「自立した自由な個人」によって成り立つ高福祉社会はユートピアか

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2016年7月7日公開の「「自立した自由な個人」により成り立つスウェーデンの高福祉。 移民流入により、その社会実験の結末はどうなるのか?」です(一部改変)。

wjarek/Shutterstock

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前回、スウェーデンの「積極的労働市場政策」を紹介したが、その徹底した市場原理と経済合理性に驚きながらも、強い違和感を覚えたひとも多いだろう。

参考:「新自由主義(ネオリベ)型福祉国家」スウェーデン

「自立した自由な個人」による福祉社会

スウェーデンの基本原理は、「自立した自由な個人」による福祉社会という理念だ。これは1970年代までの「労働者の楽園」が公共部門の肥大化と不況によって破綻したあと、さまざまな改革によって、グローバル化する市場経済のなかで福祉国家の理念を維持しようと試行錯誤した結果でもある。こうした事情は近隣諸国もほぼ同じで、文化的にも近い(スウェーデンとデンマークは言語もほぼ同じ)国がさまざまな社会政策を実施し、隣国とのあいだで影響しあうことによって、「実験国家」「未来社会」と呼ばれるきわめて合理的な社会がつくられていった。

一方でこうした社会を、人間の本性に反したグロテスクなものと見なす批判も絶えなかった。彼らにとってスウェーデンは、ジョージ・オーウェルの『1984』が現実のものとなった超管理社会であり、「人道の皮をかぶった全体主義」なのだ。

こうした拒絶感を生む理由のひとつは、北欧社会の徹底した個人主義にある。イタリアやギリシア、スペインなど「南のヨーロッパ」はいまでも二世代、三世代がひとつ屋根の下に暮らすのがふつうだが、スウェーデンでは高齢者と子どもが同居する割合は4%しかない。もちろんスウェーデンでも親子の愛情は変わらないが、それは郊外などに住む子どもや孫が週末に一人暮らしの老親を訪ねてくる、というかたちで表現される。

高齢者はできるだけ施設の世話にならず、バリアフリー化した自宅で暮らし、介護が必要になるとヘルパーが常駐する特別住宅に転居して、できるかぎり在宅介護のまま「自立」した生活をつづけるよう促される。これは高齢者用施設の運営に多額のコストがかかるためだが、家族と離れ一人暮らしのまま孤独に過ごす老後を「南のヨーロッパ」のひとたちは幸福な人生とは思わないだろう。

だがその一方で、南欧の家族主義が無条件に素晴らしいわけではない。北欧諸国が高い出生率(女性1人あたり1.9人前後)を維持しているのに対し、スペインの合計特殊出生率は1.32人、イタリアは1.40人(いずれも2012年)と1980年代から急速に低下している。家族を中心とした社会で家族が崩壊し、個人主義の社会で家族が維持されているのだ。

こうした矛盾が起きるのは、伝統的な家族制度が新しい時代に適応できていないからだ。その結果、グローバル化、知識社会化が進むにつれて、ひとびとは子どもを産まなくなっていく。だからこそ、家族を頼らなくても子育てができるよう合理的に設計された社会でこそ家族の価値は守られるのだと、(自由主義的な)福祉国家を擁護するリベラリストはいうだろう。――この指摘は日本にもそのまま当てはまる。

現実に社会の効率性・透明性・平等性などのあらゆる指標で、「北」が「南」を圧倒していることは間違いない。「南」のひとたちは「北」と同じように社会を改造するよう求められている。ギリシア危機でアテネを埋め尽くしたデモの群集はEUやドイツに対して理不尽とも思える要求を繰り返したが、彼らの心情の根底には自分たちが大切にしてきた価値観を根こそぎ否定されるような怒りがあるのだろう。

だがこのことは、私たち日本人にとっても無縁ではない。安倍政権が(民主党政権から引き継いで)行なうさまざまな改革にも、「北のヨーロッパ」からの影響が顕著に見られるからだ。

民間企業に個人情報を提供

日本でもマイナンバーの施行が決まったあと、「国民総背番号による管理社会の先進国」としてスウェーデンの実情が紹介される機会が増えた。その実態には、日本人の常識からは考えられないようなことも多い。そのひとつが個人情報の民間への提供だ。

スウェーデンは世界最先端の電子政府サービスを行なっているとされるが、それが可能になるのは、税務・社会保障分野のみならず一般行政サービスや民間サービスに至るまでマイナンバーが活用されているからだ。具体的には、所得税の確定申告から失業保険、児童手当など社会保障の給付申請、医療費の支払い・決済、年金情報の提供、パスポートや運転免許証の個人認証、自動車登録、建築許可申請、警察への盗難届提出、公立図書館の利用、出生届、婚姻届の提出、大学・大学院への入学手続き、引越しによる住所変更、診療予約などほとんどの行政手続きを、番号を用いた個人認証によって、自宅に居ながら電子的に済ませることができる。

