「キリスト教の中心はバチカンではなくモスクワ」という歴史観

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2014年5月公開の記事です。(一部改変)

聖ワシリイ大聖堂 Catarina Belova/Shutterstock

******************************************************************************************

イエス・キリストが磔刑に処せられたのは12使徒の1人ユダが裏切ったからだ――。新約聖書にこう書かれたことで、ヨーロッパではユダヤ人は裏切り者(キリストの敵)と見なされ、迫害の対象となった。

だがちょっと考えればわかるように、イエス自身が「ユダヤ人の王」を名乗り、弟子のほとんどもユダヤ人だったのだから、これは言い掛かりもはなはだしい。キリスト教を受容する過程のなかで、いつのまにかイエスや弟子たちが自分たちと同じヨーロッパ系白人になり、ユダヤ人差別を正当化するためにユダだけがユダヤ人とされたのだ。

キリスト教の歴史のなかで、こうした史実の改変はあちこちで行なわれている。

私たちは欧米経由でキリスト教を理解しているため、無意識のうちにヨーロッパ中心主義を当然のものとしてしまう。宗教革命以前は西ヨーロッパのキリスト教はカトリックだったから、これはカトリック(バチカン)中心史観でもある。

それでは、バチカンが隠蔽し改竄しなければならなかった歴史とはいったい何だろう。それは、「もうひとつのローマ」の存在だ。

初期キリスト教は「ギリシア人の宗教」

イエスの死後、キリスト教は邪教としてローマ帝国の弾圧にさらされた。なかでも“暴君”ネロがローマ大火をキリスト教徒による放火として信者を処刑し、初代ローマ教皇ペテロが逆さ十字にかけられて殉教したことは広く知られている。こうした逸話から、カトリック史観では、初期キリスト教の歴史はエルサレムからいきなり帝都ローマへと移る。

しかしこれは、徒歩やロバで移動するしかなかった当時の交通事情を考えればあり得ない話だ。

キリスト教は、ユダヤ教の選民思想を否定することですべての民族に開かれたグローバル宗教となった。だがこれは、当のユダヤ人にとってはキリスト教を積極的に信仰する理由がない、ということでもある。わざわざ自分たちの既得権(全知全能の神によって選ばれた民族)を放棄する理由はないからだ。

それでは初期のキリスト教はどこで、誰に対して布教を行なったのだろう。

どこで、というのは地図を見れば明らかだ。エルサレム(ユダヤの土地)で布教が進まないのであれば、まずは近くの都市を目指すほかないない。

当時、エルサレムからもっとも近いローマ帝国の大都市はナイル川の河口にあるアレクサンドリアだった。その名のとおりアレクサンドロス大王のエジプト遠征によってつくられた都市で、クレオパトラの死とともにローマ帝国に編入された。

アレクサンドリアに次いでエルサレムに近い大都市は、地中海に面したアナトリア半島(現在のトルコ)西端のアンティオキアだった。アンティオキアはアレクサンドロス大王の後継者の1人ニカトル(セレウコス1世)が築いたセレウコス帝国(セレウコス朝シリア)の首都で、シルクロードの出発点として繁栄し、ローマ、アレクサンドリアと並んでローマ帝国の三大都市とされた。

それでは、初期のキリスト教は誰に対して布教したのか。

アレクサンドロスやアンティオキアはアレクサンドロス大王の遠征によって誕生した都市だ。マケドニアの王子として生まれたアレクサンドロスは、アリストテレスを家庭教師とした古代ギリシア文明の正統な後継者だった。この古代ギリシア文明が、アレクサンドロス大王の東方遠征によって各地に伝播し、古代オリエント文化と融合したのがヘレニズム文化だ。

アレクサンドリアもアンティオキアもヘレニズムを代表する都市で、ひとびとはギリシア語を話し、ギリシアの学問や古典に親しみ、オリンポスの神々を信仰していた。すなわち、彼らは「ギリシア人」だった。

イエスの生きた紀元前後は、アテネやスパルタといった古代ギリシアのポリスは衰退し、文化や学問の中心はアレクサンドリアをはじめとする地中海沿岸の諸都市に移っていた。キリストの教えを最初に受容したのは、こうしたヘレニズム(ギリシア)の知識人たちだった。

初期のキリスト教は、「ギリシア人の宗教」として始まった。だからこそ新約聖書は、ギリシア語で書かれているのだ。

「ヨーロッパ文明は、ヘブライズム(キリスト教)とヘレニズム(古代ギリシア文明)の融合だ」といわれる。ここでいう「ヘレニズム」は、ルネサンスの時期に西ヨーロッパで“再発見”された古典古代のことを指している。だがこれも歴史の歪曲で、イエスの死の直後から、アレクサンドリアやアンティオキアといったギリシア人の都市でキリスト教とヘレニズムは融合していた。

