第23回 調査会社、ワケありの情報力(橘玲の世界は損得勘定)

すこし前の話だが、暴力団の捜査をしていた県警幹部の個人情報を漏らしたとして、探偵業者と携帯電話会社の元店長が逮捕された。元店員や派遣社員も次々と捕まって、携帯電話の個人情報が広範に取引されている実態が明らかになった。

捜査のきっかけは、県警幹部の自宅や携帯電話に匿名の電話がかかってきて、「お前にも家族がいるだろう」などといわれたことだ。こんな卑劣なことをされたら、警察だって本気にならざるを得ないだろう。

調査会社を通じて個人情報が入手できるのは秘密でもなんでもなく、インターネットで「個人信用調査」「借金調査」などのキーワードを検索すると業者の名前がずらりと出てくる。なかには料金表を掲載しているところもあり、1件2~3万円が相場だ。

そのなかに、「銀行口座残高調査」というのがある。氏名・住所・生年月日などを伝えると、調査対象者の資産を調べてくれるのだという。

ほんとうにそんなことが可能なのか不思議に思って、試してみたことがある。といっても他人の秘密を覗き見するわけにはいかないので、自分で自分の銀行口座を調べてみたのだ。

やり方はものすごく簡単で、調査会社のホームページから電子メールで調査依頼を送り、調査料を銀行振込や現金書留で支払うと、1週間ほどで調査結果が送られてくる。そのときはランダムに3件の口座を調べてみたのだが、メガバンクを含め、口座残高まで正確に出てきたのにはびっくりした。

携帯電話の個人情報漏洩事件では、元店長は1件6,000円で調査会社の元締めに情報を売り、そこから1件1万5,000円で末端の探偵業者などに転売されていた。探偵業者はそれを1件2万5,000円~3万円で依頼主に販売するのだ。こうした情報の流れは、携帯電話番号も銀行の口座情報も同じだろう。内部に協力者がいなければ、こんなことができるはずがない。

ところで、いったい誰がお金を払ってまで他人の銀行口座を知ろうとするのだろうか。

銀行調査のいちばんの顧客は、貸金を回収したい債権者だ。銀行預金を差し押さえるには債務者の口座情報が必要だが、銀行は本人の同意がなければ顧客情報を教えてくれない。

tたとえば賃貸ビルの大家が、賃料を滞納しているテナントを裁判所に訴えて支払い命令が下ったとしても、債権を回収するのは容易ではない。税務署は個人や法人の資産情報を把握しているが、判決があっても、納税者の情報はいっさい提供してくれない。債権者は誰の助けも得られず、独力で資産の所在を突き止めなくてはならないのだ。こうして、調査会社の利用が暗黙のうちに認められているのではないだろうか。

しかしこれは、違法なビジネスを前提としているのだから、いくら情報の入手経路を知らないといっても無理がある。個人情報の保護だけでなく、開示のルールも決めておけば、国家が犯罪をそそのかすようなこともなくなるだろう。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.23:『日経ヴェリタス』2012年11月18日号掲載
禁・無断転載

遺伝と環境から「幸福」を考えるということ 【書評】『遺伝マインド』

『遺伝マインド』は、日本における行動遺伝学の第一人者である安藤寿康氏が、「遺伝子」についての正しい理解の重要性を初心者にもわかりやすく書いた本だ。

「遺伝マインド」とは、「人間の心や行動、そして社会の成り立ちや人間と自然の関係について考えるとき、そこにつねに遺伝の影響があることをふまえて考えようとする姿勢や態度のこと」だ。ここで述べられているのは人間観や社会観(世界観)のコペルニクス的転換で、今日、遺伝の影響を無視して哲学や道徳、人間や社会について語ることはできない。

安藤氏によると、「遺伝マインド」は次の3点にまとめられる。

  1. 遺伝現象は個々の「遺伝子」の単独プレイによるのではなく、多数の「遺伝子たち」の協同プレイによる現象である。
  2. 遺伝現象は環境を介してあぶり出されてくる。
  3. 社会は多様な遺伝子たちによってつくられている。

これらは、すこし考えてみれば当たり前のことばかりだ。

「エースストライカーの遺伝子」や「ものづくりの遺伝子」のような、ある特性(特徴)に対応する固有の遺伝子があるわけではない。多数の遺伝子の相互作用(複雑系)から、遺伝現象は生まれる。

遺伝と環境は独立しているわけではなく、相互に影響を与えあう。特定の環境に対して特定の遺伝現象が発現すると同時に、発現した遺伝的傾向によって環境が改変されていく。

両性生殖は遺伝子を多様化する仕組みであり、こうして生まれたひとびとによって構成される社会が多様な遺伝子を持つのは当たり前だ。

行動遺伝学は、以下の3つのメッセージを私たちに伝えている。

  1. 遺伝の影響はあらゆる側面に見られる。
  2. 共有環境の影響はまったくないか、あっても相対的に小さい場合が多い。
  3. 非共有環境の影響が大きい。

遺伝の影響が普遍的なことは、以前のエントリーでも紹介した。共有環境と非共有環境についても何度か書いたが、共有環境というのはかんたんにいえば家族(子育て)のことだ。

