日本がもしコミュニストの国になったら

 

ZOLにシベリア抑留の話を書いた。

そのときふと思い出したので、詩人・石原吉郎の言葉をここに記しておきたい。

1915年に静岡・伊豆に生まれた石原は、幼くして母を失い、苦学して東京外語大学に入学、ドイツ語を学ぶ。そこでマルクスと出会い、社会主義や共産主義の文献を読み漁るようになる。

大学卒業後は大阪ガスに入社、このとき徴兵検査を受けるが、第二乙種・第一補充兵役となり、兵役は免れた。この頃からキリスト教に関心を持つようになり、ドイツ人の神父から洗礼を受け、キリスト者になるべく東京神学校への受験準備を始める。

だが受験前の24歳で召集を受け、北方情報要員第一期生として大阪露語教育隊でロシア語を学んだのち、1941年、太平洋戦争開戦の年に満州に移った。配属先は関東軍情報部(特務機関)で、ソ連軍の内情分析にあたった。

1945年、敗戦とともにシベリアに抑留。最初の冬をかろうじて生き延びたものの、49年に刑法58条(反ソ行為)6項(諜報)により、死刑廃止後の最高刑である重労働25年の判決を受け、バム鉄道(バイカル―アムール鉄道)沿いの収容所で流木、土工、鉄道工事、採石などに従事。収容所の環境は劣悪で、生死の境をさまよい、極度の影響失調のため2回入院。

1950年にハバロフスクの収容所に移送され、日本人受刑者と合流する。53年12月、スーターリンの死去にともなう特赦で8年ぶりに日本に帰還。38歳になっていた。

帰国後石原は、自身のシベリア体験を言葉にすべく苦闘し、何冊かの詩集を上梓した。

シベリアで共産主義社会の本質を見せつけられた石原は、1960年8月、次のような一文をノートに書きつけている。

日本がもしコンミュニストの国になったら(それは当然ありうることだ)、僕はもはや決して詩を書かず、遠い田舎の町工場の労働者となって、言葉すくなに鉄を打とう。働くことの好きな、しゃべることのきらいな人間として、火を入れ、鉄を灼き、だまって死んで行こう。社会主義から漸次に共産主義へ移行していく町で、そのようにして生きている人びとを、ながい時間をかけて見つづけて来たものは、僕よりほかにいないはずだ。(『望郷と海』1960.8.7のノートより)

この当時、革命によって日本をコミュニズムの理想社会にしようとする若者たちが大学や国会前でデモを繰り返していた。

そしていまも、格差や不平等を批判し、性急に“理想社会”を求めるひとたちは後を絶たない。