“国家破産”の街アテネを旅して(1)

ギリシアの財政危機が世界経済をふたたび揺るがしはじめました。

昨年(2010年)末にアテネを訪れ、それについて短い文章を書きました。今年の春に予定していた新刊のためのものですが、東日本大震災で企画そのものを取り止めたため発表の機会がなくなり、そのままになっていました。

ギリシア危機の報道で思い出したので、半年ほど前の話ですが、2回に分けて掲載します。

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アテネは野良犬が多い。それも大きくて、やたらなれなれしい。カフェでコーヒーを飲んでいると、いきなりテーブルの下に潜り込んできたり、膝に頭を乗せてきたりする。最初は店で飼っているのかと思ったが、ただたんに、そこらへんにいる犬にエサをやっていたらなついたということらしい。捕獲処分のような野蛮なことをしないのが、生き物を愛するギリシア人の誇りなのだという。

アガメムノンのマスクで知られる国立考古学博物館の隣に、国立工科大学がある。この周辺はアル中とヤク中の溜まり場で、うつろな目をした男たちが昼間から夢遊病者のように徘徊している。道端に座り込み、エビのように身体をまるめ、注射器を手に化石のように動かなくなった男の脇を、学生たちが談笑しながら通りすぎていく。今年の冬はヨーロッパを大寒波が襲ったが、それでもアテネはコートなしで過ごせるほどで、路上生活者が街の中心部に集まってくるのだ。

国立工科大学からオモニ広場を経てパネピスティミウ通りに向かう。ここは銀座中央通りや表参道のようなところで、ドーリア式の神殿を模した国立図書館、国立アテネ大学、国立学士院(アカデミア)の向かいに、デパートや高級ショッピングセンター、ブティック、アクセサリーショップなどが並んでいる。

ギリシアのあちこちに「国立」を関した施設が目立つのは、この国の人口の約10パーセント(雇用者の24パーセント)、およそ110万人が公務員で、彼らの職場が必要だからだ。公務員の数が「約」とか「およそ」でしか表現できないのは、この国にはそもそも信頼できる統計がなく、政府ですら公務員の正確な数を把握していないからだ。

豪華な毛皮を羽織り、買い物袋を抱えて高級ブティックから出てきた妙齢の女性が路上に出てタクシーを止め、大声で運転手を怒鳴りつけている。このところずっと、公共交通機関のストライキがつづいている。この国では交通機関はほぼすべて公営だから、彼らがストをすると、バスも鉄道も地下鉄も一斉に止まってしまう。そうなるとタクシーはまったくつかまらないから、誰もが強引に車を止めて、同じ方向なら無理矢理乗り込もうとするのだ。こうして路上には人と車が入り乱れ、渋滞はますます激しくなり、車はぜんぜん動かないが、彼らはまったく気にしない。

国会議事堂の正面にあるシンタグマ広場に向かって歩くと、あちこちの電柱にくくりつけられたスピーカーから大音声で民謡のようなものが流れてくる。道行く紳士が口づさんでいたが、これはオスマントルコからの独立を求める革命歌で、ギリシア人なら知らない者はいないのだという。

国会議事堂とシンタグマ広場に挟まれた路上に、ギリシア国旗や赤旗を掲げたひとたちが集まっている。その数は4~500人ほどで、参加者の年齢が高いこともあって、知り合いを見つけては談笑する様子は老人会の遠足みたいだ。

国会前は武装した警官たちが固めているが、そのまわりを例によって野良犬が何匹も走りまわっていて、こちらもまったく緊迫感がない。新聞社やテレビ局のカメラマンはほとんどおらず、ものめずらしそうに写真を撮っているのは観光客ばかりだ。

しばらくデモ隊を眺めていたのだが、なにも起きないのですっかり退屈してしまった。聞いてみると、彼らは夕方までこのままだらだらと過ごし、それからようやく行進が始まるのだという。といってもデモのコースは毎回決まっていて、シンタグマ広場とオモニ広場を結ぶ2本の主要道路(パネピスティミウ通りとスタディウ通り)をぐるぐると往復するだけだ。

労働者のデモは整然と行なわれるが、そこに黒覆面団と呼ばれる学生グループが紛れ込み、彼らが警官隊に向けて火炎瓶を投げたり、ゴミ箱に火を付けたりするので、警官側も催涙弾で応戦する。だが毎日のようにデモが行なわれているためか、このあたりの間合いは双方が習熟していて、めったに怪我人はでない(2010年5月のデモで黒覆面団が銀行の古いビルに火炎瓶を投げ込み、なかで働いていた男女3人が煙に巻かれて死亡したが、デモによる死者としてはこれがほぼ20年ぶりだった)。

目だし帽や黒いスカーフ、防毒マスクなどで顔を隠した黒覆面団はアテネ工科大学を拠点とする過激派グループで、民主主義や資本主義、市場経済のすべてを否定しているのだという。マオイスト、トロツキスト、アナキスト、コミュニスト、極左組織からネオファシストや極右までが各派に分かれて大学を占拠しているというので見にいったのだが、冬休みに入ったからなのか、すさんだキャンパスで何人かの学生が所在なげに煙草を吸っているだけだった。