性格は遺伝と環境の影響で決まる(氏が半分、育ちが半分)が、家庭で共有する環境は子どもたちを類似させるよるもむしろばらばらにする。

この矛盾を体系的に説明したのが、ジュディス・リッチ・ハリスの「集団社会化説」だ。しかし安藤氏は、これは「人格形成にとって家庭環境は重要でない」ということではないという(このあたりの細かな議論は本書を読んでいただきたい)。

私の理解では、共有環境とは外的に操作可能な環境で、非共有環境は操作不可能な環境のことだ。家庭環境(子育て)は親の意思で設計できるが、子どもがどのような友だち集団を選び、そのなかでどのようなキャラを演じるかに親が干渉することはできない。そしてこの非共有環境(友だち関係)が子どもの人格や性格を決めるのだ。

『遺伝マインド』によれば、人間は生まれつき等しいわけではない。「遺伝的に等しくない人々がともに生きる社会において、遺伝的な差異が理由で、能力に差があり、成功の機会に差があり、収入に差があり、社会的地位に差があり、受ける社会的尊敬や自尊心の程度に差があり、衛生や健康の度合いに差があり、寿命に差がある」のは当たり前なのだ。

そのうえで安藤氏は、「社会的不平等の現実が、遺伝ではなく、環境によって、あるいは本人の心のもち方によってつくられたものだと考えたがる風潮」を批判する。

念のためいっておくが、遺伝マインドは「遺伝がすべてを決める」という優生思想ではなく、遺伝と環境の相互作用で人生が決まるというしごく穏当な主張だ。そのうえで安藤氏は、人格や能力は環境(家庭環境や教育環境)で決まるという「環境マインド」こそが優生思想だと批判する。平等な環境で生じた差異や不平等はすべて本人の責任として正当化されてしまうからだ。

「(社会から脱落してしまう)負の連鎖の原因を遺伝ではなく環境や本人の心構えに帰するのは、それしか解決の方法が思いつかないからである。環境なら設計的改変が可能だ。心構えも気持ちのもちようで何とか変えられる。しかし遺伝といわれたらもうどうしようもない。かつてナチスの優生社会では、社会悪を遺伝のせいにしたために、ユダヤ人虐殺まで正当化してしまったではないか。今またそれを繰り返そうというのか……、と。皮肉なことに、こうして二度と優生社会をつくるまいと遺伝的要因を否定する考え方が、事実上の優生社会をつくりあげることに寄与しているのである。」

これが現代社会の最大のタブーで、それを真正面から指摘したことに本書の最大の価値がある。「子育て」や「教育」や「個人の努力(自己啓発)」で“ひとは変われる”という善意こそが、残酷な優生思想を生み出すのだ。今後、あらゆる哲学や道徳はこの批判にこたえるものでなければならない(これについては、新刊『不愉快なことには理由がある』で書いた)。

ところで、「遺伝マインド」の世界で私たちはどのように生きていけばいいのだろうか? 一般論としてなら、本書にそのこたえが書いてある。

私たちの遺伝的な特性はきわめて多様だ。そのうえ遺伝と環境は相互作用していて、環境が遺伝現象を発現させ、発現した遺伝的現象が環境を変えていく。そう考えれば、ここから導かれる「成功の法則」はものすごくシンプルだ。

第一のステップは、自分の遺伝的な「比較優位」を知ることだ。発現する遺伝現象は環境によって異なるのだから、それを知るためには、できるだけ多様な環境に身を置いてみるほかはない。

遺伝の表われ方には、次のふたつの法則がある。

  1. 環境の自由度が高いほど遺伝の影響が表われる
  2. 環境が厳しいほど遺伝の影響が表われる

これは一見、相反することを述べているようだから、すこし説明が必要だ。

やりたいことをなんでも試してみることができる自由な環境の方が、好きなことを見つけやすいのは当たり前だ。しかしその一方で、制約の厳しい伝統的社会よりも自由な社会の方が、アルコールやドラッグへの耽溺のようなネガティブな遺伝的影響が表われやすいこともわかっている。

その一方で、うつ傾向のあるひとがうつ病を発症するのは、ストレスが著しく大きいときだ。環境が厳しいと、苦痛に敏感に反応する遺伝的素因が発現してくるのだ。しかしこのことは、厳しい環境に追い込むことで発現するポジティブな遺伝的素因があることを示唆している。

