ティーパーティのひとたち

ティーパーティと呼ばれる中流白人層が、アメリカの政治で大きな存在感を持つようになっています。日本のメディアでは、彼らのことを「リバタリアン」と呼ぶようですが、これについては異論があるので、ここで述べておきます。

リバタリアニズムLibertarianismは自由Libertyを至上のものとする政治思想で、世界じゅうのすべてのひとが、人種や国籍、性別、宗教のちがいなどにかかわらず、「自由に生きる権利」を平等に有していると考えます。

リバタリアンによれば、ひとはどこで生まれても、自分の才能や能力をもっとも活かせる場所で働くことができるべきです。「メキシコに生まれたからアメリカでは働けない」というのは、「黒人に生まれたから一流企業には就職できない」というのとまったく同じ差別だからです。

このようにリバタリアンは、人種差別や性差別に反対するのと同様に、「国籍差別」による移民規制に反対します。

ところである国が手厚い社会保障制度を有しているとして、同時に移民規制を撤廃したとすれば、生活保護や医療保障を目当てに貧しい国々からの移民が殺到して財政は破綻してしまうでしょう。このシンプルな例からも明らかなように、社会保障と移民自由化は両立しません。

リバタリアンは原理主義ですから、すべての国境をなくし、世界じゅうのひとが、どこでも自分の好きな場所に移住し、仕事を見つけ、生活できるべきだと考えます。このような移民自由化を理想として選択するならば、必然的に、国家による社会保障をあきらめるほかはありません。

このようなロジックで、リバタリアンは「小さな政府」を主張します。「国民」という特権的な集団への手厚い社会保障は、「国民」に属さないひとびとの排除を前提としているからです。

それに対してティーパーティは、増税や社会保障の拡充に反対しますが、それと同時に、移民規制の強化も強く主張しています。これは中流白人層の家計が逼迫し、これまでと同じ「ゆたかな」生活を維持することが困難になったことで、彼らの怒りが、「自分たちの職を奪う」移民や「税金でいい思いをしている」社会的弱者に向かうようになったためでしょう。

このように、ティーパーティの主張する「減税」「社会保障縮小」「財政均衡」がリバタリアンの求める「小さな政府」と重なるとしても、両者の思想は根本的に異なるものです。

それでは、ティーパーティの“怒りの政治”とはどのようなものなのでしょうか。

ここでは、アメリカを代表するリベラル派の論客ロバート・ライシュの分析を紹介しておきます(『余震 アフターショック』)。

以下は、ティーパーティを支持基盤とする「独立党」という架空の政党の綱領(マニュフェスト)です。

  • 不法移民に対するゼロ・トレランス(いかなる例外もなく取り締まる)
  • ラテンアメリカ、アフリカ、アジアからの合法移民の凍結
  • 全輸入品の関税引き上げ
  • 米国企業の外国への事業移転や海外へのアウトソーシングの禁止
  • 海外の政府系ファンド(ソブリン・ウエルス・ファンド)による米国への投資の禁止
  • 国連、世界貿易機関(WTO)、世界銀行、国際通貨基金(IMF)からの脱退
  • 中国に対する負債の利子支払の拒否(債務不履行)
  • 中国が変動相場制に移行しないかぎり、同国との取引を停止
  • 利益の出ている企業による労働者の解雇や給料カットの禁止
  • 連邦政府予算の恒久的な均衡
  • 連邦準備制度の廃止
  • 銀行は預金と融資のみを扱うこととし、投資銀行は廃止
  • インサイダー取引、株価操作、証券詐欺に関与したものは10年の禁固刑
  • 個人の年収は50万ドルを上限とし、それを超える場合は税率100%で課税(没収)
  • 25万ドルを超える収入は税率80%で課税
  • キャピタルゲインも税率80%で課税
  • 10万ドルを超える純資産には一律年間2%の財産税を課す
  • 海外での資産隠しが発覚した場合は米国籍を剥奪する

ライシュの本では、2020年に「独立党」が、「大きな政府、大企業、大手金融機関からアメリカを取り戻す」べく大統領選に挑み、勝利することになっています。かなり戯画化されていますが、共和党の大統領候補指名争いを見ていると、たんなるお話とは思えなくなるところが不気味です。

“富”は不正がなくても集中する 週刊プレイボーイ連載(25)

「ウォール街を占拠せよ」の運動では、「私たちは99%」のスローガンが掲げられました。貧富の差が拡大したことによって、米国社会は1パーセントの富裕層とそれ以外の貧困層に二極化してしまったというのです。

ところで、富はなぜ少数の人間に集中してしまうのでしょうか。ほとんどのひとは、ここにはなにかの不正がはたらいているにちがいない、と信じています。しかしいまでは、市場が公正で効率的であるならば、みんなが真っ当に商売したとしても、富の一極集中と経済格差の拡大はごく自然に発生すると考えられています。それは、市場が複雑系のスモールワールド(小さな世界)だからです。

スモールワールドでは、それぞれの要素がお互いにフィードバックしあうことで、わずかな初期値のちがいから大きな差が生まれます。

といっても、これはぜんぜん難しい話ではありません。私たちにとってもっとも身近なスモールワールドは人間関係で、友だち同士がお互いにフィードバックしあうことで、ちょっとしたひと言が思わぬ波紋を呼んだりします。

