性から分岐していることを明らかにした。これがミトコンドリア・イブで、約16万年(±4万年)に生存したとされる。この発見によって単一起源説に軍配が上がったのだが、これはサピエンスが10~20万年前のアフリカで誕生したということではない。

ライクによれば、この誤解はミトコンドリアのDNAしか解析できなかった技術的な制約によるもので、全ゲノム解析によると、ネアンデルタール人の系統とサピエンスの系統が分岐したのは約77万~55万年前へと大きく遡る。サピエンスの起源は、従来の説より50万年も古くなったのだ。

そうなると、(最長)77万年前からミトコンドリア・イブがいた16万年前までの約60万年が空白になる。これまでの通説では、その間もサピエンスはずっとアフリカで暮らしていたということになるだろう。

ところがその後、サピエンスの解剖学的特徴をもつ最古の化石が発見され、その年代が約33万~30万年前とされたことで、従来のアフリカ起源説は大きく動揺することになる。現時点で“最古のサピエンス”はジェベル・イルード遺跡で見つかったのだが、その場所は北アフリカのモロッコだったのだ(正確には石器や頭蓋の破片が発見されたのは1960年代で、近年の再鑑定で約30万年前のものと評価された)。

アフリカ起源説では、サピエンスはサハラ以南のアフリカのサバンナで誕生し、6~5万年前に東アフリカの大地溝帯から紅海を渡って「出アフリカ」を果たしたとされていた。だが30万年前に北アフリカにサピエンスが暮らしていたとなると、この通説は覆されてしまうのだ。

ホモ・サピエンスはユーラシアで誕生した?

遺伝学的には、サピエンスは「アフリカ系統」と「ユーラシア系統」の大きく2つの系統に分かれる。ユーラシア系統は6~5万年前にアフリカを出て世界じゅうに広がっていき、アフリカ系統はそのまま元の大陸に残った。

この2つの系統は、ネアンデルタール人のDNAを保有しているかどうかで明確に分かれる。ネアンデルタール人はユーラシアにしかいなかったため、サブサハラ(サハラ砂漠以南)のアフリカで暮らすサピエンスとは交雑せず、そのためアフリカ系統の現代人にネアンデルタール人のDNAの痕跡はない。

従来の説では、ネアンデルタール人の遺跡がヨーロッパで多く発見されたため、出アフリカ後に北に向かったサピエンスが交雑したとされていた。だが現代人のDNAを解析すると、非アフリカ系(ユーラシア系)はゲノムの1.5~2.1%ほどがネアンデルタール人に由来するが、東アジア系(私たち)の割合はヨーロッパ系より若干高いことが明らかになった。

その後も、単純な「出アフリカ説」では説明の難しい人類学上の重要な発見が相次いだ。

2008年、ロシア・アルタイ地方のデ二ソワ地方の洞窟で、約4万1000年前に住んでいたとされるヒト族の骨の断片が見つかった。サピエンスともネアンデルタール人とも異なるこの人類は「デニソワ人」と名づけられたが、DNA解析でニューギニアやメラネシアでデニソワ人との交雑が行なわれたいたことがわかった。――ライクは、これをシベリア(北方)のデニソワ人とは別系統としてアウストラロ(南方)デニソワ人と呼んでいる。

さらに、アフリカ系と非アフリカ系のDNAを比較すると、ネアンデルタール人、デニソワ人とは別系統のDNAをもつ集団がいたと考えないと整合性がとれないこともわかった。

ライクはこの幻の古代人を「超旧人類」と名づけ、サピエンス、ネアンデルタール人、デ二ソワ人の共通祖先(約77万~55万年前)よりもさらに古い140万~90万年前に分岐したと推定した。超旧人類はデニソワ人と交雑し、その後、絶滅したと考えられる。

6~5万年前にサピエンスが「出アフリカ」を遂げたとき、ユーラシアにはすくなくともネアンデルタール人とデニソワ人(アウストラロ・デニソワ人)という人類がおり、サピエンスは彼らと各地で遭遇した。交雑というのは性交によって子どもをつくることで、動物の交配(品種改良)を見ればわかるように、きわめて近い血統でなければこうしたことは起こらない。

分類学では、子をつくらなくなった時点で別の「種」になったとみなす。ということは、サピエンス、ネアンデルタール人、デニソワ人は(あるいは超旧人類も)「同種」ということだ。ネアンデルタール人とデニソワ人は同じユーラシアに住み、47万~38万年前に分岐したとされるから「同種」なのもわかるが、それより前の77万~55万年前に分岐し、地理的に隔絶したアフリカ大陸で(最長)70万年も独自の進化をとげてきたはずのサピエンスがとつぜんユーラシアに現われ、彼らと交雑できるのだろうか。