「石の上にも3年」というが、嫌なことを我慢しつづけても遺伝的な比較優位を見つけることはできない。これは因果関係が逆で、「3年続けられた」ということが、その仕事に対する遺伝的な適性を示している。遺伝的適性があれば、環境の厳しさがその素因をさらに伸ばすことになるかもしれない。

遺伝的な「比較優位」とは、要するに「好きなこと」「得意なこと」で、それによって(友だち)集団からポジティブなフィードバックが返ってくるもののことだ。それが見つかったら、次は遺伝的特性に合わせてまわりの環境を改変していけばいい。

これはたんに楽しいことだけするのではなく、収益化のモデルをつくっていくことだ。どれほど「好き」で「得意」でも、それを市場で“商品化”できなければ生きていくことができない。

人生における「成功者」とは、億万長者になって豪邸やプライベートジェットを手に入れることではなく、遺伝的な「比較優位」を最大化できる環境を自分のまわりにつくりあげたひとのことだ。そのためには、好きなことだけして生きていけるよう、人生を戦略的に設計しなければならない。

これが、行動遺伝学や進化心理学から導き出された成功の法則だ(より詳しくは、拙著『残酷な世界を生き延びるたったひとつの方法』をお読みください)。

『遺伝マインド』の最後で安藤氏は、遺伝的特性に合わせて環境を選択し、改変していく可能性(生きる希望)を述べると同時に、ヒトの遺伝子そのものの改変は超越的なものによって「禁じられている」と書く。

聖書には、「主たる汝の神を試みてはならぬ」とある。

「遺伝子研究は、遺伝子をもとにあったところに返す旅であり、それを使うために行うのではない」という言葉は重い。

なお、本書の続編として『遺伝子の不都合な真実』がある。

ジコチューはどこで失敗するのか? 週刊プレイボーイ連載(76)

田中真紀子文部科学相が、秋田公立美術大学など3大学の新設を不認可と判断し、批判を受けると一転して「不認可処分はしていない」と強弁して来年春の開設を許可しました。記者団に対して「今回(の騒動が)逆にいい宣伝になって4、5年間はブームになるかもしれない」と述べ、野党から問責を突きつけられてようやく謝罪するという傲慢さです。

独断でものごとを決め、ひとの意見に耳を貸さず、自分の失敗を反省せず、部下に責任を押しつける……ここには、ジコチューな人間のイヤな面がすべて出ています。

ひとは多かれ少なかれ、世界が自分を中心に動いていると錯覚しています。田中文科相には田中角栄の娘としての強烈な自負があり、権力とは相手をちからでもって従わせることだと思っているのでしょう(たぶん)。ジコチューばかりが集まった国会ですら煙たがられるのですから、こんなタイプが会社にいたら部下はたまったものではありません。

ジコチューな人間が失敗するのは、リスクを正しく評価できないからです。

私たちは、自分の言動を客観的に見ることができません。しかしそれでも、相手がどう思うだろうかとか、世間から批判されないだろうかとか、あれこれ思い悩みます。この仮想体験(シミュレーション)が、こころの機能です。

このシミュレーションがあまりに過剰だと、考えすぎてなにも行動できなくなり、引きこもりやうつ病になってしまいます。その反対にシミュレーション機能が働かないと、相手の反応をまったく予測せずに行動してしまいます。“暴走大臣”はこの典型です。

ただしこの欠点は、他人がどれほど注意しても直りません。主観的には暴走しているつもりなどまったくなく、自分は正しいことをしているのに、周囲の無理解によって理不尽に批判されていると感じられるからです。その意味では、「いい宣伝になった」という発言は彼女の素直な気持ちを表わしています。

田中文科相がどのような人格(キャラ)かは外務省の騒動のときからわかっていたのですから、首相の任命責任を問われても仕方がないでしょう。しかし批判はこのくらいにして、よい面にも目を向けてみましょう。

少子化で学生数が大きく減り、将来も回復する見込みがないにもかかわらず、四年生大学の数だけが増え続けるのは異常です。新設の認可を答申する大学設置審議会の委員の大半が大学関係者であることも、大学に多額の助成金が支払われるかわりに官僚の天下り先になっていることも、定員割れの大学が留学生を大量に受け入れ、不法就労などの問題を起こしていることもすべて事実です。このような制度が持続可能なはずはなく、“暴走”したとしても、その方向は正しかったのです。

田中文科相は小泉政権で外務大臣となり、「外務省は伏魔殿」と述べて外務官僚と激しく対立しました。その対応については評価が分かれるでしょうが、官房機密費を横領して競走馬を購入するなど、外務官僚の歪んだ体質は明らかです。

このように、田中文科相の政治家としての「直感」は間違ってはいませんでした。しかし残念なことに、他者への想像力の欠けたジコチューでは、その素晴らしい直感力を活かすことができなかったのです。

 『週刊プレイボーイ』2012年11月19日発売号
禁・無断転載