共通通貨ユーロへの加盟には、マーストリヒト条約により、財政赤字をGDPの3パーセント以下にすることが義務づけられている。2001年にギリシアがユーロ導入を認められた時もこの財政基準を充たしていたはずなのだが、09年に社会党内閣への政権交代が起こると旧政権による粉飾が暴露され、実際の財政赤字はGDP比で13パーセントを超えていることが明らかになった。このスキャンダルによってギリシアの信用は失墜し、国債価格は大幅に下落し、IMF、EU(欧州連合)、ECB(欧州中央銀行)などの救済を仰ぐことになった。

ギリシア政府は消費税率の引き上げ、公務員のボーナス撤廃や賃金引下げを含む厳しい財政削減計画を余儀なくされ、もともと「デモは文化」といわれる国で大規模な抗議行動を引き起こした(10年2月のゼネストでは、人口の3分の1にちかい275万人が参加したとされる)。だが夏の観光シーズンが終わり、クリスマスが近づく頃にはひとびとの関心はすっかり冷め、公務員と一部の不良少年たちが日課のようにストとデモを繰り返すだけになっていた。

デモ隊と警官隊が対峙するシンタグマ広場を一歩離れれば、そこにはありきたりの日常風景が広がっている。皮を剥がれたトリやブタが所狭しと並ぶ中央市場は夕食の支度を急ぐ主婦でごった返し、世界の賓客に愛されたグランド・ブルターニュ・ホテルの屋上レストランでは正装した男女がシャンパングラスを傾け、アクロポリスの丘には夕陽を眺める恋人たちが集まってくる――。これが、私の見た「国家破産」ギリシアの姿だった。

国会議事堂前で談笑するデモ隊

私たちが請求されるデモクラシーのコスト 週刊プレイボーイ連載(6)

菅首相が将来の退陣を約束したものの、日本の政治はますます混迷の度合いを深めています。この原稿を書いているのは内閣不信任案が否決された翌日ですが、1週間後になにが起きているかはだれにも予想できません。

なぜこんなことになってしまうのでしょう。この謎は、理屈としては説明可能です。

アメリカの市井の思想家ジェイン・ジェイコブズは、人間社会には「市場の倫理」と「統治の倫理」という相異なる正義の原理があると述べました。

市場の倫理というのは「商人道」のことで、勤勉や倹約を尊びますが、もっとも重要な掟は「契約を遵守すること」です。顧客との約束を守らず、不良品を売りつけたり、請求額を水増しするようではだれも信用してくれませんから、市場から退出するほかありません。

その一方で、真面目に商売をしていればその評判はやがて広まって、遠方からも客がやってくるようになるでしょう。商人道においては、正直者は報われるのです。

統治の倫理は「武士道」のことで、権力闘争における正義の掟です。

戦国時代劇でおなじみのように、権力闘争の目的は、集団のなかで一番になること(国盗り)と、異なる集団のなかで自分の集団を一番にすること(天下平定)です。もちろん全員が勝者になれるわけはないので、集団のなかでどのように振舞うかも大事です。

権力闘争では、リーダーは仲間を集め、徒党を組んで頂点を目指します。そこでは嫉妬や憎悪、裏切りや復讐など、むき出しの欲望がぶつかり合いますが、それと同時に、リーダーは一族郎党を死地へと向かわせるのですから、名誉を重んじ、友の死に涙し、運命に向かって勇敢に立ち向かう人間的な魅力も不可欠です。

政治というのは、権力闘争の世界です。どれほど立派な理屈を唱えても、権力を握らなければオウムや九官鳥と変わりません。この冷酷な掟が、あらゆる権謀術数を正当化するのです。

金銭スキャンダルで閑職に追いやられた有力政治家がいて、そこに天変地異による大災害が起きたとします。彼がひとびとのために尽くしたいと思えば、なにをおいても権力を奪い返さなければなりません。

もう一人の政治家は権力の座にあるものの、その座から引きずり下ろされようとしています。しかし権力を失ってしまえばもはやブリキの人形と同じですから、どのような手段を使ってでもいまの地位を守ろうとあがき、それが無理ならすこしでも自身の権力を温存しようと画策します。

この状況は、主観的にはそれぞれが「絶対の正義」を体現していますから、外部からの調停や理性による解決は不可能です。鳩山前首相は、菅首相を「ペテン師」と非難しました。しかし統治の倫理では、仲間を欺いてでも目的を遂げることがすべてです。戦国武将なら、相手の首をとらなかった愚かさを笑うでしょう。武士道では、正直者は馬鹿を見るのです。