ここでライクは、きわめて大胆な説を唱える。サピエンスもユーラシアで誕生したというのだ。

「ミュータント・サピエンス」説

従来の人類学では、人類はアフリカで誕生し、200~180万年前にホモ・エレクトス(原人)がユーラシア大陸に進出した後も、ネアンデルタール人の祖先やサピエンスなど、さまざまな人類がアフリカで誕生しては繰り返し「出アフリカ」したことになっている。だがなぜ、新しい人類はアフリカでしか生まれないのか? ユーラシア大陸にも200万年前から多くの人類が暮らしていたのだから、そこで進化したと考えることもできるのではないか。

ライクは古代人のDNA解析にもとづいて、ユーラシアに進出したホモ・エレクトスから超旧人類が分岐し、さらにサピエンス、ネアンデルタール人、デニソワ人と分岐していったのではないかと考える。デニソワ人は東ユーラシアから南ユーラシアに広がり、ネアンデルタール人はヨーロッパを中心に西ユーラシアに分布した。だとしたら、サピエンスはどこにいたのか。

ライクの説によると、サピエンスは脆弱な人類で、ネアンデルタール人に圧迫されて中東の一部に押し込められていた。その後、ネアンデルタール人がさらに中東まで進出したことで、約30万年前には北アフリカや東アフリカまで撤退せざるを得なくなった。これが、モロッコでサピエンスの痕跡が発見された理由だ。

ところが6~5万年前に、そのサピエンスが「出アフリカ」を敢行し、こんどはネアンデルタール人やデニソワ人などを「絶滅」させながらユーラシアじゅうに広がっていく。このときネアンデルタール人は中東におり、サピエンスと交雑した。このように考えると、アフリカ系にネアンデルタール人のDNAがなく、東アジア系がヨーロッパ系と同程度にネアンデルタール人と交雑していることが説明できる。ネアンデルタール人の遺跡がヨーロッパで多数見つかるのは、サピエンスと遭遇したのち、彼らがユーラシア大陸の西の端に追い詰められていったからだろう。

中東でネアンデルタール人と交雑したサピエンスの一部は東に向かい、北ユーラシアでデニソワ人と、南ユーラシアでアウストラロ・デニソワ人と遭遇して交雑した。その後、彼らはベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸へ、海を越えてオーストラリア大陸へ、そして千島列島から北海道、本州へと渡り縄文人の先祖になった。

ところで、ネアンデルタール人に圧迫されて逃げまどっていた脆弱なサピエンスは、なぜ他の人類を絶滅させるまでになったか。これについては遺伝学者のライクはなにも述べていないが、ひとつの仮説として、アフリカに逃げ延びた30万年前から「出アフリカ」の5万年前までのあいだに、東アフリカの一部のサピエンスが高度なコミュニケーション能力を進化させたことが考えられる。こうして誕生した「ミュータント・サピエンス」が、マンモスなどの大型動物だけでなく、ネアンデルタール人やデニソワ人など他の人類を容赦なく狩り、男を皆殺しにし女を犯して交雑していったのかもしれない(ニコラス・ウェイド『5万年前 このとき人類の壮大な旅が始まった』沼尻 由起子訳、イーストプレス)。

馬と車輪を手にした征服民族ヤムナヤ

ライクは『交雑する人類』で、DNA分析からヨーロッパ、南アジア、東アジア、アメリカ原住民、オーストラリア原住民、アフリカなどでどのようにサピエンスが移動し、交雑していったのかを説明している。ここではそのなかで、ヨーロッパとインドについて紹介しよう。

1万年前、中東の肥沃な三日月地帯で農耕が始まると、新たなテクノロジーを手にしたひとびとは農耕可能な土地を求めて東西に移住していった。しかしなかには農耕に適さない森林地帯や草原地帯(ステップ)もあり、そこには依然として狩猟採集民がいた。農耕民と狩猟採集民は、時に交易し、時に殺し合いながら暮らしていた。そうした集団のなかには、今日、DNAにしか痕跡を残さない者もおり、ライクはそれを「ゴースト集団」と呼ぶ。

遺伝学的には、8000年前頃の西ユーラシアの狩猟採集民は青い目に濃い色の肌、黒っぽい髪という、いまでは珍しい組み合わせの風貌だったと推定されている。ヨーロッパの最初の農耕民のほとんどは、肌の色は明るかったが髪は暗い色で茶色の目をしていた。典型的なヨーロッパ人の金髪をもたらした変異の最古の例として知られているのは、シベリア東部のバイカル湖地帯でみつかった1万7000年前の古代北ユーラシア人(ゴースト集団)だ。