民間利用についても、銀行・証券会社における口座開設、クレジットカードの利用、保険取引、賃貸住宅の契約、携帯電話の新規契約など金融取引や各種契約手続きにおける本人確認に個人番号が利用されるため、番号なしでは生活できないといわれるほど国民生活に浸透している。日本におけるマイナンバー制度も、将来的にはこうした方向を目指していることは間違いないだろう。

そのなかでも特徴的なのは、SPAR(Swedish Population and Address Register)という国税庁所管の機関だ。SPARの役割は住民の正しい姓名と住所情報を社会に提供することで、行政機関や企業、個人の申請に基づき、姓名と住所情報を有料で提供している。情報提供先は国の省庁、自治体のほか、銀行、保険会社、国営薬局、信用調査会社、投資調査会社、大学、マスメディアなどで、金融機関や民間企業は年齢、性別、所得などで条件付けし、検索・抽出された情報をアンケート調査やダイレクトメールの送付に利用している。

隣人の所得も閲覧可能

もちろんスウェーデンでも個人情報の悪用は厳格に規制されており、情報提供の可否はSPAR委員会で審査を行なったうえで決定している。また個人情報をマーケティング目的で使われるのが嫌なひとはオプトアウト(拒否の選択)をすることもできるが、実際に拒否しているのは13万人(人口比1.4%)程度で、大半のスウェーデン人は便利な制度だと認識しているのだという。

個人情報の取扱いで特筆すべきは、所得情報が「出版の自由法」に含まれる「公文書公開の原則」のもと、申請があれば原則開示される公開情報になっていることだろう。これは他人の所得や納税額を閲覧できるということだ。

なぜこのようなことが認められるかというと、スウェーデンでは「個人情報」と「プライバシー情報」が異なる概念として区別されているからだという。

具体的には、プライバシー情報は以下の3つの条件をすべて満たすものをいう。

(1) 個人の私生活上の事実に関する情報(私事性)
(2) 一般の人に知られていない情報(非公開性)
(3) 一般人の感受性を基準にして、通常公開を欲しないと考えられる情報。ただし、本人が自ら公開している場合はプライバシー情報とはならない。

これに対して「個人情報」は、私生活上の情報であるかどうかや、公開を望むかどうかも関係なく、世間に広く知られている情報(電話帳に掲載されている情報)などをいう。そしてスウェーデンでは、プライバシー情報は守られるべきだが、個人情報の提供は国民の義務であると同時に、権利を正当に行使するための手段でもあり、自己の正当な権利を守るために情報提供が必要だと考えられているのだ。

この意味で所得情報は、社会保障給付の権利を守るために、また適切な納税などの義務を果たすために必要かつ重要な個人情報であり、プライバシー情報ではない。これをわかりやすくいえば、隣人が高級車を買うなど急に羽振りがよくなったときは、所得情報を閲覧して正しく納税しているかを確認し、申告している所得額が生活水準からかけ離れているときは積極的に税務当局に情報提供することが「国民の義務」とされているということだ。

*その後、この制度の悪用が問題になったが、制度そのものは維持されたまま、誰が自分の所得情報を閲覧したかを確認できるようになった。

こうした特異なプライバシー感覚が『1984』の管理社会と揶揄される所以なのだろう。

働かざる者ゆたかになるべからず

「福祉国家」のイメージに反して、スウェーデンの年金の特徴は「所得比例」が徹底されていることだ。これは現役時代にたくさんの年金保険料を納めればそれに応じて年金額も増え、働かずに年金保険料を納めていないと年金額もその分少なくなるということだ。スウェーデンでも年金は個人別の積立ではなく賦課方式が主で、それに積立方式が加わっているが、負担と給付の関係が明確で、自分がいくらの保険料を納め、どの程度の年金を受け取れるかがはっきりわかるようになっている。

もちろんこのままでは年金を受け取れない高齢者の貧困が社会問題になるので、「保証年金」が設定されている。これは日本の基礎年金に相当するように思われるが、スウェーデンでは年金が一定額を超えると保証年金はなくなり、所得比例年金だけになるから、両者は似て非なるものだ。

日本の基礎年金はすべての受給者が受け取るため、年金給付総額に占める割合は5割ちかくに達する。それに対してスウェーデンでは保証年金の割合は8%、受給者の割合も4割程度にとどまる(所得比例年金の額が増えれば、そのぶん保証年金は減額される)。

