体罰は日本型マネジメント 週刊プレイボーイ連載(83)

大阪の市立高校で、バスケット部の男子生徒が顧問教諭から体罰を受けて自殺したことが大きな社会問題になっています。

昨年は滋賀県の市立中学でいじめ自殺が起きましたが、日本では学校での自殺のほとんどが公立中学を舞台としています。ひとは誰もが生きたいという強烈な欲望を持っていますから、自ら死を選ぶのはどこにも逃げ場がない絶望の深さを示しています。

公立中学の生徒がいじめで自殺するのは、義務教育によって退学の自由がなく、また相手の生徒を退学させることもできず、いじめが未来永劫つづくように感じられるからでしょう。高校になるといじめ自殺が起きない理由は、いじめられた生徒が転校や退学するハードルが下がることと、問題のある生徒を停学・退学処分にしやすいことで説明できます。現状をすこしでも改善できる希望があるのなら、誰も死のうとは思いません。

そう考えると、高校の部活動で自殺が起きるのは不可解です。死を考えるほど思いつめる前に、さっさと退部してしまえばいいからです。それでも今回のような事件が起きるのは、退部できないような強力なちからが部活動に働いているからにほかなりません。

マスメディアは顧問教諭の体罰を問題にしますが、かんたんに退部できる環境であれば、体罰を振るわれた部員はみんな辞めてしまうでしょうから、自殺のような重大な問題にはつながりません。逆にいえば、生徒を精神的な監禁状態に置くからこそ、体罰による指導が可能になるのです。

今回の事件では、強豪校の運動部が聖域になっていて、校長すら安易に口を挟めない実態も浮き彫りになりました。OBや父母のなかには、顧問教諭を「指導に熱心な先生」と擁護する声も多いといいます。「体罰=悪」は社会常識ですが、運動部は一種の治外法権だという意識がそこからは感じられます。

ライバルを倒して勝ち上がっていくためには、自己の限界を超える過酷なトレーニングを課さなければなりません。そのためにもっとも効果的なのは、恐怖や暴力によって生徒を洗脳し、指導者への絶対的な服従とチームへの献身を叩き込むことでしょう。こうした洗脳が完成すると、退部は自己を全否定することになり、指導者や仲間の信頼を裏切るくらいなら死んだほうがマシだと思うようになります。

この問題の本質は、日本の組織の多くがこうした「体育会型マネジメント」で成り立っていることにあります。日本の会社が、自己責任で行動する近代的個人よりも上司の指示どおりに動く「体育会系」を好むのは周知の事実です。上司より先に部下が帰ることは許されず、サービス残業は当たり前で、パワハラによって上司が部下を精神的に支配することが「管理」と呼ばれます。

だからこそひとびとは、この問題を顧問教諭の体罰に矮小化し、その「指導」を擁護する声に耳をふさぎます。事件の背景を追究すれば、日本型組織に依存する自分自身が批判されることに気づいているからでしょう。

このようにして、個人への責任転嫁とバッシングで事件は風化していくのです。

 『週刊プレイボーイ』2013年1月21日発売号
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