ヨーロッパの東には中央ヨーロッパから中国へと約8000キロにわたって延びる広大なステップ地帯があったが、5000年ほど前にそこで馬と車輪というイノベーションが起きた。この最初の遊牧民の文化を「ヤムナヤ」と呼ぶ。

馬と車輪で高速移動を可能にしたヤムナヤの遊牧民は、新たな土地を求めて移動を繰り返した。このうち西に向かった遊牧民が現在のヨーロッパ人の祖先だ。

ここでライクが強調するのは、遊牧民がヨーロッパの農耕民と交雑したわけではないということだ。DNA解析によれば、彼らは定住民とほぼかんぜんに置き換わってしまったのだ。

遊牧民が定住民の村を襲ったのだとすれば、男を殺して女を犯して交雑が起きるはずだ。その痕跡がないということは、遊牧民がやってきたときには定住民はいなかった、ということになる。そんなことがあるのだろうか。

ここでの大胆な仮説は病原菌だ。ペストはもとはステップ地帯の風土病とされているが、遊牧民が移住とともにこの病原菌を運んできたとしたら、免疫のない定住民はたちまち死に絶えてしまったはずだ。こうして交雑なしに集団が入れ替わったのではないだろうか。

15世紀にヨーロッパ人はアメリカ大陸を「発見」し、銃だけでなく病原菌によってアメリカ原住民は甚大な被害を受けた。興味深いことに、それとまったく同じことが5000年前のヨーロッパでも起き、「原ヨーロッパ人」は絶滅していたかもしれないのだ。

ナチスの唱えた「アーリア人種主義」は正しかった?

馬と車輪を手にしたステップの遊牧民のうち、ヨーロッパ系とは別の集団は南へと向かい、現在のイランや北インドに移住した。彼らはその後「アーリア」と呼ばれるようになる。

独立後のインドでは、「インド人とは何者か?」が大きな問題になってきた。

ひとつの有力な説は、ヴェーダ神話にあるように、北からやってきたアーリアがドラヴィダ系の原住民を征服したというもの。この歴史観によると、バラモンなどの高位カーストは侵略者の末裔で、低位カーストや不可触民は征服された原住民の子孫ということになる。

だがこれが事実だとすると、インドはアメリカの黒人問題と同様の深刻な人種問題を抱えることになり、国が分裂してしまう。そこでヒンドゥー原理主義者などは、アーリアももとからインドに住んでおり、神話にあるような集団同士の争いはあったかもしれないが、それは外部世界からの侵略ではないと主張するようになった。

現代インド人のDNA解析は、この論争に決着をつけた。

インド人のDNAを調べると、アーリアに由来する北インド系と、インド亜大陸の内部に隔離されていた南インド系にはっきり分かれ、バラモンなど高位カーストは北インド系で、低位カーストや不可触民は南インド系だ。インダス文明が滅び『リグ・ヴェーダ』が編纂された4000年~3000年前に大規模な交雑があり、Y染色体(父系)とミトコンドリア染色体(母系)の解析から、北インド系の少数の男が南インド系の多くの女と子をつくっていることもわかった。

近年のヒンドゥー原理主義は、カーストが現在のような差別的な制度になったのはイギリスの植民地政策(分断して統治せよ)の罪で、古代インドではカーストはゆるやかな職業共同体で極端な族内婚は行なわれていなかったとも主張している。この仮説もDNA解析で検証されたが、それによると、ヴァイシャ(商人/庶民)階級では、2000~3000年のあいだ族内婚を厳格に守って、自分たちのグループに他のグループの遺伝子を一切受け入れていないことが示された。ジャーティと呼ばれるカースト内の職業集団にもはっきりした遺伝的なちがいがあり、インドは多数の小さな集団で構成された「多人種国家」であることが明らかになった。

西ヨーロッパ人と北インドのアーリア、イラン人は同じステップ地方の遊牧民「ヤムナヤ」に起源をもつ同祖集団で、だからこそ同系統のインド=ヨーロッパ語を話す。これはナチスの唱えたアーリア人種主義(アーリアン学説)とよく似ている。

ライクは、バラモンによって何千年も保持されてきた宗教もヤムナヤ由来で、ヨーロッパ文化の基層にはヒンドゥー(インド)的なものがあることも示唆している。

遺伝人類学と人種問題

『交雑する人類』にはこれ以外にも興味深い仮説がたくさん出てくるのだが、それは本を読んでいただくとして、最後に人種問題との関係についてライクの見解を紹介しておきたい。

ここまでの説明でわかるように、DNA解析は歴史を再現するきわめて強力な手段だ。それがサピエンスとネアンデルタール人の交雑であれば科学的な興味で済むだろうが、現代人の異なる集団の交雑を検証する場合、北インド人と南インド人のケースでみたように、きわめてセンシティブな領域に踏み込むことになる。一歩まちがえば「人種主義(レイシズム)」として批判されかねないのだ。

