贈与税の非課税枠はなぜ不動産投資にしか使えないのか?

12月1日付の日経新聞(夕刊)に、「住宅向け贈与 非課税拡充」という記事が掲載されていた。

2012年度税制改正で、住宅の購入用資金を親や祖父母から譲り受ける際の贈与税の特例措置を2年間延長するとともに、贈与税の基礎控除(110万円)に上乗せできる非課税枠(現行1000万円)を、省エネや耐震性能で一定の基準を満たす住宅を購入する場合は1500万円に拡充するのだという。

さらには12年度改正で、省エネ住宅に住宅ローン減税を上乗せする制度の創設も決まっており、12年度から始まる認定省エネ住宅(仮称)制度の認定を受けた住宅を新築した場合、所得税額から10年間で最大400万円控除できるとされている。

同紙によると、この措置は「高齢者世帯から現役世帯への資産移転を促すとともに、優良住宅への投資を後押しする」ためのものだという。

総務省統計局の家計調査年報(平成22年)によると、2人以上の勤労者世帯で、50代の平均貯蓄は1585万円、負債は531万円で、1054万円の貯蓄超過になっている。60代以上にいたっては、平均貯蓄2173万円に対して負債はわずか234万円で、1939万円の貯蓄超過だ。

もちろんこれは、平均的な50代や60代がこれだけの資産を持っている、ということではない。資産は標準偏差で分布するわけではなく、ごく少数の富裕層が平均値を大きく引き上げているからだ。

しかしそれを割り引いても、ほとんど家計に余裕のない50歳未満に比べて、高齢者世帯のゆたかさは圧倒的だ。そこに滞留している資金を若い世代に還流させようという政策は、それなりの意味があるだろう。

しかしなぜ、資金の用途が不動産の購入に限定されているのか。

日本社会で経済的にもっとも脆弱なのは、すでにマイホームを購入して住宅ローンを払いながら、子どもの教育費を捻出しなければならない40~50代だろう。彼らにとって、不動産を買わなければ使えない非課税枠などなんの意味もない。

そもそもマイホームの購入というのは、住宅ローンでレバレッジをかけたハイリスクな投資の一種だ。80年代半ばから90年代半ばにかけて不動産を購入したひとは、地価が半分から最大で4分の1になってしまったのだから、家計は債務超過に陥っている可能性が高い。30年ローンなら、85年に家を買ったひともいまだに返済をつづけていて、ようやく返し終わったときに残っているのは、老朽化して無価値になった建物と、買ったときの半分以下の値段しかつかない土地なのだ(89~90年のバブル最盛期にマイホームを買ったひとはもっと悲惨だ)。

このような悲劇が起きるのは、国家が恣意的な非課税措置や住宅ローン減税でひとびとに歪んだインセンティブを与えるからだ。それによって、金融資産を銀行預金で運用し賃貸住宅で暮らしていた保守的なひとたちまでマイホームという不動産投資に手を出すことになり、塗炭の苦しみを味わうことになった。

それにもかかわらず、国家はなんの反省もなく(というか、反省しないのが国家の特徴のひとつだ)、“善意”によって国民をハイリスクな投資に誘いこもうとする。すでに総世帯数を上回る住宅があり、これからますます人口が減少していくこの国で、さらに新築住宅を建てていったいどうするのだろう。

高齢者世帯から現役世帯への資産移転が政策目的なら、使途を自由にして、たんに非課税枠を拡充させればいい。

受贈者がそのまま銀行預金しても、名義人が変わるだけだから、経済にはなんの悪影響もない。子どもの教育費に使ったり、家族で旅行に出かけたり、ブランドものを買い漁ってくれれば、景気を浮揚させるなにがしかの効果はあるだろう。

80年代のバブルの原因はプラザ合意に驚いた政府・日銀が金融を緩和しすぎたことで、「失われた20年」の元凶は、地価暴落で金融機関ばかりでなく、企業や家計までもが巨額の不良資産を抱え込み実質債務超過になってしまったことだった。

なにを買い、なにに投資をするのかは国家が国民に“指導”することではない。国家が立派そうなことをすると、たいていはずっとヒドいことが起こるのだ。

「独裁者」はまた現われる 週刊プレイボーイ連載(31)

大阪のダブル選挙で橋下徹市長が率いる「大阪維新の会」が圧勝しました。選挙結果については「独裁だ」との批判から「これこそが民主主義だ」という賛美までさまざまでしょうが、ここでは地方であいついで“反乱”が起きている理由を経済的な側面から考えてみましょう。

“地域主権”を求める主張は多岐にわたりますが、そのなかでもっとも有権者の関心を集めたのが、地方議員や地方公務員の待遇であることは間違いないでしょう。鹿児島県阿久根市の“ブログ市長”は数々の奇矯な振る舞いで批判されましたが、それでも市長選で多くの支持を集めたのは、市議会議員の報酬や市職員の給与の明細を公開したからです。

それによると、阿久根市職員の平均年収は655万6000円で、平均年収200万~300万円という阿久根市民の2~3倍にあたります。さらに市職員の受け取る退職金は平均で2650万円(定年前の退職勧奨に応じた場合は3295万円)で、これは一部上場企業並みの厚遇です。

市民の代表として税金の使い道を監督する市会議員はというと、議員報酬や期末手当、政務調査費、議員日当などを加えて1年間で435万円の公金を受け取っています。それに対して地方議会の期日は年間で80日(実質は20日)程度で、地方議員のほとんどは本業を持っているため、政治家の仕事は割のいい“副業”となっているとのことです。