その当時、ローマは政治の中心ではあっても文化的には劣っていると見なされていた。ローマのひとびとはラテン語を使っていたが、知識層はギリシア語でギリシアの古典を学んでいた。そんなローマに、文化の中心だったギリシア(ヘレニズム)世界から最先端の思想/宗教としてキリスト教が伝えられたからこそ、弾圧にもかかわらず急速に信者を増やしていったのだ。

バチカンは生き延びるために歴史を歪曲した

キリスト教の画期は、紀元330年にコンスタンティヌス帝が都をコンステンティノポリス(現在のイスタンブール)に移し、キリスト教を公認したことだった。コンスタンティノス帝は、この新しい都を「新ローマ」と呼んだ。

この遷都によって、ローマ世界にはキリスト教の5つの「聖地」が生まれた。イエス自らが布教を行ない殉教したエルサレム、帝国の首都ローマ、初期のキリスト教が拠点としたアレクサンドリアとアンティオキア、そして帝国の新首都であるコンスタンティノポリスだ。

ローマ帝国の国教となったキリスト教は、第1回のニケヤ公会議(325年)を皮切りに7回の全地公会議によって教義の統一と組織の整備を図ることになる。381年のコンスタンティノポリス公会議では5つの聖地に総主教区を置くとともに、その序列がローマ、コンスタンティノポリス(新ローマ)、アレクサンドリア、アンティオキア、エルサレムと決められた。だがこの頃から、地中海世界を統一した古代ローマの体制(パクス・ロマーナ)が揺らぎ始める。

まず、4世紀後半から始まったゲルマン民族の大移動によって西ローマ帝国が滅亡(476年)する。これによってローマ総主教区(バチカン)は政治的・軍事的な力をすべて失い危機的状況に立たされる。

このときバチカンが選んだのは、宗教的権威によって生き残りを図る道だった。そのためには、ローマが「キリスト教の5つの総主教区のひとつ」では都合が悪い。蛮族の王に対して“法王”を名乗るためには、バチカンが神の唯一の「地上での代理人」でなければならない。こうしてローマ総主教区は残りの4つの総主教区から袂を分かちカトリックとなった。

歴史の次の大きなうねりはムハンマドに始まる7世紀のイスラーム勃興だった。アラビア半島を統一した後、エルサレムを征服したイスラーム勢力はその勢いで東ローマ帝国を攻めるが頑強な抵抗に会い、進路を南にとってエジプトから北アフリカ、イベリア半島(現在のスペイン)南部にまで勢力を拡げる。これによってキリスト教の5大総主教区のうちエルサレムとアレクサンドリアの2つが異教徒の手に落ち、イスラームと対峙する最前線となったアンティオキアも荒廃・衰退していく。

北アフリカを失ったことはキリスト教だけでなく、東ローマ帝国にとっても深刻な事態だった。当時の北アフリカはゆたかな穀倉地帯で、コンスタンティノポリスで消費される小麦はエジプトから運ばれてきたからだ。

スラブ民族の王は正教を選んだ

南側をイスラム勢力に抑えられてしまった以上、東ローマ帝国は北を目指すほかはない。

現在のルーマニアやウクライナのある黒海北岸は当時は蛮族の土地だったが、ゲルマン人が西へと移動し、フン族の勢力が衰退すると、北からスラブ民族が流入してきた。東ローマ(ビザンティン)帝国は北方に勢力を伸ばすためにキリスト教の布教にちからを入れ、スラブ民族を馴致してウクライナを新たな穀倉地帯にしようとした。

8世紀になるとキエフ(ウクライナ語でキーウ)にルーシという東スラブ人の国が生まれた。キエフ大公国とも呼ばれるこの国は、10世紀末のウラジミール大公の時代に最盛期を迎える。

国土の統一を成し遂げたウラジミール公は、王国にふさわしい宗教を取り入れようと考えた。このときの選択肢は、イスラーム、カトリック、正教の3つだった。

宣教師たちの話を聞いたウラジミール公は、イスラームはたくさんの妻を持てるのはいいが、酒を飲んではいけないというのでは人生の楽しみがなくなってしまうと却下した。カトリックと正教は、調査団をローマ(バチカン)とコンスタンティノポリス(アヤソフィア)に派遣してどちらが荘厳かで決めることにした――。このよく知られた話は後世の創作のようだが、ウラジミール公の使節がアヤソフィアを訪れたのは事実で、次のような報告が残されている。