ライクはリベラルな遺伝人類学者だが、耳触りのいい「きれいごと」でお茶を濁すのではなく、この重い問いに誠実にこたえようとする。

リベラル(左派)の知識人は、「人種は社会的な構築物だ」とか、「人種などというものはない」と好んでいいたがる。だが2002年、遺伝学者のグループがゲノム解析によって世界中の集団サンプルを分析し、それが一般的な人種カテゴリー、すなわち「アフリカ人」「ヨーロッパ人」「東アジア人」「オセアニア原住民」「アメリカ原住民」と強い関係のあるクラスターにグループ分けできることを証明した。これはもちろん、「人種によってひとを区別(差別)できる」ということではないが、人種(遺伝人類学では「系統」という用語が使われる)のちがいに遺伝的な根拠があることをもはや否定することはできない。

このことは、もっとも論争の的となる人種と知能の問題でも同じだ。

ヨーロッパ人系統の40万人以上のゲノムをさまざまな病気との関連で調査した結果から、遺伝学者のグループが就学年数に関する情報だけを抽出した。その後、家庭の経済状況などのさまざまなちがいを調整したうえで、ゲノム解析によって、就学年数の少ない個人より多い個人の方に圧倒的によく見られる74の遺伝的変異が特定された。

これも遺伝によって頭のよさ(就学年数の長さ)が決まっているということではないが、「遺伝学には就学年数を予測する力があり、それはけっして些細なものではない」とライクはいう。予測値がもっとも高いほうから5%のひとが12年の教育機関を完了する見込みは96%なのに対して、もっとも低いほうから5%のひとは37%なのだ。

こうした(リベラル派にとって)不都合な研究結果を紹介したうえで、ライクは、「実質的な差異の可能性を否定する人々が、弁明の余地のない立場に自らを追い込んでいる」のではないかと危惧する。私なりに翻案すれば、「扉の陰にいるのは白いネコであるべきだし、白いネコに間違いないし、いっさい異論は許さない」と頑強に主張しているときに、黒いネコが出てきたらいったいどうなるのか、ということだ。「そうした立場は、科学の猛攻撃に遭えばひとたまりもないだろう」とライクはいう。

これは「古代DNA革命」の第一線の研究者として、新しいテクノロジーのとてつもないパワーを知り尽くしている者だけがいうことができるきわめて重い発言だ。門外漢の私はこれについて論評する立場にないので、最後にライクの警告を引用しておきたい。

「認知や行動の特性の大半については、まだ説得力のある研究ができるだけの試料数が得られていないが、研究のためのテクノロジーはある。好むと好まざるとにかかわらず、世界のどこかで、質のよい研究が実施される日が来るだろうし、いったん実施されれば、発見される遺伝学的なつながりを否定することはできないだろう。そうした研究が発表されたとき、わたしたちは正面から向き合い、責任を持って対処しなければならない。きっと驚くような結果も含まれているだろう」

禁・無断転載

大学教育に意味はあるのか?

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載しています。

前回は「あなたの一票には意味があるのか?」をアップしましたが、今回はリバタリアンの経済学者ブライアン・カプランの『大学なんか行っても意味はない? 教育反対の経済学』(みすず書房)を紹介します。原題は“The Case Against Education; Why the Education System Is a Waste of Time and Money(「教育」を被告人とする訴訟事例 教育システムが時間とカネの無駄である理由)”。(公開は2021年5月20日。一部改変)。

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ブライアン・カプランはプリンストン大学で博士号を取得し、現在はジョージ・メイソン大学経済学部教授というエリートだが、「高等教育はほとんどのひとにとって不要だ」という暴論を唱えている。それも、教育学、心理学、社会学、経済学の山のような研究論文を読み、膨大な(そしてスタンダードな)エビデンスを集め、徹底的に検証したうえで、「問題は教育が足りないことではなく、教育のしすぎにある」との結論に達したという。

学校教育は学生たちに役に立つことをほとんど教えていない

アメリカでも日本でも、あるいは先進国・新興国を問わず、学歴が収入に大きな影響を与えている。日本では大卒・大学院卒の男性の生涯賃金は2億6980万円で、高校卒の2億910万円より30%多い(2018年)。アメリカはもっと極端で、大卒の収入プレミアは70~100%(2倍)とされる。

学歴でなぜこれほどの格差が生じるのか。「そんなの当たり前だ。大学教育によって、より高い賃金にふさわしい知識やスキルを獲得したのだ」というのが教育者の答えだろう。労働市場で評価される能力は「人的資本」と呼ばれるから、これは「教育によって人的資本が大きくなる」という説明だ。――カプランは「人的資本純粋主義」を、「ほぼすべての教育が仕事で役に立つスキルを教え、その仕事のスキルや教育が労働市場で見返りをもたらすほぼ唯一の理由である」という思想だと定義する。

