なんだ、“食糧危機”はウソだったのか【書評】

すこし前の本だが、川島博之氏の『「作りすぎ」が日本の農業をダメにする』を紹介したい。 川島氏はシステム分析の専門家で、食糧問題やエネルギー問題など、利害関係者の思惑によって議論が錯綜するやっかいな問題について、マクロのデータを冷静に分析したうえで現状を把握し、未来を予測することの重要性を強調する。本書は、『「食糧危機」をあおってはいけない』『「食料自給率」の罠』とともに、”食糧自給率”や“食糧安全保障”といった言葉に踊らされる日本国内の議論がいかに不毛なのかを、国連食糧農業機関(FAO)や国連人口局、世界銀行などの公開データを基に徹底的に暴いていく。

1950年に25億人だった世界の人口はその後爆発的に増加し、2011年には70億人に増えた。それと同時に、農業における科学技術革命によって1950年頃から米や小麦、トウモロコシなど穀類の単収が急増し、豚肉、鶏肉など食肉の生産量も大幅に伸びている。

マスメディアは、人口爆発によって深刻な食糧不足が遠からず起こると危機を煽るが、川島氏によればこれは因果関係が逆で、食糧の増産が可能になったからこそ人口が増加したのだ。食べるものがなければ、子どもを産んだり育てたりできない。

食糧危機というと私たちはアフリカのやせ衰えた子どもたちの写真を思い浮かべるが、これは内戦などの政治的混乱から土地を追われ、農地が荒廃してしまったからだ。エチオピアは最貧国で、FAOによれば国民の多くが飢餓に苦しんでいることになっているが、実際に農村部を訪ねてみるとまったくそんなことはなく、データによればエチオピア人の摂取カロリーは日本人を上回る(もっとも、内乱や旱魃ですぐに飢饉が起きるから、エチオピアの暮らしが日本よりゆたかだということではない)。

川島氏が挙げるデータを、前掲書からいくつか紹介しておこう。

この図は、農業における科学技術革命によって小麦の単収が1950年頃から大きく上昇したことを示している。灌漑や機械化、品種改良などさまざまなイノベーションのなかで最大のものは化学肥料の発明で、空気中の窒素を固定することが可能になったため、農作物の生育にもっとも不足する窒素を手間のかかる堆肥などで補う必要がなくなり、農業は劇的に変わった。

「農業革命」から10年ほど遅れて、食肉のなかでも豚肉と鶏肉の生産量が大きく増えはじめた。それに対して牛肉と羊肉の生産量があまり変わらないのは、牛や羊が草を食べるのに対して、豚や鶏は穀類で育つからだ。

その結果、人口爆発にもかかわらず食料の価格は下がっている。これは世界の一人当たりGDPに対する鶏肉の価格で、年によって大きく変動することはあるものの、鶏肉が一貫して買いやすくなっていることがわかる(2010年の相対価格は1980年の約7割だ)。これは食料価格の値上がり率が所得の増加率よりも低いためで、私たちは1950年を境に、慢性的な食料不足から食料過剰への“人類史的変化”を体験しているのだ。

川島氏によれば、人口爆発もそれほど長くは続かない。

中国やインドなどアジアの大国では経済発展により人口増加の時期は終わりつつあり、世界の人口は2050年に90億人程度まで増えた後、それ以上は増加しないだろうという。それに対して南米やアフリカには(まだじゅうぶんな肥料の投下されていない)低利用の土地や未利用の土地が大量にあり、森林資源などを伐採しなくても人類が必要とする食料を供給するのになんの問題もない。

食肉のなかでももっとも飼料が必要なのは牛肉(1キロあたり10キロの飼料)だが、豚肉なら4キロ、鶏肉では2キロで済む。食に対する好みはさまざまで、中国人は牛肉より豚肉を好み、ヒンドゥー教徒は牛肉を食べず、インドの富裕層は宗教上の理由からほとんどが菜食主義で、イスラム圏では豚肉は禁忌で鶏肉が好まれる。

