「言語明瞭意味不明」の世界で生きるということ 週刊プレイボーイ連載(38)

主張が一貫しないひとは信用されなくなる、という話を前回しました。「前の話とちがうじゃないか」といわれると、私たちは返す言葉がなくなってしまいます。

だとしたら、議論に負けない最強の方法は約束をしないことで、これを「言質をとられない」といいます。

国会審議で、首相や閣僚がのらりくらりと答弁をするのを見ると、この戦略がいかに有効かわかります。かつて「言語明瞭意味不明」といわれた首相がいましたが、日本では相手に言質を与えないことが政治的才能なのです。

それに対して欧米社会では、まったく異なるやり方でこの問題に対処しています。

ひとつは、約束を破ったときにどうするかを、あらかじめお互いが合意しておくことです。契約のなかにキャンセル条項があれば、話がちがっても無用なトラブルが起きるのを防ぐことができます。

もうひとつは権限と責任を一対一で対応させることで、それぞれが責任の範囲で最善を尽くすことを約束します。これはつまり、「私の責任外のことで君が不利益を被っても知らないよ」ということです。

欧米のビジネスマンは、自己紹介のあとにまず、自分はどのような仕事に責任を負っているのかを説明をします。この原則は組織の末端まで貫徹していて、だれもが自分の担当をはっきりと意識しています。

以前、シアトルのホテルにチェックインしたら、部屋にはまだ前の客がいて、出発の準備をしていた、ということがありました。彼らの荷物を運ぶポーターがいたので事情を説明すると、いきなり「それは私の責任ではない」といわれました。「君の責任の話をしているのではなく、どうしたらいいか聞いているんだ」というと、「そんなことはフロントにいってくれ」との返事です。その拒絶の仕方に驚きましたが、ポーターの仕事は荷物の管理で、それ以外のトラブルは自分には関係のないことなのです。

日本では、こういうことはちょっと考えられません。全従業員が、ホテルのすべての出来事に責任を負うのは当然とされているからです。すくなくとも、フロントに電話して対処を依頼するくらいのことはするでしょう。こういうとき、アメリカ人が私たちとまったく異なる原理で行動していることに気づきます。

もちろんこれは、アメリカ人が不親切だということではありません。逆に彼らは、自分の仕事に関しては過剰なくらい親切です。ただ、権限のないことをしないだけなのです。

個人ごとに責任と権限が確定した社会は、私たちから見れば、ぎすぎすとしたイヤな社会かもしれません。いちいち契約書を交わすのは、相手を信用していないようで水臭い感じがします。

だからもちろん、日本的な美風にも意味はあります。

責任や権限をあいまいにしておいたほうが、いろんなことに柔軟に対応できて、うまくいくことも多々あるでしょう。口約束なら、あとで状況が変わってもかんたんに修正できます。

これはきわめて快適な社会ですが、ただそのかわり、あらゆる組織が「言語明瞭意味不明」になって、だれひとり責任をとらなくなってしまうのです。

 『週刊プレイボーイ』2012年2月13日発売号
禁・無断転載 

GKB47のイタさについて

野田政権による自殺対策強化月間のキャッチフレーズ「GKB47」が、あまりの不評のため撤回された。自殺予防に取り組むゲートキーパー(門番)を47都道府県で増やそうというキャンペーンだが、自殺対策に取り組む民間団体などから「自殺問題をバカにしている」「GKBは若者言葉でゴキブリの意味だ」などの批判が噴出したのだという。

一連の騒動についてはアイドルに対する蔑視を感じるひともいるだろうから、ここで私見を述べるつもりはない。私が書きたいのは、「GKB47」をはじめて目にしたときの、「このイタさはどこかで見た覚えがある」という既視感のことだ。

昨年末に、「内閣府大臣官房政府広報室」というところからFAXが送られてきた。タイトルは、「『守る力を』ネットワーク サポーター参画のお願いについて」というものだ。

ほとんどのひとが知らないだろうが、「守る力を」ネットワークというのは、「災害弱者とも言われる独居老人や、幼い子供たち、また、うつ病から自殺に至ってしまうような方など、社会的に弱い立場の人々を、公共の仕組みや相談窓口を使ってもらうことで解決に導いていこうとするためのもの」で、①減災(災害が起こったときに、いかに被害を減らせるか)、②児童虐待防止、③自殺対策、の3つのテーマについて、Facebookに特設ページをつくり、「発信力のある各界の方々」にサポーターとして参画してもらって、国民の側から議論を盛り上げていこうという試みだという。

このように説明してもよくわからないと思うので、実物を見ていただこう。

「守る力を」ネットワーク

昨年8月にスタートし、著名人がサポーターとして登録しているが、半年以上経っても「議論」らしきものはほとんどなく、月に数件のコメントがつく程度だ。

Facebookを活用したこの政府広報のどこがイタいのか、あらためて「サポーター参画のお願い」を読み直してみた。

  • FAXの文面が、明らかに名前の部分を変えるだけで誰にでも送れるようになっていること。私は減災や児童虐待についてはなんの知識もなく、唯一、意見があるのは自殺対策だが、内閣府の政府広報室はこのような議論をしたいわけではないだろう。ようするに、誰彼かまわずFAXを送りつけているのだ。
  • 依頼の文面に報酬についての言及が一切ないこと。ボランティアでやってくれ、ということなのだろうが、そうであれば、その旨を明記するのが社会人にものを頼むときの最低限のルールだ。ここから伺えるのは、「政府の活動に参加できるのだから、ただ働きでもいいだろう」というお上感覚だ。このひとたちは、「橘玲(「守る力を」ネットワーク・サポーター)」という肩書きに価値があると信じてるのだ。
  • そしていちばんイタいのは、SNSのことをまったく理解していないことだ。Facebookのページを見ればわかるように、ここに登場する著名人は月に1回意見をいうだけであとはなにもしない。それにコメントをつけたとしても「議論」とはいわないだろう。こんな退屈な仕組みでは、誰も参加しない(というか、その前に誰も気づかない)のも当然だ。