人的資本純粋主義では、「より多くの国民により高い教育を受けさせれば、ひとびとはゆたかになり、社会もその恩恵を受ける」とする。事実、どの国も教育に巨額の公費を投入し、高校・大学進学率は一貫して上昇してきた。

だが、このわかりやすい話にはどこか居心地の悪いところがある。もしこれが正しいとすれば、大学までを義務教育にして無償化すればユートピアが実現するはずだが、どれほど理想主義の教育者でもこれを主張するのは二の足を踏むのではないか。

その理由をカプランは、「学校教育は学生たちに役に立つことをほとんど教えていないから」だという。教師はみんな(いわないだけで)このことを知っているので、「教育にもっと公費を投入すべきだ」と大合唱しながら、教育がどれほど人的資本の形成に役立っているかについては口をつぐんでいるのだ。

アメリカの一流私立大学はどこも教育費がきわめて高い。カプランが学んだプリンストン大学の授業料は年額4万5000ドル(約500万円)を超えるが、じつは誰でも無料で勉強できる。学部の講義なら、正規の学生か否かにかかわらず聴講者を拒む教員はいないからで、これはアメリカの他の一流大学も同様だという。

多くの教育者が主張するように、質の高い教育が大きな人的資本を形成するのなら、賢い若者はハーバードやイェール、プリンストン、スタンフォードなどの「ニセ学生」になって、タダで勉強するはずだ(現在では、超一流の学者・研究者の講義がYouTubeなどで公開されている)。

正規の学生と「ニセ学生」は、まったく同じ授業を受けることができるが、ひとつだけちがいがある。それは、「ニセ学生」では卒業証書をもらえないことだ。

かつて、卒業証書は羊皮紙(シープスキン)に印刷されていた。ここから、卒業することによるボーナスは「シープスキン効果」と呼ばれる。

高校3年(あるいは大学4年)で中退した者と、高校/大学を卒業した者とのあいだにも、生涯賃金に大きな格差がある。シープスキン効果は、重要なのは「教育を受けた年数」ではなく、高校や大学を「卒業」したかどうかであることを示している。

学生はこのことをよく知っているので、高い授業料を払って卒業し、「大卒」の学歴を手にしようとする。一流大学の講義をタダで受講できたとしても、そんなものになんの価値もないのだ(だから大学は、「ニセ学生」対策をする必要がない)。オンライン教育も同様で、学生が人的資本ではなく学歴を渇望している以上、既成の教育システムに置き換わるのは無理だろう。

「教育内容ではなく卒業証書に価値がある」というのは、教育者にあるまじき発言に思えるが、カプランは、じつは大学教授こそがこのことをいちばんよくわかっているという。なぜなら、大学は「学歴主義が世界一多く生息している環境」で、「「相応の」学位のない人間など絶対に雇わない」のだから。

アメリカ人の半分は地球が太陽の周りを回っていることを知らない

高校や大学の授業で、「こんなことを勉強して、将来、なんの役に立つのか」と疑問に思ったひとは多いだろう。これに対してカプランは、「なんの役にも立たない」とひと言でこたえる。

旅行やビジネス、学問の共通語は英語で、アメリカ人はみな英語のネイティブスピーカーであるにもかかわらず、高校では人生でほとんど使うことのないスペイン語やフランス語を何年もかけて勉強させられる。三角関数や微積分の知識を必要とする仕事はほとんどなく、科学や工学関連の職業を志すのは高校生の5%程度にすぎない。

2008~09年に心理学の学士号を取得した大学生は9万4000人いるが、アメリカ国内で心理学者として働いているのは17万4000人だ。コミュニケーション学の学士号を取得した学生は(1年間で)8万3000人以上いるが、記者、特派員、ニュース解説者の仕事の「総数」は5万4000だ。歴史学を修めた学生は(1年間で)3万4000人以上いるが、歴史学者として働いている者はアメリカでで3500人しかいない。

仕事に直結しないとしても、高校や大学で学んだことはその後の人生に活かせるとともに、社会の文化レベルを上げるのではないだろうか。だが事実(ファクト)を見るかぎり、この通説が正しいとはいえない。

アメリカでは「総合的社会調査(GSS/General Social Survey)」で、12の基本的な科学知識について一般人の理解の程度を調べている。

正誤二択の質問にたまたま正答する割合を調整すると、「地球が太陽の周りを回っていることを知っているアメリカの成人は半数そこそこしかいない」「原子が電子より大きいことを知っているのはわずか32%」「抗生物質ではウイルスは死なないことを知っているのは14%だけ」「進化の知識がある人はゼロをわずかに上回るほどしかいない」「ビッグバンを知っている人は実質ゼロを下回る(コイントスで回答した方が正答率が高い)」ことになる。