ここで暴かれたのは、地方議員と地方公務員が自分たちの都合のいいように公金を山分けする実態でした。阿久根市では税収が20億円しかないにもかかわらず、2008年度はなんと27億円を議員や市職員の人件費として支出していたのです(国からの交付金33億円の一部までが人件費に使われています)。

ほとんどの自治体では首長もこのもたれ合いの構図の上に乗っているため、“不都合な真実”はなかなか表に出てきません。市民が事実を知るためには「独裁者」が必要だったのです。

もちろん地方議員や地方公務員にも言い分はあります。地方議員の報酬は地方自治法に基づいて条例で定められており、地方公務員の給与は人事院勧告に準拠しているだけで、不当に得をしているわけではないというのです。こうした条例や勧告は、その趣旨からいえば、民間の給与を基準にして“公僕”としての適正な報酬を定めることを目的にしています。

ではなぜ、このような理不尽な事態が起きているのでしょう。それは「失われた20年」で民間人の所得が減ってしまったのに対して、公人の所得には減額の仕組みが備わっていなかったからです。

ひとびとがデフレで苦しんでいても、公務員の給与は年齢とともに着実に上がっていきます。それが20年間積み重なって、現在の「公務員天国」ができあがったのです。

大阪や名古屋でいま起きていることは、公務員と民間人の「経済格差」の是正を求める大衆運動です。この問題は日本じゅうどこでも同じですから、テレビなどで顔を知られた人気者であれば、“ポピュリスト”として権力の座を射止めるのは難しくないでしょう。

ゲームのルールが明かされた以上、私たちはいずれ第二、第三の「独裁者」を見ることになるのかもしれません。

参考文献:竹原信一『独裁者 “ブログ市長”の革命』

『週刊プレイボーイ』2011年12月12日発売号
禁・無断転載

ゆたかな国のマイクロクレジット

「「生活保護で貧困はなくならない」と賢者はいった」でムハマド・ユヌスのことを書いたが、先進国でのマイクロクレジットの実験についてすこし追加しておこう。

バングラデシュのような最貧国でしか機能しないとされてきたマイクロクレジットが先進国でも成功した例としてノルウェイがある。

ノルウェー北部のロフォーテン諸島は深刻な過疎化の問題を抱えていた。オスロなどの大学に行った男の子たちは島に戻って漁師になるが、女の子たちがほとんど戻ってこないのだ。

その原因は、島の生活では女性たちのやることがなにもないからだった。漁師と結婚すると、夫が海から戻ってくるのを待つあいだ、おしゃべりで時間をつぶすくらいしかすることがない。女の子たちが島からいなくなると、男の子たちもどんどん島から離れるようになった。

ところがマイクロクレジットを導入すると、女性たちはローンを使ってセーターを編んだり、アザラシのかたちの文鎮や木彫りのトロール(いたずら好きの小人)をつくったり、さまざまな“ビジネス”をはじめるようになった。

彼女たちの問題は、貧困ではなく孤独だった。マイクロクレジットの「連帯責任」によって、これまでばらばらだった島の女性たちがお互いに支えあい、助言しあうようになった。「借りたお金をみんなで返さなければならない」というルールが、共同体をつくるきっかけになったのだ。

マイクロクレジットはビル&ヒラリー・クリントンによってアメリカにも導入された。

ユヌスはアメリカの生活保護の実態を以下のように描写している。

もしあなたが生活保護の受給者だったら、それは、すべてのドアと窓が固く閉ざされた部屋の中に押し込められ、ドアを開けたり、外に出ようとすることさえできない状態に置かれているようなものだ。つまり、あなたは実質的には囚人のような状態で、貧困に囚われているだけではなく、あなたを助けようとしている人たちによっても囚われているのである。

もし金を手にしたときには、その収入を福祉局に報告しなければならない。彼らはあなたが稼いだ金額を、生活保護の給付額から差し引くのである。そのうえ、あなたはどんな社会事業団体からも、金を借りることは許されていないのである。

(ムハマド・ユヌス&アラン・ジョリ『ムハマド・ユユス自伝―貧困なき世界をめざす銀行家』

 個人主義の進んだアメリカでは「5人組」の連帯責任がうまくいくはずはない、と誰もがいった。

シカゴのスラムでのマイクロクレジットでは、仲間を見つけるために定期的にパーティを開いた。するとスラムの女性たちは、バングラデシュやノルウェーと同じように、グループをつくってお互いに助け合いながらビジネスを始めたのだ。彼女たちのビジネスはコーヒーケーキを焼いたり、パーティでコメディエンヌをしたり、貧困国の女性たちとはまるでちがったものだったが、それでもスラム街には近所同士の強力なネットワークがあり、「連帯責任」が共同体を生み出したのだ。

マイクロクレジットの問題は、これが女性だけのグループに最適な方法だとしても、男性の貧困問題の解決には限界があることだろう。ユヌスも指摘するように、男性と女性を混ぜると、男性が女性を支配しようとしてグループが崩壊する。男性だけの集団では序列(階層)ができて、ボスと手下の関係ができてしまう。これは、男性と女性の集団のつくり方が生得的に異なるからだろう。

とはいえ、先進国でマイクロクレジットが普及しない最大の原因は、それが福祉・生活保護にかかわる公務員やNGOの“既得権”を侵害するからだろう。“かわいそうな貧しいひとたち”にお金を配る仕事がなくなると、このひとたちは用なしになってしまうのだ。