端的にいって、この「お願い」はかなり不愉快だ。これが(おそらく)私だけの感想ではないことは、いくらFAXを送りつけても「サポーター」がほとんど増えていないことから明らかだろう。

なぜこの政府広報はこんなにイタいのか。その理由は、「守る力を」ネットワーク事務局が大手広告代理店の「パブリックリレーションズ」なる部署に置かれていることからわかる。すなわちこれは、代理店企画なのだ。

私は内情を知っているわけではないが、「GKB47」もおそらくは代理店企画で、だからイタさ(というか、チャラい感じ)が共通しているのだ。

お役人にとってもっとも重要なのは予算は使い切ることだが、かといって最近では、無意味なことにお金を使うと「仕分け」で政治家から吊るし上げられてしまう。そこで代理店にコンペをやらせて、政治家にもわかりやすく、マスコミにも取り上げられそうな企画を選ぼうとした。

そう考えれば、政府広報にFacebookを使ったり、AKB48を起用しようとする発想がとてもよくわかる。広報の効果で自殺者が減るかどうかなど、どのみち検証のしようがない。だったら、そこそこ話題になって、予算の使い方を突っ込まれたときにうまく説明できることがすべてなのだ。

広告代理店の「パブリックリレーションズ」部には、コンペに勝ったことで相応の広報予算が支払われているだろう。自殺対策や児童虐待防止などの美名を利用して、他人をただ働きさせて自分たちが儲けようとするのは、控えめにいっても品性として下劣だ(と私は思う)。「GKB47」に同じいやらしさを感じた関係者が怒ったのも無理はない。

もちろん、こんなことを書いてもカエルの面に小便だということはわかっている。

今回のトラブルで広告代理店も学習して、次はもうちょっとチャラくない企画(演歌歌手や重厚な俳優を使うとか)でコンペに臨むだろう。こうして自殺対策にはなんの役にも立たず、税金だけが無駄に使われていくのだ。

君子はかんたんには豹変できない 週刊プレイボーイ連載(37)

野田首相は施政方針演説で消費税増税の覚悟を述べ、「決められない政治」から脱却するため与野党協議に応じるよう求めました。それに対して自民党などは一斉に反発し、過去の演説を引用された福田元首相は、「いいことも言っているが、僕はひどい目にあった」と述べました。

衆参のねじれ国会に苦しんだ自民党・福田政権は、政権獲得を最優先する野党・民主党からあらゆる話し合いを拒否されました。同じ立場になった野田首相が自民党に譲歩を求めても、かんたんには応じられないというのももっともです。

民主党政権が苦境に陥っているのは、ことあるごとに過去の言動との一貫性を問題にされるからです。

2009年の衆議院選挙で、民主党は「国民との契約」であるマニュフェストを高らかに掲げ政権を奪取しました。しかし政策の目玉だった子ども手当てや高速道路の無料化はなし崩しになり、予算の組み換えと天下りの根絶で捻出するとした16.8兆円の財源はどこかに消えてしまって、いまや消費税増税に突き進んでいます。

沖縄の普天間基地問題では、鳩山元首相の「最低でも県外」の発言がいまだに尾を引いています。沖縄ではこれが“約束”ととらえられ、アメリカとの“約束”の板ばさみになった民主党政権は弁明に追われています。

私たちの社会では、主張の一貫性がきわめて重視されます。議論におけるもっとも強力な武器は、「前に言っていたこととちがうじゃないですか」のひと言です。このとき、「私はいまの話をしているのだから、むかしのことは関係ない」とか、「意見なんてそのときどきで変わるものだ」という反論は逆効果です。主張を変更する場合は、その理由を論理的に説明できないと、社会的な信用が失墜してしまうのです。

これが人類社会に普遍的なルールなのは、ひとが社会的な動物だからです。

私たちは、相手となにか約束をすると、それが実行されることを前提に行動します。この約束が一方的に破棄されてしまうとヒドい目にあうので、約束を破るひとを道徳的に罰すると同時に、言動が一貫しているひとを「信用できる」と高く評価するようになったのです。

こうした一貫性への執着は、マーケティングにも使われています。アンケートに「夢は南の島でのんびりすること」とこたえると、ハワイのリゾートマンションの勧誘が断わりにくくなる、というような場合です。私たちは無意識のうちに、以前の発言との一貫性を保とうとしてしまうのです。

約束を破った場合は、相手に謝罪して損害を補償するのが原則です。これを逆にいえば、謝罪も補償もできないときは、約束を破ったことを認められない、ということになります。野田政権の置かれた立場がまさにこれで、「国民との契約」を破ったことを認めたり、野党時代に自民党との話し合いを拒否したことを謝罪してしまうと、あとは衆議院を解散するか、自民党に政権を明け渡すしかなくなってしまいます。

過去はつねに亡霊のようにまとわりついてきて、君子はかんたんには豹変できないのです。

参考文献:ロバート・B・チャルディーニ『影響力の武器』

 『週刊プレイボーイ』2012年2月6日発売号
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