スウェーデンが福祉国家であることは間違いないが、それは同時に「働かざる者ゆたかになるべからず」の原則が徹底している厳しい社会でもある。だからこそスウェーデンのひとたちは男も女も、ゆたかな老後のためにすこしでも長く働き、より多く年金保険料を払おうとするのだ。

こうした仕組みが持続可能であるためには、年金制度への磐石な信頼が前提になる。将来、年金制度が破綻してしまうのであれば、納めた保険料は丸損になってしまう。こうした不安がすこしでもあれば、ひとびとは真面目に保険料を払おうとはせず、国の年金制度を拒否して「自分年金」を積立てようとするだろう。

年金が持続可能な4つの条件

スウェーデンの年金制度は、以下の4つの条件を持たすことで成立している。

(1) 低い高齢化率

スウェーデンの年金も現役世代が退職世代を支える賦課方式である以上、高齢化が急速に進めば破綻してしまう。だがスウェーデンは1.91と人口置換水準に近い出生率を維持し、高水準の移民の流入(総人口における移民の割合は13.9%)の効果もあって、高齢化率は17.9%にとどまっており、2050年でも24.1%までしか上がらない(日本の高齢化率は先進国でもっとも高い22.7%で、2050年には39.6%になる)。

(2) 公平な労働市場

所得比例年金は支払った保険料に基づいて年金が給付されるクリアな仕組みだから、雇用機会がすべての国民に平等に提供され、労働に対して正当な賃金が支払われることが大前提になる。労働市場において男女間の就労条件に格差があったり、正規・非正規の「身分」格差があったりすると、差別がそのまま年金給付に反映されてしまう。スウェーデン政府が労働市場における機会平等を徹底しようと躍起になるのは、たんに彼らがリベラルなだけではなく、そうしなければ労働者の信用を失い年金制度が崩壊してしまうからだ。

(3) 現役世代向けの所得保障

スウェーデンの年金制度は「働かざる者ゆたかになるべからず」の厳しい制度だが、あまりに厳しすぎると制度から脱落してしまう者が続出するだろう。男女平等とはいっても、女性が出産・育児にともなって長期の休業を余儀なくされるのはスウェーデンでも同じだし、病気などの事情で職を失うこともあるだろう。

そこでスウェーデンでは、現役世代向けの所得保障が行なわれている。出産・育児休業中や失業中は、政府から手当てを受け取り、そこから年金保険料の自己負担分を支払う。事業主負担分は、政府の一般会計で肩代わりする。こうした施策によって、スウェーデンの現役世代向けの社会保障給付は対GDP比で10.5%に及ぶ(日本は2.2%)。

(4) 包括的かつ正確な所得補足

所得年金が機能するためには、国民の所得が正確に補足されていなければならない。そうでなければ最低限の所得しか申告せずに蓄財し、現役世代向けの所得保障で年金保険料を納め、受給する際には所得比例年金に加えて最低保証年金まで受け取る者が出てくるだろう。こうしたモラルハザードを防ぐためにも、納税者番号制による厳密な所得把握と、所得・納税情報の公開が必要になるのだ。

福祉制度の根幹にあるのは制度に対する高い信頼感

第二次世界大戦の悲惨な経験を経て、国家の役割は「国民の幸福の最大化」に変わったのだから、政府が充実した社会保障を提供するのは当然だと多くのひとが思うだろう。だがすぐにわかるように、無から有を生むことはできず、福祉の提供にはそのための財源が必要になる。財源なしにばらまきを続ければ、借金はとめどもなく膨らんで国家は破綻してしまうだろう。

このように考えれば、高福祉の前提が制度の健全性、頑健性にあることは明らかだ。

スウェーデン政府も当然そのことはわかっていて、高齢化の進展を極力抑制するとともに、年金制度を持続可能なものにするためのさまざまな工夫をこらしている。

日本ではマクロ経済スライドによる調整がようやくはじまったものの、年金受給額の減額は政治的に大きなタブーだった。ところがスウェーデンでは、年金額は総受給額を平均余命で割って算出され、60歳時点の平均余命が20年なら、(ヴァーチャルな)個人勘定に積み立てられた年金資産を20で割った額が年間受給額になる。平均余命が25年に延びれば、当然、序数が大きくなる分だけ受給額は減ってしまう。予定していた額と同じ年金を受給しようとすれば、65歳まで現役生活を延長するしかないのだ(実際にはこれほど単純ではなく、さまざまな調整が行われる)。

これに加えて、年金の自動収支均衡機能によって、高齢化や積立金の運用利回り悪化などによる影響から制度を守っている。これは所得年金に関し、毎年末にバランスシートを作成し、収支が悪化していれば、政治家が躊躇しがちな法改正を必要とせずに、自動的に給付を抑制する仕組みだ(保険料は固定されている)。