このように、経済発展で食肉への需要が大幅に増えたとしても、牛肉の増産のために飼料の奪い合いが起こったりはしない。食肉需要による食糧危機説は、ステーキこそが最高の料理だという欧米人の偏見から生まれたの妄想なのだ。

世界じゅうで、食料は余っている。そしてこれが、先進国を中心に深刻な農業問題を引き起こした。

これもいわれてみれば当たり前なのだが、農産物が稀少で価格も高ければ、農業が経済的に成立しないという意味での「農業問題」は起こらない。農業問題というのは、穀類などの供給が過剰になり、売り先がなくなって価格が低下し、農家の収入が下がって生活が成り立たなくなることをいうからだ。

それに対して食糧問題とは、食料の需要に対して供給が過少になり、必要なひとが食料を手に入れられなくなることをいう。供給過剰(需要過少)による農業問題と、供給過少(需要過剰)による食糧問題は経済学的には正反対で、両者を同一のものとして語ったり、同時に解決することは原理的にできない。

それにもかかわらず日本国内の農業問題についての議論は、いまだに終戦直後の食料不足を前提としており、食料の過剰(作りすぎ)という現実を無視しているため、まったく意味のないものになっている。

「日本の食料自給率はカロリーベースで40%しかない」といわれるが、カロリーベースの自給率を問題にしている国は世界じゅうで日本しかない。豚肉や鶏肉は国内で生産されているが、穀物飼料は輸入しているのだから「自給」とはいえない。このように考えると、農水省の推計でも、日本の食料自給率はどう頑張っても50~60%程度にしかならない。農水省の目標は食料自給率50%だが、40%なら不安で50%だと安心だという根拠などどこにもない。

さらにいえば、日本の食料自給率を引き下げたのはコメに対する長年の過剰な優遇策だ。自民党政権が農村票を確保するためにコメの価格を吊り上げたため、農家は小麦など他の穀類をつくらなくなった。そのため穀物飼料を輸入するほかなくなり、それが食料自給率を引き下げるから、いまでは農家に補助金(すなわち税金)を渡して小麦などの生産を奨励している。しかしこんなことではアメリカの大規模農業に対抗できるわけもなく、いたずらに税金をムダにしているだけだ。

「食料自給率」というのは、過去の農業政策の失敗を糊塗し、個別所得補償制度など票目当ての農家への優遇策を正当化するための、政府や官僚による都合のいいレトリック(ウソ)なのだ。

川島氏によれば、日本の農業の最大の問題は農業人口が“多すぎる”ことだ。

アメリカでは農家1戸あたりの農地は10.8ヘクタールで、1人当たりの穀物生産量は78.1トン、ヨーロッパの農業大国であるフランスでは、1戸あたりの農地は7.1ヘクタールで、1人当たりの穀物生産量は52.8トンだ(フランスでは、アメリカの7~8割の規模で農業生産が行なわれている)。それに対して日本では、1戸あたりの農地は0.7ヘクタールで、1人当たりの穀物生産量は4.0トンと、アメリカやフランスの10~20分の1だ。これほど規模が違っては、「競争」など成立するはずがない。

日本の農業の問題は「担い手不足」ではなく、担い手が“多すぎる”ことだ。農業の競争力をグローバルスタンダードに引き上げるためには、農家の戸数を少なくとも現在の10分の1程度まで減らさなければならない。そうなれば、地方にはほとんどひとはいなくなるだろう。農業の再生と、地方の再生は両立しないのだ。

農業問題の根本は、農業と製造業の生産性に大きな差があることにある。農産物の需要は、原理的に、人口増と同じ程度にしか増えない。ひとはゆたかになれば高級な食材を買い求めるようになるだろうが、米や肉を3倍も4倍も食べるようになるわけではない。

それに対して製造業の生産性は、技術革新や規模の拡大によって大きく上昇した。こうして農村から都市へと人口が流出するが、それでも農地の拡大は進まず農村はどんどん貧しくなっていく。都市と農村の格差の拡大は、日本だけでなく、中国や東南アジアなど世界のどこでも見られる現象だ。