これ以外の調査も同様で、それらを総合すると、「大半のアメリカ人が基礎的な読み書き計算能力を有しているが、優秀と言えるのは13%にすぎない」。歴史、公民、科学、外国語では、初歩を身につけている人すらほとんどいない。「学校がこれらの科目を教えている」というのは言い過ぎで、「これらの科目について教えている」だけだ。「何年間も授業を受けた結果、アメリカの成人は歴史、公民、科学、外国語というものが存在することは知っている。以上」とカプランはまとめている。

なぜこんなことになってしまうのか。理由のひとつは、脳が使用頻度の低い知識を記憶しておくことが苦手だからのようだ。高校で代数と幾何学を取った人の大半は5年後には学んだ内容の半分を忘れ、25年後にはほぼすべてを忘れている。大半のアメリカの成人が保有している学校で学んだ知識は、(使用頻度の高い)基本的な読み書きと計算以外はないに等しい。「平均的なアメリカ人は他の科目の勉強に何年も費やしているのに、それについてはほぼ何も覚えていない」のだ。

学習した内容を覚えていなくても、教育によって培った考え方(論理的な思考方法)は将来の役に立つのではないだろうか。

先に学習したことが、後に学習することに影響を及ぼすことは「学習転移」と呼ばれ、多くの実験研究が理想的と思われる条件でなされている。そのなかのひとつに、軍事の問題の解決法を学び、それを使って医療の問題を解決できるかという古典的実験がある。その結果はというと、学習したことを他の事例に転用できた被験者は5人に1人しかいなかった。

アリゾナ州立大学の学生を対象に、「日常的な出来事についての推論に、統計の概念と方法論の概念を適用できるか」を調べた研究では、高校と大学で6年以上、実験科学から微積分まで学んできたにもかわらず、学生たちは、新聞や雑誌の記事に書かれている日常的な出来事について「方法論を用いた推論」の真似事すらできなかった。回答の圧倒的多数は0点で、「優れた科学的回答」と認められたのは1%に満たない。「被験者は比較対照群、そして第3の変数の制御が必要であることをまったく無視して、「食生活」の例に「きちんと食べるに越したことはない」のような意見で回答していた」のだ。

もちろん、教育の成果がすべて否定されるわけではない。「大学の授業を受けると批判的思考のテストの得点が高くなる」という勇気づけられる調査結果もある。問題は、「教育は教室の外まで批判的思考の向上を継続させることはできていない」ことだ。

多くの研究が明らかにしたのは、教育によって能力が伸びるのは、学生自身が勉強し修練を積んでいるタスクだけだということだ。これは要するに、「面白いと思ったり、得意だったりする分野は、熱心に勉強するから成績が上がる」ということで、教育の成果というより本人の適性ですっきり説明できるだろう 。

ほとんどの生徒は授業に退屈している

教育者なら誰もが知っていながら、あえて口にしないもうひとつの「不都合な事実」が、「生徒たちの大半は授業に退屈している」だ。

高校生の学校に対する感情を調べた「高校生エンゲージメント調査(The High School Survey of Student Engagement)」によれば、高校生の66%が「毎日」授業で退屈しており、17%は毎日「すべての」授業で退屈している(授業が退屈でないという生徒はわずか2%だった)。内訳を見ると、82%が「授業に関心がない」、41%が「授業内容が自分と関係ない」からとこたえている。

中学生に電子端末を渡し、リアルタイムで彼らの気持ちをとらえようとした調査では、生徒たちは授業時間の36%で退屈を感じ、授業以外の活動時間でも17%で退屈していた。生徒の3人に1人が授業に、ほぼ5人に1人が学校そのものに関心がないのだ。

大学生の退屈に関する研究はすくないが、イギリスの調査では59%が講義の半分以上で退屈していた。だからこそ、25~40%の大学生が授業に出てこないのだろう。

プリンストン感情・時間調査(PATS/Princeton Affect and Time Survey)では、無作為抽出したアメリカ人のサンプルに電話をかけ、前日をどのように過ごし、どう感じたのかを調べている。それによれば、教育(3.55)は仕事(3.83)とともに「不快」な活動の最下位を争い、苦痛で最下位の高齢者介護よりかろうじて上だった。

それにもかかわらず、学生たちはなぜ我慢して学校に通うのか。それは現代社会(知識社会)において、学歴が雇用主に対する強力なシグナリングになるからだ。

クジャクのオスは大きくきらびやかな尾羽をもつが、あまりに重くて飛ぶことも逃げることもできなくなり、捕食者の格好の餌食になってしまう。これでは生存にはなんの役にも立たないばかりか、かえってマイナスだ。

