誰も「遺伝」から逃れることはできない(『運は遺伝する』まえがき)

行動遺伝学の日本における第一人者、安藤寿康さんと対談したNHK出版新書『運は遺伝する 行動遺伝学が教える「成功法則」』のまえがき「誰も「遺伝」から逃れることはできない」を出版社の許可を得て掲載します。明日(10日)発売ですが、一部の書店さんではすでに店頭に並んでいるようです。見かけたら手に取ってみてください(電子書籍も同日発売です)。

******************************************************************************************

どんな質問にも人間と区別のつかない返答をする生成AI(人工知能)「ChatGPT」が世界中で大きな話題になっているが、これは近年の「とてつもない」テクノロジーの進歩の一例でしかない。

分子遺伝学では、ワープロのようにゲノムを自在に挿入・削除・編集する「クリスパー・キャスナイン(CRISPR–Cas9)」が実用化されつつある。脳科学では、光に反応する物質(ロドプシン)を脳のニューロンに送り込み、神経細胞一つひとつをミリ秒単位で操作する「光遺伝学」というSFのような技術が登場した。社会・経済でも、ブロックチェーンを使って中央集権的な組織なしに貨幣を発行するだけでなく、あらゆる取引・契約の真正性を、人間の手を介さずにデジタル上で証明するスマートコントラクトが従来の制度・慣習を大きく変えようとしている。

これまでの「学問」は、物理学や化学、生物学など自然を対象とする「理系」と、経済学、法学、社会学、心理学(あるいは文学や美学)など人間と社会を対象とする「文系」に分かれ、それぞれの領域は暗黙のうちに不可侵とされていた。ところがいま、その境界が崩れ去り、自然科学が人文・社会科学を侵食し、書き換えようとしている。

ダーウィンは『種の起源』で進化論を唱えたが、その仕組みが完全に解明されたのは、ワトソンとクリックが1950年代にDNA(デオキシリボ核酸)の二重らせん構造を発見したときだ。こうして生命が、A(アデニン)、G(グアニン)、C(シトシン)、T(チミン)というたった四つの塩基で記述されるアルゴリズムであるという、驚くべき秘密が明らかにされた。

これを機に多くの生物学者が、生き物のプログラムの解明に取り組んだ。これが進化生物学で、社会性昆虫の「利他性」の解明(ダーウィンは生存と生殖の最大化を目的とする個体が利他的になることを説明できなかった)などで大きな成果をあげた。また動物行動学では、チンパンジーなどの近縁種がヒトとよく似た性向をもつことが次々と報告された。

大量の研究の蓄積を経て、やがて生物学者たちの関心が同じ生き物(動物)であるヒトに向かうのは必然だった。1975年にはアリの社会性を研究してきたエドワード・O・ウィルソンが、生態学、集団遺伝学、動物行動学などを総合する大著『社会生物学』の最終章で、ヒトもまた進化の産物である以上、文化や社会を含め、人間と社会に関わるあらゆる現象は自然科学で説明されるようになるとの展望を述べた。

だがこの当時、ナチスの優生思想がホロコースト(ユダヤ人絶滅)を引き起こしたとの反省から、遺伝を人間の領域にもちこむことはタブーとされていた。わたしたちはブランク・スレート(空白の石版)として生まれ、環境によってどのようにでも変わるというのだ。

この「環境決定論」は、第二次世界大戦後に訪れた「とてつもなくゆたかで、とてつもなく平和な社会」の高揚のなかで、「よりよい社会を目指せばみんなが幸福になれるはずだ」というリベラルの理想主義とも見事に合致していた。その結果、ヒト以外の生き物を遺伝で論じるのは許されるが、人間の能力や性格、精神疾患などにすこしでも遺伝の影響があると示唆することは、ナチスと同じ「遺伝決定論」だとして徹底的に批判され、学者としての社会的存在を抹消(キャンセル)されることになった。

ウィルソンの著作に端を発するこのキャンセル運動は「社会生物学論争」と呼ばれ、それを主導したのは日本でも人気のある古生物学者のスティーヴン・J・グールドと、集団遺伝学者のリチャード・レウォンティンだった(いずれもハーバード大学でウィルソンの同僚で、レウォンティンを大学に招聘するために尽力したのはウィルソンだった)。

1970年代から30年ちかく続いたこの論争では、当初は「社会正義」が優勢だったが、自然科学者が「ヒトも進化の産物である」ことを否定するのは困難で、90年代になると、社会生物学者や進化心理学者らから突きつけられた大量の証拠(エビデンス)に対抗できず、グールドの反論は言葉遊び(レトリック)のようなものになっていった。

日本では残念ながら、この社会生物学論争はほとんど知られておらず、その結果この国の「文系知識人」は、いまだに半世紀も前の「知能(犯罪性向、あるいは精神疾患)が遺伝するなんてありえない」という虚構の世界に安住している。

だがすでに欧米では、ポピュラーサイエンスはもちろん自己啓発書ですら、行動遺伝学や進化心理学の知見を前提とするようになり、日本でも人類史を進化の視点から語るユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』がベストセラーになった。ひとびとはすでに虚構(きれいごと)に気づいており、遺伝の影響を無視したこれまでの学問(とりわけ発達心理学や教育社会学)は10年もすれば捨て去られ、20年後には忘れ去られているだろう。

この「知のパラダイム転換」を日本で牽引する一人が、行動遺伝学の泰斗、安藤寿康氏だ。今回、安藤氏と対談させていただく機会を得て、自然科学の視点から人間や社会をどのように理解すべきかを縦横に論じていただいた(答えにくい質問にも誠実に対応していただいた)。

ここで強調しておきたいのは、本書で紹介する行動遺伝学の知見が、現在ではヒトゲノムを解析する驚異的なテクノロジー「GWAS(ジーワス:ゲノムワイド関連解析)」によって裏づけられていることだ。もはや誰も、この事実(ファクト)から逃れることはできない。

わたしたちにできるのは、それにどう対処するかだけだ。

橘 玲