こうした“不都合な事実”を前提として、川島氏は日本の農業の将来について、いくつかの提言をしている。

ひとつは、「食糧危機」や「食料自給率」などという荒唐無稽なつくり話で政策を論ずることをやめること。食料はあり余っており、いつまで経っても食糧危機はやって来ず、食料自給率は無意味だ。

ふたつめは、日本の農業に競争力があるとしたら、規模の経済が必要なコメづくりではなく、広い土地を必要としない畜産や野菜栽培だということ。オランダの食料自給率はわずか18%だが、トマトやチーズをEU諸国に輸出して大きな利益を上げている。日本の農業も、アメリカの大規模農業に対抗するのではなく、オランダのようなニッチ戦略に特化すれば、中国やアジア諸国への輸出を大きく伸ばせるだろう。そのためには、TPPにも早期に参加しなければならない。

三つめは、コメを自由化したとしても「競争力」が生まれたりはしないということ。新世界(北米やオセアニア)の大規模農業はあまりにも強力で、平地が少なく農地の権利関係が複雑な日本でははじめから相手にならない(競争上の優位性がないのだから競争しても仕方がない)。

そう考えれば、現実的には、コメを例外扱いにして農産物を自由化し、あとは政策で調整していくほかはないと川島氏はいう。強引なコメの自由化は農協などの強硬な反対を招き、輸出産業として育つ可能性のある畜産や野菜栽培の芽を摘んでしまうからだ(日本のコメ市場はアメリカにとって魅力的なものではなく、交渉はじゅうぶんに可能だという)。

このように、川島氏の主張はこれまでの食糧問題、農業問題の議論を根底から覆すものだ。私はこの分野の門外漢だが、その論理はシンプルで説得力がある。

農水省はもちろん、今後、食糧(農業)問題を論ずるひとは、川島氏の主張に対して、同じ科学的(学術的)データによって反論すべきだ。そうすればいまの醜い罵り合いも、すこしはマトモになるだろう。

“大誤報”なんてぜんぜん珍しくない 週刊プレイボーイ連載(73)

山中伸弥京都大教授のノーベル医学生理学賞受賞に日本じゅうが湧くなかで、iPS細胞を使った世界初の臨床実験の“大誤報”もたいへんな騒ぎになっています。しかし、マスメディアの誤報というのはそんなに珍しいものなのでしょうか。

そんなことを考えていて思い出したのが、2009年1月に世を騒がせた「かんぽの宿」問題です。かんぽの宿は簡易保険加入者のための宿泊施設でしたが、赤字経営の恒常化で小泉―竹中時代の郵政民営化で売却対象とされ、日本郵政の西川善文初代社長(元三井住友銀行頭取)のときに、土地・建物と従業員の雇用継続込みでオリックス不動産に109億円で事業譲渡されることが決まります。

しかしその後、麻生内閣の鳩山邦夫総務大臣が、「2400億円もかけて取得した施設を109億円で売るのはおかしい」といい出し、それを機に、当時、総合規制改革会議議長だった宮内義彦オリックスグループCEOに国の大切な資産を安売りしようとしている、という批判が新聞やテレビ、週刊誌で連日のように報道されます。それを受けて、野党だった民主党の原口一博議員らが西川日本郵政社長を特別背任未遂などの容疑で東京地検に刑事告発しました。

当時の大騒ぎは覚えているかもしれませんが、この“大問題”がその後、どのようになったのかを気にするひとはほとんどいません。

日本郵政は批判を受けて、弁護士、公認会計士、不動産鑑定士からなる第三者委員会を設置し、かんぽの宿の譲渡契約を再検討しました。第三者委員会は4カ月で報告をまとめ、かんぽの宿の譲渡になんら不正な点がなかったことを明らかにします。

かんぽの宿を一括売却せざるを得なかったのは従業員の雇用を優先したためで、売却価格が109億円なのはそれだけの価値しかない物件だったのであり、オリックス不動産に譲渡されることになったのは入札でもっとも高い価格を提示したからでした。鳩山総務大臣らの批判には、なんの根拠もなかったのです。

