“無責任社会”は無限責任から生まれた 週刊プレイボーイ連載(28)

名門企業オリンパスが、20年にわたり巨額の損失を隠してきたことで会社存亡に機に立たされています。事件の概要はすでに報じられているとおりですが、基本的な構図は97年に経営破綻した山一證券と同じで、財テクの失敗を隠蔽するために歴代経営陣が粉飾決算を繰り返してきたというものです。

海外メディアでもこの事件は、日本企業のコーポレートガバナンス(会社統治)の問題として大きく報道されています。

ガバナンスというのは、組織内の権限と責任を明確にして、権力構造(指揮命令系統)をだれでもわかるようにすることです。軍隊では、作戦本部から末端の兵士まで命令が効率的に伝わるようにしなくては戦争に勝つことができません。ところが日本の組織では、このガバナンスがおうおうにして失われてしまいます。

もちろんどのような組織でも権力構造があることに変わりはありませんが、日本の組織はそれが水面下に隠れてしまい、外部からはどこに権力の中心があるのかわかりません。権限と責任が分離して、いつのまにか責任の所在が消えてしまうことで、だれも責任をとらない「無責任体制」が完成するのです。

ただしこれは、日本社会に特有の病理というわけではありません。「全員一致」でしかものごとを決められないムラ社会では、責任も全員に分散されますから(一億総懺悔)、原理的に責任をとることができないのです。

ところがこのような「無責任社会」で、たまたまある特定の人物が責任を問われると、家族や関係者までもが無限責任を負わされることになります。

このことに最初に気づいたのは政治学者の丸山真男で、大正12年に起きた皇太子(後の昭和天皇)狙撃事件後に、内閣が総辞職し、警視総監から警護にあたった末端の警官までが懲戒免官となったばかりか、狙撃犯の郷里が全村をあげて「喪」に服し、彼が卒業した小学校の校長や担任の教師が辞職した例をあげています。

権限と責任が分離すると責任の範囲があいまいになり、いったん「有罪」を宣告されると責任が無限に拡散していきます。このような社会ではだれもが責任を避けるようになりますから、全員の総意によって、だれも責任をとらなくていい“やさしい社会”が生まれたのです。

ほとんどのひとが誤解していますが、「株主主権」というのは、会社のガバナンスを機能させるための一種のつくり話です。なぜこのような“ウソ”が必要になるかというと、組織における権限と責任を決めるには、「会社の所有者はそもそも誰か」という基本設計が必要だからです。コーポレートガバナンスは、「主権者」である株主を権力の中心において、会社の権力構造を明示化する仕組みなのです。

ところが日本ではこのことはほとんど理解されず、「株主資本主義」は日本的な美風に反すると批判されてきました。会社は、社員や取引先や消費者など「みんなのもの」だというのです。だとすれば、株式市場のルールを一顧だにしないオリンパスは、まさに“日本的経営”の理想の姿でしょう。

この“素晴らしき日本の伝統”が、企業の価値や社員の生活を破壊していく様を、私たちはいま目にしているのです。

参考文献:丸山真男『日本の思想』

『週刊プレイボーイ』2011年11月21日発売号
禁・無断転載

「グローバリズム」は和製英語?

TPPの議論でも、“グローバリスム”“アンチ・グローバリズム”という言葉が頻繁に使われていますが、以前からこれは和製英語ではないかと疑問に思っていたので、それについて書きます。

このことを教えてくれたのは知り合いのオーストラリア人で、「日本人のいうGlobalismは一般的な使い方じゃないよ」といわれたのですが、これではたんなる印象批評なのでちょっと調べてみました。

Wikipediaで“Globalism”を検索すると、「2つの異なる意味がある」と書かれています。

ひとつは、世界を国家単位ではなく、地球単位で考えるGlobalism(地球主義)で、この意味で“Globalist”というと、環境保護主義者とか、南北問題を考えるリベラル派といった感じになるのでしょう。

もうひとつは、「世界全体に対して政治的影響力を行使する」ことで、国際政治学者ジョセフ・ナイと、カナダのエッセイストJohn Ralston Saulの定義が挙げられています。

ナイの“Globalism Versus Globalization(グローバリスム対グローバル化)”の書評を見ると、Globalismは「経済・環境・軍事・社会・文化的に世界がひとつのネットワークとしてつながりあっている」という“考え方”で、Globalizationは「Globalismの現実的な展開」のことのようです。

ワシントンの出版社が発行しているその名も“The Globalist”というオンライン週刊誌がありますが、「世界の政治・経済・社会的な出来事をGlobalな視点で読み解く」というのが編集方針ですから、これは「グローバルな考え方」というナイの定義と同じです。

一方のSaulの“The Collapse of Globalism(グローバリズムの崩壊)”は、「1970年代の規制緩和によって始まったグローバル化が、1990年代になって経済の崩壊や環境破壊を引き起こし、世界的にナショナリズムが台頭している」というもので、こちらはカタカナの“グローバリズム”とほぼ同じ意味で使っているようです。