こうした制度的工夫によって、スウェーデンの国民は自分が老年になっても年金制度が維持されていると「合理的に期待」できる。そうでなければ、労使合わせて収入の4割近い社会保険料を何十年も払いつづけようとは思わないだろう(年金だけでなく、疾病保険、育児休業保険、労災保険、一般給与税を含む)。

こうした事情は、国の財政でも同じだ。

日本では、社会福祉とは「貧しいひとを税金で援助する」ことだと考えられている。これを「救貧的」福祉とするならば、スウェーデンの場合は「普遍的」福祉で、出産・育児からはじまって、保育・学校教育、失業、成人教育、医療、高齢者福祉など、ライフサイクルのあらゆる場面で国家が国民の生活を支援する。ここでのポイントは、「所得の多寡にかかわらず」すべての国民に同等の福祉が提供されることだ。

ただし現物提供の福祉サービスは、所得比例年金とは異なり、裕福なひとほど豪華で、貧しいひとほど貧弱なものにすることはない。その結果、普遍的福祉でも豊かなひとから貧しいひとへの所得の移転が起こるのだ。

こうした仕組みを機能させるためには、当然、国民の税・社会負担は大きくなる(税・社会保障費を合わせた国民負担率は、2013年度で日本の41.6%に対してスウェーデンは55.7%)。これだけの負担を国民に要求する以上、国家は福祉の持続可能性を国民に納得させる責任を負う。これが、財政を健全に保たなければならない理由だ。

そのため北欧諸国は、どこも強力な歳出コントロールの仕組みを備えている。スウェーデンは景気循環を通じて平均2%の財政黒字を確保する目標を設定しているし、フィンランドは財政収支を均衡させるために中央政府の歳出上限を設定する制度を導入した。同様に地方財政にも厳しいルールが科され、ノルウェーでは財政赤字に陥った場合は2年以内に解消しなければならず、その後は国の監視下で強制的に財政再建が進められる。

北欧の福祉制度の根幹にあるのは国民の制度に対する高い信頼感で、その担保となっているのが健全な財政と頑健な年金制度だ。それがあってはじめて、税・社会保険料は「負担」ではなく「将来に対する積立」として意識されるようになる。こうして、税・社会保険料を支払ったあとの可処分所得を現役時代にすべて使い切っても老後の心配をする必要がなく、人生を楽しむことができるようになるのだ。

「存在してはならないひとびと」という福祉社会の闇

このように書くと北欧の制度がなにもかも素晴らしいように思えるかもしれないが、最後にその負の側面にも触れておこう。その現実は近年、「労働市場から疎外されたひとびと」として顕在化してきた。

これまで述べてきたように、「北欧モデル」とは自由で自立した個人を前提として、彼らが自分の能力(人的資本)を最大限に開発・発揮できるよう国家が支援したうえで、公平で流動性の高い労働市場と、効率的で競争力のある企業(資本市場)から得る果実を充実した福祉につなげていくというものだ。そこではすべての国民が自分のできる範囲で「がんばって働く」ことは当然とされており、「働けるのに働かない」者がいることは制度として考慮されていない。

もちろんどんな社会にも福祉に依存する以外に生きる術がない者が一定数いることは避けられない。南のヨーロッパや日本では、これまでこうしたひとたちは家族が面倒を見ることで顕在化しなかったが、個人主義を徹底する北欧社会では家族のバッファーが薄いため福祉依存が目立ちやすい。

とりわけ中東やアフリカからの移民は、さまざま理由(そのなかには本人の責任もあれば、北欧社会にも潜在する人種的差別もあるだろう)で、長期の失業生活を続ける若者が急速に増えている。そして彼らは、「自由と自己責任」の北欧社会では、制度的に、存在してはならないひとびとなのだ。

もちろんこれは、北欧の福祉制度が不道徳だとか、正義に反するということではない。さまざまな国際調査が示すように、彼らが世界でもっとも効率的で公平な「リベラル」な社会をつくってきたことは間違いない。

だが光が強いほど、闇もまた深い。スウェーデンやデンマークなど、北欧諸国で移民排斥を求める右翼政党が軒並み支持を伸ばししているのは象徴的だ。北欧の野心的な社会実験がどのように変質していくのか、その結末を知るのにそれほど長く待つ必要はないだろう。

*今回の記事も湯元健治・佐藤吉宗『スウェーデン・パラドックス 高福祉、高競争力経済の真実』、翁百合、西沢和彦、山田久、湯元健治『北欧モデル?なにがイノベーションを生み出すのか』(ともに日本経済新聞出版社)を参考にしました。

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