民主党の国会議員の刑事告発はというと、2011年3月に東京地検特捜部は、「売却条件にもっとも近い条件を提示したのがオリックス不動産で、任務に反したとはいえない」として不起訴(嫌疑なし)とします。原口議員は前年9月まで日本郵政を管轄する総務大臣の職にあり、無実のひとを犯罪者に仕立て上げようとした行為はきわめて責任重大ですが、ほとんど話題にもなりませんでした。

第三者委員会の調査と東京地検の不起訴によって、「かんぽの宿」問題が政治的なでっち上げであったことが明らかになりました。おかしな大臣によるデタラメな発言によって日本じゅうのメディアが大誤報を連発しましたが、いまだに一行の訂正もされていません。だとしたら、おかしな研究者がデタラメな実験をしたとしたも、たいしたことではないでしょう。

“大誤報”をした新聞社は、3行ほどの訂正記事を出しておけば十分だったのです。

参考文献:『ザ・ラストバンカー 西川善文回顧録』

 『週刊プレイボーイ』2012年10月28日発売号
禁・無断転載 

第22回 不思議な縁もある無縁社会(橘玲の世界は損得勘定)

前回、母が入院したことを書いた。今回も、その時の話だ。

病院のフロアの一角に、自販機と電話、椅子が数脚置かれた談話室があった。私はそこで、面会の許可を待っていた。

談話室の中央に机がひとつ置かれていて、そこで病院のスタッフが見舞客と話をしていた。見舞客は高齢の女性と、それよりすこし若い男性で、最初は姉弟だろうと思った。

患者は脳梗塞で倒れたらしく、一命は取り留めたものの重い障害が残り、1人で生活するのは無理なようだった。かといって介護施設ではない病院に長く入院させることはできず、スタッフが転院先を探しているのだが、すぐに見つかるかどうかわからない。そこで、いったん退院させた後に、受け入れてくれる施設が見つかるまで、しばらく自宅で面倒を見てもらえないかという相談だった。

最初は、よくある話だと思った。高齢者の介護は、どこの家庭でもこれから大きな問題になっていく。

だがそのうち、会話が噛み合っていないことに気がついた。自宅で介護できるかと聞かれて、見舞客の2人は、患者の自宅がどこなのかわからないと困惑しているのだ。

「ところで、患者さんとはどんなご関係なんですか?」

病院のスタッフに訊かれて、男性の方がこたえた。

「関係といわれても、とくにないです」

「それでは、お2人の関係は?」

怪訝そうにスタッフが訊く。

「私たちも、とくに関係はないです」

このあたりから私は真剣に耳を傾けたのだが、男性の説明でなんとなく事情はわかった。

隣にいるおばあさんは近所で長く蕎麦屋をやっていて、男性と患者はその店の常連だった。最近、店に顔を出さないと思ったら、脳梗塞で倒れたと聞いたので2人で見舞いに来た……。

患者は家族とは絶縁しているらしく、これまで誰も見舞いには訪れなかった。そこに2人が現われたので、病院のスタッフはすっかり親族と信じ込んだのだ。

だが驚いたのは、それだけではない。おむつ姿でリハビリをする患者の姿を見て、2人は、退院するのなら自分たちが面倒を見てもいい、と言ったのだ。経済的な援助は無理だが、自宅に通って食事や下の世話をしたり、リハビリを手伝うくらいなら無償でやるというのだ。

病院は身寄りのない患者の扱いにほんとうに困っていたようだが、さすがに赤の他人に押し付けるわけにはいかず、「なんとか親族を探し出して相談してみます」ということで話は終わった。今も蕎麦屋を営んでいるというおばあさんは、「もしご家族に断わられたなら、私が面倒を見させていただきますから」と丁重に頭を下げた。

椅子から立ち上がる時、おばあさんは傍らに立てかけてあった杖を取った。常連客に身体を支えられ、足を引きずりながらエレベータへと向かう後ろ姿を見ながら、「無縁社会にもこんな縁があるんだな」と思った。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.22:『日経ヴェリタス』2012年10月21日号掲載
禁・無断転載