日本の政治で起きているのは、正しい意味での権力闘争です。政治学はこれを、「デモクラシーのコスト」と呼びます。

民主政が独裁制よりすぐれているのは確かです。しかし困ったことに、私たちがどれだけのコストを支払えばいいのかは見当もつきません

『週刊プレイボーイ』2011年6月20日発売号
禁・無断転載

主婦の年金問題と正義の幼稚さについて

主婦年金の救済問題について、忘れないうちに書いておきたい。

現在の年金制度では、サラリーマン家庭の主婦は第3号被保険者として、保険料を負担することなく老齢年金を受給できる。夫が自営業になった場合はこの制度は適用されないから、第1号被保険者として、夫も妻も国民年金保険料を納めなくてはならない。これが問題の前提だ。

年金の3号制度では、同じ専業主婦でも夫がサラリーマンの場合と自営業者では扱いが違う。結婚しても共稼ぎなら夫婦とも保険料を払わなければならないし、生涯独身のひとも多い。フルタイムで働くよりも主婦として年金保険料を免除された方が得だとして、女性の社会進出を阻むという批判は、女性の人権を擁護するフェミニズム系の団体からもあがっている。「弱者」である主婦を救済するためとはいえ、これが明らかに不公平な制度であることは間違いない。

混乱の発端は、長妻前厚労大臣の時代に、夫の転職にあたって第3号被保険者から第1号被保険者への切り替えを忘れて、無年金や低年金になる主婦が最大100万人いることがわかったことだ。そこで長妻前大臣は、2年分の保険料を追加で納付すれば減額せずに年金を支払うという「運用3号」によって、届出漏れの主婦をほぼ無条件で救済することにした。この大盤振る舞いの根拠は、旧社会保険庁が年金の切り替えを周知徹底していなかったからだという。

だが今年の1月に厚労省が課長通達によって運用3号を実施しようとしたところ、現場の年金事務所が自主的に処理を一時停止するという前代未聞の事態が起きた。

会社を退職した夫が国民年金の加入手続きに来ると、市町村の窓口では専業主婦の妻にも国民年金に入るよう勧める。ところが「運用3号」では、役場の勧奨を無視して届出をしなかった主婦が、真面目に保険料を納めていたひとよりも得をすることになる。問合せを受けたときに、こんな不公平な制度が説明できるわけがない、というのがその理由だ。

「年金のプロ」を自負する前厚労大臣は、この件に関して、「年金記録回復委員会で方向性が決定し、私なりに判断した」と述べている。ほとんどの委員は沈黙を守っているが、2011年5月27日付の朝日新聞で、委員の一人である斉藤聖美氏(ジェイ・ボンド東短証券社長)がインタビューに応じている。

斉藤氏は、「運用3号」が不公平であることは認識していたが、年金記録問題と同様に、「多少の不公平が生じても、できるだけ本人の利益を優先して救済する」という原則を適用したと説明し、問題の根底には旧社会保険庁の怠慢と年金制度自体の矛盾があるとして、次のように述べている。

年金は複雑かつ長期にわたる仕組みで、国民全員に厳密に制度を適用するのは難しい。「いまの仕組みを続ける限り、少々の不公平は仕方がない」という割り切りも必要ではないでしょうか。

同じく年金記録回復委員でありジャーナリストの岩瀬達哉氏も、ラジオのインタビューにこたえて、「批判覚悟でかなり英断でやった」と説明している。

彼らの主張は、「3号制度」がそもそも不公平なのだから、「運用3号」の不公平性だけとことさらに批判しても問題はなにも解決しない、というものだ。だったら多少の不公平には目をつぶっても、社会全体の効用を最大化すべく功利主義的な立場で「弱者」を救済すべきだ、ということなのだろう。

私は届出をしなかったひとが「社会的弱者」だとも、運用3号問題が社会が許容できる「多少の不公平」だとも思わないが、こうした主張が「正義」に対する一貫した立場であることは理解できる。問題なのは、後任の細川厚労大臣が野党からの批判を受けて、全面的に非を認め謝罪してしまったことだ。

長妻前厚労大臣は、運用3号が不公平として批判を浴びることを覚悟したうえで、より大きな「正義」だと考えて政治的な決断をした(そうですよね)。それを後任の大臣が、「いや、あれはちょっとした間違いでした。ぜんぶなかったことにしますから許してください」と頭を下げるのでは、最初に掲げた「正義」は紙っぺらよりも薄いものになってしまう。

政権与党の大臣が正規の委員会に諮ったうえで政治的決断を下した以上、後任の大臣は、その「正義」を堂々と国会で説明すべきだった。そうすれば、「運用3号」で正直者がバカを見るのと同じように(あるいはそれ以上に)、「3号制度」で正直者がバカを見ているという現実が明らかになり、より公正で簡素な年金制度につくり変えるための一歩になったかもしれない。

けっきょく、民主党政権は「運用3号」を撤回し、届出漏れ期間は年金額に反映させず、最長10年の保険料追納を認める新たな救済策をまとめた。私はこの措置が現実的なものだと考えるが、その結果「正義」はますます軽くなり、この国の政治家の「決断」はどうでもいいものになってしまった。

正義を扱うこうした幼稚さが、国民の政治に対する絶望を深めていく。どこかでこの悪循環を止めないと、いずれ社会の基盤がメルトダウンを起こしてしまう--そんな危惧を抱くのはおそらく私だけではないだろう。

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