ダーウィンはこの問題に悩んだ末に、これを性淘汰で説明できることに気がついた。なんらかの理由でクジャクのメスがオスの大きな尾羽を好むようになれば、「利己的な遺伝子」をできるだけ多く後世に残すために、オスたちは尾羽を生存の限界まで大きくする熾烈な「軍拡競争」に突入する。このときオスの尾羽は、メスに対して「ぼくとセックスすればよりよい子どもができるよ」というシグナルになる。

同様に知識社会では、学歴は雇用主に対して、「わたしを雇えば得をする(高い生産性で利益をもたらす)よ」というシグナルになっている。雇用主が従業員に求めるのは高い知能と高い協調性・堅実性(真面目さ)だが、学歴はこれを低コストで選別できるようにする。難しい入学試験に受かるのは知能が高いからであり、退屈な授業に耐えて卒業までこぎつけたのは協調性と堅実性が高いからだ。これが中退(入学によって知能は証明できたが、協調性・堅実性は証明できていない)よりも卒業証書が大きな価値をもつ理由だ。

シグナリング・モデルの基本要素は以下の3つだ。

1) いろいろなタイプの人間がいなければならない
2) 個々人のタイプは見た目ではわからない状態でなければならない
3) タイプの間には平均に対して目に見えて違いがなければならない

雇用主にとって採用は、この条件を満たしている。実際に働かせてみればほんとうの実力は明らかになるだろうが、それを短い試用期間で見抜くのは至難の業だし、正社員として雇ってから「使えない」とわかっても、解雇には大きなコストがかかる。だとすれば、学歴による「統計的差別」を利用して、(統計的には優秀な)学生を優先的に採用するのがもっとも合理的なのだ。――「おかしな内容を勉強した見返りとして雇用主が給料を上乗せする」といってもいい。

問題はこれによって、クジャクの尾羽と同様に、「学歴の軍拡競争」が勃発することだ。かつては高卒でも「高学歴」だったのに、いまでは大卒が当たり前になり、ITや金融のような高収入の仕事では修士号や博士号をもっていなければ「高学歴」とは見なされないようになった。

増えつづける大卒者に見合う職がなくなっている

仕事に対して学歴が高すぎるのが、「学歴過剰(overqualified)」だが、労働経済学では、受けた教育に比べて仕事の内容が不十分なことを「不完全就業(malemployed)」と呼ぶ。不完全就業(学歴過剰)は、大きく3つの方法で計測されている。

「非典型教育」法では、受けた教育が就いた職業に対して並外れて高いかどうかを調べ、不完全就業率は10~20%だ。

「自己報告法」では、研究者が労働者に、自分の職業に対して受けた教育が過剰か、不足しているか、十分かを質問する。この方法では、不完全就業率は20~35%になる。

「職務分析法」では、研究者が職業を一つひとつ解剖し、その職業に「本当に要求される」教育程度を判断したうえで、労働者の教育がその要件に対して過剰かどうかを確認する。不完全就業率は20~35%だ。

不完全就業の割合がこれほど高いと、レジ係(大卒者が就いている仕事の上位48位)やウェイター(50位)として働く大卒者の方が機械技師(51位)より多いのも不思議ではない。同様に、警備員(67位)や用務員(72位)として働く大卒者はネットワークシステム/コンピュータシステム・アドミニストレーター(75位)より多く、料理人(94位)やバーテンダー(99位)として働く大卒者は司書(104位)より多い。

それに加えて、アメリカの大卒者の不完全就業率は年々上がってきている(2000年の25.2%から2010年には28.2%に上昇した)。リーマンショック後の世界的な不況では、最若年の大卒者の不完全就業率は40%に迫った。アメリカの高学歴の若者たちは、学歴にふさわしい仕事につけていないという大きな不満を抱えている。これが、バーニー・サンダースを熱烈に支援するラディカル・レフトの運動に結び付いたのだろう。

カプランによれば、不完全就業の背景には「学歴が急ピッチで上がりすぎている」ことがある。学歴の軍拡競争に巻き込まれて、多額の借金(学生ローン)を抱えながらなんとか大卒の学歴を取得しても、それに見合う仕事が足りなくなってしまった。「情報化時代についての常套句とは裏腹に、仕事より労働者の方がはるかに変化が速い」のだ。

とはいうものの、学歴社会では、教育が個人にもたらす利益はあいかわらず大きい(だからこそみんなが夢中になって高い学歴を目指す)。問題は、「教育はパイを大きくできないから、誰かの取り分が大きくなれば、別の誰かの取り分は小さくなる」ことで、経済学ではこれを「シグナリングは負の外部性である」という。