Amazon(USA)でタイトルかサブタイトルに“Globalization”とあるものを検索するとペイパーバックだけで8827冊、イギリス英語の“Globalisation”は2037冊ありますが、“Globalism”を含むのはわずか269冊です。このなかには、「地球主義」や「グローバルな考え方」で使っているものもあるでしょうから、カタカナの“グローバリズム”は、間違いとはいえないとしても、やはりかなり特殊な用法のようです。

さらに日本では、“グローバリズム”と“グローバル化”が意図的に混同されています。

たとえばノーベル経済学賞を受賞したジョセフ・スティグリッツの『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』の英文タイトルは“Globalization and Its Discontents(グローバル化とその不徹底)”で、同じく『世界に格差をバラ撒いたグローバリズムを正す』は“Making Globalization Work(グローバル化をちゃんとさせる)”です。

こうした“超訳”は章立てにも及び、「国際機関が約束したグローバリズムの恩恵」は“The Promise of Global Institutions(国際機関の約束)”、「世界を幸せにするグローバリズムの道」は“The Way Ahead(これからの道)”です(いずれも『世界を不幸にしたグローバリズムの正体』)。

日本の出版社による“超訳(というか誤訳)”が問題なのは、著者であるスティグリッツの意図を大きく歪めてしまうからです。

スティグリッツはこれらの本で、「グローバリゼーションには世界中の人びと、とりわけ貧しい人びとを豊かにする可能性が秘められている」としたうえで、自らの世界銀行での体験をもとに、IMFや世界銀行に巣食う“グローバル化を歪める”テクノクラート(官僚)たちの弊害を批判しています。

スティグリッツは、自分の本が“アンチ・グローバリズム”だといわれてもなんのことかわからないでしょうし、自分は“グローバリスト”だというかもしれません。

こうした混乱が起きるのは、“Globalization”という現実について書かれたものを、“Globalism”というイデオロギーの話にしてしまうからで、これが日本国内でしか通用しないガラパゴス化した議論の原因です。

目の前の現実を否定することはできませんが、ism(イデオロギー)ならいくらでも批判できます。“グローバリスト”というどこにも存在しない仮想敵を叩くのは、気に入らない現実から目をそむけるもっとも簡単な方法なのでしょう。

国家はもはや市場を制御することができない 週刊プレイボーイ連載(27)

ギリシアのパパンドレウ首相が国民投票を行なうと発表(その後撤回して新政権樹立)したことで、ヨーロッパが揺れています。

すでにいい尽くされたことですが、この混乱は、政府(財政政策)をばらばらにしたままユーロという通貨だけを共通にしたという“設計不良”によるものですから、対症療法では解決できません。この欠陥は1999年のユーロ発足のときから指摘されていましたが、ヨーロッパの政治家は耳を貸そうとはしませんでした。その構造的な歪みが、世界金融危機によって現実のものとなったのです。

もちろんギリシアの経済は、日本でいえば神奈川県ほどの規模しかありませんから、たとえばドイツがお金を出してギリシアの財政赤字を清算すれば“危機”はたちまち消えてしまいます。これは経済的にはもっとも被害の少ない合理的な解決法でしょうが、ドイツの有権者を納得させることができないので、政治的には実現不可能です。

そこでEUは、大岡越前の三方一両損のような合意を目指すしかなくなりました。すなわち、ユーロ圏の納税者と、ギリシア国債を保有する民間銀行と、ギリシア国民がみんなで損を分け合おう、というわけです。

すこし前に、「退出という選択肢のないムラ社会では、原理的に、政治的な決定は全員一致しかない」という話(「決断できない世界」)を書きましたが、ヨーロッパのリーダーたちが江戸時代の奉行と同じことをするのは、国を物理的に動かせない以上当たり前です。

これまで私たちは、欧米と比べて、「決断できない」日本の政治をずっと批判してきました。しかしいったん“ムラ社会状況”にはまってしまうと、“デモクラシーの祖国”であるヨーロッパでもやはり「決断」などできないのです。

ところで、この「三方一両損」がギリシアで大規模なデモを引き起こしたのは、EUからの援助があっても、自分たちの“損”があまりにも大きいと感じられたからです。「ギリシア人はもっと働け」というのは正論ですが、批判されればされるほど反発するというのもひとの性(さが)です。そのうえ、公務員が大量に解雇されたり、年金の額が大幅に引き下げられたりしたら生きていけませんから、既得権を奪われるひとたちの死に物狂いの抵抗は止められません。

このようにしてギリシアの政治は機能不全に陥り、国民投票か内閣総辞職でしか事態を打開できなくなってしまいました。ギリシア国内では、「ドラクマ(以前のギリシア通貨)に戻せば為替相場が大幅に下落して、観光収入や輸出の増加で経済は回復する」という意見もあるようですが、制度上、EUから脱退しなければユーロから抜けられない、という問題があり、事態はさらに混迷の度を深めそうです。

ところで、この「ユーロ危機」の本質はどこにあるのでしょうか。

それは、「国家はもはや市場を制御することができない」ということです。

世界金融危機以降、世の識者たちは「国家が市場を規制せよ」と大合唱してきました。しかし現実には、市場(資本主義)に合わせて国家を再設計しないかぎり、問題は解決できません。

なぜなら「問題」は国家そのものが起こしているからですが、その話はまた別の機会にしましょう。

 『週刊プレイボーイ』2011年11月14日発売号
禁・無断転載