スモールワールドのもうひとつの特徴は、ときどきとんでもないことが起きることです。プレート同士が衝突する地球内部は活断層が複雑につながりあったスモールワールドで、そこでは微小な地震が日常的に起きていますが、私たちはそのほとんどを体感できません。そしてある日突然、プレートの歪みが臨界点に達して巨大地震が襲ってくるのです。

これは、スモールワールドにはとんでもない場所がある、ということでもあります。インターネットはホームページ同士がリンクしあう典型的なスモールワールドですが、そこではヤフーのような、膨大なリンクを持つ特権的なサイトが存在します。インターネットユーザーは、こうしたハブ(中継点)を上手に利用して、興味のある情報を探していきます。逆にいえば、ひとびとのこうした(無意識の)行動によって、ネットの世界にハブが自然に生まれるのです。

私たちの社会はスモールワールドですから、人気(評判)は特定の人物に一極集中していきます。アマチュアリーグの野球選手とイチローを比較すると、実力差は10倍(あるいは100倍)くらいかもしれませんが、評判の差は無限大です。このように、能力(野球のうまさ)によって富(評判)が均等に分配されるわけではないことも、スモールワールドの特徴です。

市場も、ひととひととがお金をやりとりするスモールワールドです。そうであれば、市場のハブとなる特定の企業や人物に富が集中するのは当たり前です。このことに最初に気づいたのは数学者のブノア・マンデルブロで、税制や規制、利権や陰謀などに関係なく、市場が拡大すれば(全体のパイが大きくなれば)必然的に富の一極集中は進むと考えました。

私たちは、評判市場において歌手やスポーツ選手が人気を独占することを不公平とは感じませんが、貨幣市場において超富裕層に富が集中することを不正義と考えます。しかしこれは、いずれもスモールワールドから生まれる同じ現象なのです――だからといって、それが正しいというわけではありませんが。

参考文献:ブノア・マンデルブロ『禁断の市場―フラクタルでみるリスクとリターン』

 『週刊プレイボーイ』2011年10月31日発売号
禁・無断転載

電子雑誌『allez!』に、『大震災の後で~』について書きました。

電子雑誌『allez!』10月号に『大震災の後で~』について短い文章を書きました。編集部の許可を得てブログに転載します。

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3月11日の東日本大震災と、それにつづく福島第一原発事故は、私たち一人ひとりに重い問いを突きつけました。

原発事故と政府の対応に対して、なぜこんな理不尽なことが許されるのか、という怒りと絶望。被災地の惨状を前にして、自分にいったいなにができるだろうとういう無力感。そして、家や仕事や生活の基盤のすべてを一瞬にして失ったひとたちを目の当たりにして、磐石なはずの日常がふいに途切れたとき、どうやって生き延びればいいのかという、いい知れぬ不安。

私はずっと、「自由とは選択肢のことだ」と考えてきました。どれほど自由気ままに振る舞っているように見えても、夫や会社や国家に経済的に依存しているのなら、それは隷属の一形態に過ぎない。自由に生きるには経済的な独立が必要なのだ、と。

大震災が衝撃だったのは、自由をめぐる私の考えがたんなる絵空事でしかなかったことです。被災地で避難生活を送るひとたちが教えてくれたのは、ほとんどのひとは人生の選択肢など持っていない、という現実でした。

自然災害や経済的な混乱からひとびとの生活を守るためにできることは、原理的に二つしかありません。一人ひとりのリスク耐性を上げることと、リスクに強い社会をつくっていくことです。

冷戦終焉以降、日本的なシステムは世界の大きな変化に適応できなくなってしまいました。しかしこれは、バブル崩壊後、不良債権問題が深刻化して、地価や株価の下落が一過性のものでないことが明らかになった90年代半ばから、ずっといわれつづけてきたことです。

日本の政治は駄目だとか、官僚が日本を支配しているとか、そんなことはいまでは誰だって知っています。天下国家を語るひとたちは、すでに20年ちかくも、口角泡を飛ばして同じ話を繰り返してきました。

現状分析も処方箋もわかっていながら変わることができないのは、変わらないことに合理的な理由があるからです。

より平等で効率的な社会は、すべてのひとに均等に恩恵をもたらすわけではありません。「まわりが豊かになっても、既得権を奪われるなら本末転倒だ」「自分だけ割を食うなら、みんなで貧しくなったほうがまだマシだ」とひとびとが考えるなら、「改革」は永遠に夢物語に終わるでしょう。

だとすれば、私たちの前には、絵空事と夢物語の二つの選択しかありません。

『大震災の後で人生について語るということ』で書いたのは、絵空事を徹底することで、そこに「希望」らしきものが見えてくる、という逆説です。ほとんどのひとにとって、ここで語られる人生設計は実現不可能な、なんの意味もないものにちがいありません。しかしごく一部のひとたちは、絵空事を現実に変えるちからを持っているはずです。

そして彼らこそが、より大きな黒い鳥(ブラックスワン)がこの国に舞い降りたときに、私たちの大切な故郷(くに)を救うことができるのだと、私は考えています。

本書の続編では、そんな「夢物語」を書いてみるつもりです。

電子雑誌『allez!』10月号
禁・無断転載