学歴というシグナルは、クジャクの尾羽同様、実用的な価値がない。カプランは、高校・大学教育の80%ちかくはシグナリングだとしている。これほど無駄が多ければ、社会にとっては大打撃だ。

アメリカでは、2008年の生徒1人当たりの民間支出は平均900ドル(約10万円)で、それに対して政府の支出はおよそ1万1000ドル(約120万円)だった。2011年にアメリカ連邦政府、州政府、地方自治体が教育に費やした額は1兆ドル(約110兆円)ちかい。

一部の著名な経済学者は、国民の教育程度が上がると国はゆたかになるどころか少し貧しくなるとしている。これは極論としても、経済学者のあいだでは、「教育に社会的なプラス効果があるとしても、それはスズメの涙ほど」という広範な合意があるようだ。

一番よい教育政策は教育をなくすこと

教育の大半が(無意味な)シグナリングで、若者は退屈な学校に押し込められ貴重な時間を無駄にするばかりか、「学歴の軍拡競争」によって多額の借金まで負わされている。この理不尽な現状を変えるにはどうすればいいのか。カプランの提案はシンプルで、「国家が教育から手を引く」ことだ。

まず、「高校以下で歴史、社会、美術、音楽、外国語を教える必要は、実際のところない」。公立大学も非実用的な学部を閉鎖すべきだ。

こうした「役に立たない」学問を学びたいひともいるだろう。その場合は、政府の助成金やローンを受けられない私立大学に非実用的な専攻の学科を創設すればいい。――日本なら、カルチャーセンターで「一流」の講師に興味のある分野を教えてもらえばいいだろう。

次に、公立大学の授業料を大幅に値上げする。助成金はカットするかローンに変えて、借りた学生には市場金利を請求する。私立大学に税金を投入するのをやめ、大学の運営は学費と民間の慈善活動だけでまかなう。なぜなら、「ふつうの人は大学に行くべきではない。もっと言ってしまえば、今のふつうの大学生は大学に行くべきではない」からだとカプランはいう。

こうした「改革」によって大学に行けない若者が増えるが、教育の80%がシグナリングだとすれば、これは悪いことではない。学費の高騰で「学歴の軍拡競争」が続けられなくなれば、雇用主は学歴以外の(より公正な)方法で応募者を採用せざるを得なくなるだろう。

大学進学者が減れば、高卒の学歴が重視されるようになるかもしれない。しかしその場合でも、全員がひとつ下の学歴になるのだから、1人当たり4年分の教育費用が削減できる。

それと同時に、職業教育を充実させる 高校で無駄に過ごすよりも仕事のスキルを身につけた方がずっといいし、退屈な授業に耐えることを強要するよりも、児童労働を認めて、早めに社会に出してオン・ザ・ジョブ・トレーニングをさせるべきだという。

教育が労働者の質の保証にすぎないなら、みんなが教育程度を下げた方が社会にとってはいいはずだ。とはいえこれは、国家が子どもたちの幸福の実現から手を引くことではない。教育支出を80%削減すれば、大型の児童税額控除か、直接支給の児童手当の資金源にできる。これによって子どもの貧困は劇的に解消されるだろう。

労働市場が高い教育を求めるのは、教育が誰の手にも届くからにほかならない。助成金がなくなれば、手に届かなくなった教育はもはや必要なくなる。「一番よい教育政策は教育をなくすこと」なのだ。

こうした提案はどれも、「教育の理想」を掲げるひとたちにとっては腰が抜けるようなものばかりだろうが、膨大なエビデンスをロジカルに検証すればこうした結論に至るほかないことをカプランは説得力をもって示している。それにもかかわらず多くのひとが「教育神話」にとらわれているのは、個人にとって利益になること(これは間違いない)が、社会にとっても利益になること(こちらは間違い)だと素朴に信じているからだ。

知能の高い教育者は、この誤解を逆手にとって、教育に税金を投入させて懐を肥やしている。この悪弊を止めるには、学校と国家を完全に切り離し、「政府はいかなる種類の教育も税金を使って財政支援するのをやめるべき」なのだ。学歴競争の過熱化は社会正義の追求の本道から外れており、「ディストピア的な未来を恐れるよりも、ディストピア的な現在を見つめるべき」だとカプランはいう。

そのカプランは大学教授として、教育のシグナリング効果から大きな利益を得ている。この提案が実現すれば多くの教育者が職を失うだろうし、カプラン自身もその例外ではないかもしれない。

だが「教育神話」はあまりにも強力なので、一介の経済学者がなにをいったところで「学歴の軍拡競争」が終わるはずはない。だとしたら、知識人としての特権を享受しながら「正しい」ことを主張するのがもっともコストパフォーマンスが高いというのが、この「偏屈」な経済学者の合理的なシニシズムということになる。

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