“富”は不正がなくても集中する 週刊プレイボーイ連載(25)

「ウォール街を占拠せよ」の運動では、「私たちは99%」のスローガンが掲げられました。貧富の差が拡大したことによって、米国社会は1パーセントの富裕層とそれ以外の貧困層に二極化してしまったというのです。

ところで、富はなぜ少数の人間に集中してしまうのでしょうか。ほとんどのひとは、ここにはなにかの不正がはたらいているにちがいない、と信じています。しかしいまでは、市場が公正で効率的であるならば、みんなが真っ当に商売したとしても、富の一極集中と経済格差の拡大はごく自然に発生すると考えられています。それは、市場が複雑系のスモールワールド(小さな世界)だからです。

スモールワールドでは、それぞれの要素がお互いにフィードバックしあうことで、わずかな初期値のちがいから大きな差が生まれます。

といっても、これはぜんぜん難しい話ではありません。私たちにとってもっとも身近なスモールワールドは人間関係で、友だち同士がお互いにフィードバックしあうことで、ちょっとしたひと言が思わぬ波紋を呼んだりします。

スモールワールドのもうひとつの特徴は、ときどきとんでもないことが起きることです。プレート同士が衝突する地球内部は活断層が複雑につながりあったスモールワールドで、そこでは微小な地震が日常的に起きていますが、私たちはそのほとんどを体感できません。そしてある日突然、プレートの歪みが臨界点に達して巨大地震が襲ってくるのです。

これは、スモールワールドにはとんでもない場所がある、ということでもあります。インターネットはホームページ同士がリンクしあう典型的なスモールワールドですが、そこではヤフーのような、膨大なリンクを持つ特権的なサイトが存在します。インターネットユーザーは、こうしたハブ(中継点)を上手に利用して、興味のある情報を探していきます。逆にいえば、ひとびとのこうした(無意識の)行動によって、ネットの世界にハブが自然に生まれるのです。

私たちの社会はスモールワールドですから、人気(評判)は特定の人物に一極集中していきます。アマチュアリーグの野球選手とイチローを比較すると、実力差は10倍(あるいは100倍)くらいかもしれませんが、評判の差は無限大です。このように、能力(野球のうまさ)によって富(評判)が均等に分配されるわけではないことも、スモールワールドの特徴です。

市場も、ひととひととがお金をやりとりするスモールワールドです。そうであれば、市場のハブとなる特定の企業や人物に富が集中するのは当たり前です。このことに最初に気づいたのは数学者のブノア・マンデルブロで、税制や規制、利権や陰謀などに関係なく、市場が拡大すれば(全体のパイが大きくなれば)必然的に富の一極集中は進むと考えました。

私たちは、評判市場において歌手やスポーツ選手が人気を独占することを不公平とは感じませんが、貨幣市場において超富裕層に富が集中することを不正義と考えます。しかしこれは、いずれもスモールワールドから生まれる同じ現象なのです――だからといって、それが正しいというわけではありませんが。

参考文献:ブノア・マンデルブロ『禁断の市場―フラクタルでみるリスクとリターン』

 『週刊プレイボーイ』2011年10月31日発売号
禁・無断転載

電子雑誌『allez!』に、『大震災の後で~』について書きました。

電子雑誌『allez!』10月号に『大震災の後で~』について短い文章を書きました。編集部の許可を得てブログに転載します。

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3月11日の東日本大震災と、それにつづく福島第一原発事故は、私たち一人ひとりに重い問いを突きつけました。

原発事故と政府の対応に対して、なぜこんな理不尽なことが許されるのか、という怒りと絶望。被災地の惨状を前にして、自分にいったいなにができるだろうとういう無力感。そして、家や仕事や生活の基盤のすべてを一瞬にして失ったひとたちを目の当たりにして、磐石なはずの日常がふいに途切れたとき、どうやって生き延びればいいのかという、いい知れぬ不安。

私はずっと、「自由とは選択肢のことだ」と考えてきました。どれほど自由気ままに振る舞っているように見えても、夫や会社や国家に経済的に依存しているのなら、それは隷属の一形態に過ぎない。自由に生きるには経済的な独立が必要なのだ、と。

大震災が衝撃だったのは、自由をめぐる私の考えがたんなる絵空事でしかなかったことです。被災地で避難生活を送るひとたちが教えてくれたのは、ほとんどのひとは人生の選択肢など持っていない、という現実でした。

自然災害や経済的な混乱からひとびとの生活を守るためにできることは、原理的に二つしかありません。一人ひとりのリスク耐性を上げることと、リスクに強い社会をつくっていくことです。

冷戦終焉以降、日本的なシステムは世界の大きな変化に適応できなくなってしまいました。しかしこれは、バブル崩壊後、不良債権問題が深刻化して、地価や株価の下落が一過性のものでないことが明らかになった90年代半ばから、ずっといわれつづけてきたことです。

日本の政治は駄目だとか、官僚が日本を支配しているとか、そんなことはいまでは誰だって知っています。天下国家を語るひとたちは、すでに20年ちかくも、口角泡を飛ばして同じ話を繰り返してきました。

現状分析も処方箋もわかっていながら変わることができないのは、変わらないことに合理的な理由があるからです。

より平等で効率的な社会は、すべてのひとに均等に恩恵をもたらすわけではありません。「まわりが豊かになっても、既得権を奪われるなら本末転倒だ」「自分だけ割を食うなら、みんなで貧しくなったほうがまだマシだ」とひとびとが考えるなら、「改革」は永遠に夢物語に終わるでしょう。