彼ら(ビザンティン人)は、自分たちの教会(アヤソフィア)へ私たちを連れてゆきました。私たちは天上にいたのか地上にいたのかわかりませんでした。地上にはそのような美しい光景はなく、それを語ることもできません……。私たちはその美しさを忘れることはできません(『ロシア原初年代記』987年/井上浩一『生き残った帝国ビザンティン』より)。

全盛期のビザンティン帝国は、文化の程度においても、絢爛豪華さにおいても、戦争と内乱によって財政が破綻していたローマ(バチカン)を圧倒していた。

ウラジミール大公が正教の洗礼を受けたのは、ビザンティン帝国皇帝バシレウス2世の妹アンナを妻として娶ったからだ。ビザンティン皇帝と親族関係を結ぶという栄誉に感激したウラジミール公は、5人の妻と800人の妾と縁を切ってアンナをただ1人の妻とし、さらには妻へのプレゼントとして正教を国教とし、国民全員に洗礼を受けさせた。

ロシアはギリシアから生まれた

スラブ民族がビザンティン人に知られるようになるのは9世紀で、それまでは文字ももたない遊牧民(蛮族)だった。帝国の北縁に住むようになった彼らに最初に布教を行なったのが正教の修道士・聖キリルで、聖書を彼らの言葉に翻訳するためにギリシア文字とヘブライ文字を組み合わせた「キリル文字」、すなわち現在のロシア文字を考案した。

聖キリルたちの伝道によって、945年にブルガリアがキリスト教を国教とし総主教座が設置される。次いでキエフ(ウクライナ)やセルビアにもキリスト教は浸透し、正教の教えはスラブ民族の文化や生活と一体化していく。

その後、キエフ朝は分裂し、さらにはモンゴルの襲来を受け、ロシアは混乱期を迎える。だがモンゴルは宗教にまったく関心を示さなかったため、この時期も正教は勢力を拡げ、モスクワ朝がタタールのくびき(モンゴル支配)を脱してロシアを再統一すると、総主教座もキエフからモスクワへと引き継がれる。ウクライナ問題がこじれるのは、ロシア人からすると、そこが他国(別の主権国家)ではなくロシア(ルーシ)の一部だからだ。

ビザンティンとロシア(スラブ民族)の歴史をたどると、この国の奇妙な出自が見えてくる。

ロシアというのは、ビザンティン人によって“発見”されるまでは文字もなければ文化もない蛮族の集団でしかなかった。それが聖キリルによって文字を与えられ、正教に改宗することで文明の光に浴し、ようやく“ひと”として認められるようになったのだ。

前回述べたように、ビザンティン帝国というのはギリシア人の国だった。だとすれば、「ロシアはギリシアから生まれた」ことになる。

参考:ビザンティン帝国はギリシアだった

モンゴルに支配されたことをロシアの屈辱の歴史とする見方がある。だがそれ以上に、自分たちの文字も文化も宗教も、すなわちアイデンティティのすべてがギリシアからの借り物だということの方が彼らにとって深刻な問題ではないだろうか。

だがここで、(ロシアにとって)ものすごく都合のいいことが起きる。1453年にビザンティン帝国がオスマン帝国に攻め滅ぼされてしまったのだ。

ビザンティン帝国滅亡後、ロシア(モスクワ朝)のイワン3世はビザンティン最後の皇帝の姪を妃に迎える。このことによって、ロシアはビザンティン帝国の正統な後継者を名乗ることになった。イワン3世は「大公」から「皇帝」となり、ビザンティン帝国の双頭の鷲を紋章に掲げた。

コンスタンティノポリスの陥落で、正教の4つの総主教区はすべてイスラームの手に落ちた。正教の主座はロシア帝国に移り、モスクワはローマ、コンスタンティノポリスに次ぐ「第三のローマ」になった、

“ビザンティン史観”に立つと、ヨーロッパのまったく別の姿が見えてくる。

ローマ帝国の正統は、コンスタンティノポリス(新ローマ)を経てモスクワ(第三のローマ)に継承された。キリスト教の正統である総主教の座もローマ(バチカン)ではなくモスクワにある。

ドストエフスキーの長編小説に登場する帝政ロシア末期の知識人たちは、西欧近代との遭遇によって、農奴制の「遅れたロシア」と、神に愛でられた「聖なるロシア」に引き裂かれて煩悶する。帝政ロシア→ソ連→ロシアの歴史は、ずっとこの「自虐」と「自尊」のあいだで揺れてきた。

そう考えると、西ヨーロッパとロシアの関係がたんなる政治的な利害得失ではないことがわかるだろう。ロシアにとって、欧米の“カトリック史観”は歴史の歪曲でしかない。それは歴史と宗教の正統をめぐる根本的な対立なのだ。

禁・無断転載