だとすれば、私たちの前には、絵空事と夢物語の二つの選択しかありません。

『大震災の後で人生について語るということ』で書いたのは、絵空事を徹底することで、そこに「希望」らしきものが見えてくる、という逆説です。ほとんどのひとにとって、ここで語られる人生設計は実現不可能な、なんの意味もないものにちがいありません。しかしごく一部のひとたちは、絵空事を現実に変えるちからを持っているはずです。

そして彼らこそが、より大きな黒い鳥(ブラックスワン)がこの国に舞い降りたときに、私たちの大切な故郷(くに)を救うことができるのだと、私は考えています。

本書の続編では、そんな「夢物語」を書いてみるつもりです。

電子雑誌『allez!』10月号
禁・無断転載 

こんなに若者が幸福な時代はない

この20年はほんとうは「幸福」だったのではないかか、というエントリーを書きましたが、それに関する興味深いデータがあるので、あわせてアップしておきます。

下のグラフ(画像をクリックで拡大)は、社会学者・古市憲寿の『絶望の国の幸福な若者たち』に掲載された図をスキャンして、わかりやすいように着色処理したものです。同書によれば、古市自身もこのデータを豊泉周治『若者のための社会学』で知ったとのことで、その後、一部の社会学者のあいだで話題になったようです。

このデータは内閣府の「国民生活に関する世論調査」によるもので、グラフを見れば明らかなように、20代男子の「生活満足度」は1970年~90年に比べて、この10年間で15%近くも急上昇しています。いまの若者は、1980年代のバブル最盛期の若者たちよりもずっと「幸福」なのです。

世間では、「グローバリズムによる格差社会で若者が不幸になった」と大合唱されています。だったら、なぜこんな奇妙な結果が出るのでしょうか。

古市はそれを、社会学者・大澤真幸の論を引きながら、次のように説明します。

「幸福」というのは相対的なもので、私たちが「今は不幸だ」とか「生活に満足していない」と感じるのは、「将来はより幸福になれる」と思っているからだ。これからの人生に「希望」があるひとにとっては、今の人生を「不幸」として否定しても、自分を全否定したことにはならない。

だが、もはや自分がこれ以上幸福にはなれないと思えば、ひとは「今の生活が幸福だ」とこたえるしかない。すなわち、若者の幸福度(生活満足度)が急上昇しているのは、2000年以降、彼らが将来に「希望」を持てなくなったことの裏返しなのだ……。

日本の若者が置かれた状況は、アメリカの若者たちが、将来に対してきわめてポジティブに考えていることを見るとよりはっきりします。

アメリカでは、1980年以降に生まれた世代を「新千年紀世代」と呼びます。“新千年紀(西暦2001年からの1000年間)に入ってからはじめて大人になった世代”のことで、2011年現在では18~30歳の若者たちにあたります。

この新千年紀世代の意識をアメリカの大手世論調査会社「ピュー研究センター」が調べたところ、X世代(1965~80年生まれ)やベビーブーマー世代(1946~1964年生まれ)と比較して、以下のようなことが明らかになりました(調査報告は2010年2月)。

アメリカの新千年紀世代に特徴的なのは、「人生でなにがたいせつだと思うか」という質問に対して、他の世代に比べ、「良い親になること」(52%)や「良い結婚をすること」(30%)という回答が際立って高いことです。

しかし彼らは、たんに保守化しているわけではありません。「移民はアメリカを強くする」とこたえているひとの比率は、30歳以上では4割ですが、新千年紀世代では6割に達しているのです。

さらに、「アメリカでは、いろいろなことがうまく進行している」という意見に賛成するひとの比率が、30歳以上(26%)に比べて新千年紀世代の若者が顕著に高い(41%)、という結果も出ています。(以上のデータは、山岸俊男+メアリー・C・ブリトン『リスクに背を向ける日本人』より)。

アメリカの若者たちは、伝統的な価値観(よい家庭をつくる)を重視する一方でリベラル(移民は積極に受け入れるべきだ)でもあり、自分たちの将来にきわめて前向きなのです。

「ウォール街を占拠せよ」のような若者の運動がなぜ日本では起きないのか、という議論がありますが、その理由は日本とアメリカの若者たちの「希望」のちがいによってきわめてシンプルに説明できます。

日本の若者は、「将来にたいして希望は持てないけれど、いまはそこそこ楽しく暮らしていけるからとりあえずこれでいいや」と思っています。それに対してアメリカの若者は、「未来はもっとよくなるし、そうなるべきだ」と考えています。だからこそ、現状に対する不満が「運動」へとつながるのです。

それともうひとつ、「生活満足度」のグラフの大きな特徴が、この20年で30代~60代の幸福度が大きく下がっていることです(とりわけ2010年の調査では、50代の2人に1人が生活に満足していません)。

これは、彼らが将来に大きな「希望」を持っている(だから現状に不満だ)ということでしょうか。しかしこの説明は、あまりにも無理があります。

大澤のいうように、「ひとは希望をなくすにつれて現状に満足するようになる」と考えるならば、1970年代~90年代のように、年齢とともにに生活満足度が上がっていくのが通常の姿です(年をとると「先が見えてしまう」のです)。それが急激に下がっているとすれば、2000年以降、日本の中高年世代に“なにか特別のこと”が起きたと考えるほかはありません。

このことは、私が『大震災の後で~』で述べた、「1997年のブラックスワンが日本の中高年層を直撃し、累計で10万人を超える死者を出す“見えない大災害”を引き起こした」という仮説と整合的です。彼らは若者たちのような“漠然とした不安”ではなく、経済的な“リアルな危機”に見舞われているのです。

それともうひとつ、このグラフがきわめて示唆的なのは、現在の20代の若者たちが(おそらく)戦後もっとも「幸福」だとしても、その生活満足度は、今後、年をとるにしたがって急速に下がっていくだろう、ということです。そしてまた、いまよりもさらに「幸福」な若者たちが、登場することになるのでしょう。