選択肢が多すぎると選択できなくなる不幸 週刊プレイボーイ連載(93)

 

その若者は、モデルのような容姿で、誰もがうらやむ一流企業に勤め、順風満帆の人生を送っているようにみえました。しかし彼には、ひとつ深刻な悩みがありました。あまりにもモテすぎるのです。

その会社では、新規事業として、若い女性をターゲットにしたコスメの開発にちからを入れていました。部員も社外スタッフもほぼ全員が20代の女性で、短期間で業界でも注目されるほどの成功を収めてきました。

その会社は、女性だけの部署はお互いが足を引っ張り合ってうまく機能しないというマネジメント理論を信奉しており、唯一の男性は40代前半の課長でした。女性差別のような気がしないでもありませんが、この人事は、「女同士でトップの座を争わなくてもいいから気が楽だ」との理由で、女性部員からも暗黙の支持を得ていました。その当否はともかくとして、現実にビジネスがうまく回っている以上、それを変える理由は会社にはありません。

ところがこの課長(妻子持ち)が、精神の不調を訴えるようになりました。女性に囲まれて仕事をするのは、一見楽しそうですが、実際にやってみるとなかなか大変らしいのです。

そこで会社は、課長を補佐する役割として、新人の男性社員を配属することにしました。どうやら人事部は、採用のときから、このモデルのような若者を「女の園」要員にすることを決めていたようなのです。

見かけとちがって、中高を男子校で過ごした彼は体育会系で、女遊びとは無縁のタイプでした。これまでも女性にはモテたのでしょうが、ファッション業界の美女たちのなかに投げ込まれればモテ方のレベルがちがいます。ファッションの世界は男性と出会う機会が少なく、並みの男では彼女たちに吊り合わないので、女性の需要に対して男性の供給が圧倒的に少ないのです。

純真な彼は、ロマンチックラブを信じていました。世界のどこかに、自分が求めている“ほんとうの女性”がいるはずだと思っていたのです。

しかし現実には、彼は頻繁にカノジョを取り替えることになりました。ある女性と付き合いはじめても、たちまち別の女性が彼の前に現われます。そうすると、どちらが自分にとっての“真実”なのかわからなくなってしまうのです。

マーケティングの実験では、選択肢が多すぎると消費者は選択できなくなることが知られています。スーパーの試食品コーナーでジャムを販売する場合、選択肢が6種類よりも24種類あった方が顧客の満足度は高くなります。しかし実際に自分の好みのジャムを見つけて購入するのは、6種類の方が圧倒的に多いのです。24種類のジャムを前にした消費者は、あれこれと試食してみますが、けっきょくどれにするか決められず売り場を立ち去ってしまうのです。

「別に高望みしているわけではないんです」若者は真面目な顔でいいます。「“このひとを求めていたんだ”って納得したいだけなんです」

「そのうちいいひとが見つかるよ」と、私は当たり障りのない返事をしました。しかし彼がいまの部署にいるかぎり、理想の女性は永遠に現われないでしょう。

世の中には、いろんな悩みがあるものです。

参考文献:シーナ・アイエンガー『選択の科学』

『週刊プレイボーイ』2013年4月1日発売号
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第28回 バラ色か国家破産か(橘玲の世界は損得勘定)

 

アベノミクスで株価が上昇して、市場には久しぶりに明るい雰囲気が戻ってきた。株価上昇の理由は、「日銀が“際限のない金融緩和”を行なう決意を示したことが市場に好感されたから」だという。

だが、“決意”だけで景気がよくなるなら誰も苦労はしない。なぜ日銀は、これまでこんな簡単なことをしなかったのだろう。

リフレ派の経済学者は、「日銀が経済学の常識を知らず、国民を犠牲にして自分たちの保身だけを考えているからだ」と批判する。今回はそのリフレ派が金融政策を担うことになったのだから、私たちは早晩、この壮大な社会実験の結末を知ることになるだろう。

誤解のないようにいっておくと、私はリフレ政策が間違っているといいたいわけではない。市場は複雑系なので、「マーケットの期待を操作すればなんでもできる」というほど単純な話ではないと考えているだけだ。

ある米国の雑誌が、各分野の専門家が(「金融緩和で日本経済は復活する」というような)単純な未来予測をどの程度的中させたかを追跡調査したところ、50%でコイン投げと同じだった。それに対して「チッピー」は58%の正確さで未来を予言した。チッピーというのは4歳のチンパンジーで、テーブルに置かれたカードを選んでいただけだった……。

この“実験”が正しいとすると、未来を知るには専門家よりもチンパンジーに聞いた方がいい。だが、動物園に知合いのいるひとばかりではないだろう。

そんなときは、ひとつのシナリオ(安倍バブル到来!)に全財産を賭けるのではなく、あらゆる状況に対応できるようリスク分散しておく必要がある。

アベノミクスへのもっとも不吉な予言は、いうまでもなく財政破綻と(ハイパー)インフレだ。景気が回復しないまま金利だけが上がると、国家債務の膨張が止まらなくなる。日本国の抱える1000兆円という天文学的な借金を考えれば、これは荒唐無稽な妄想とはいえない。

アベノミクスはうまくいくかもしれないし、うまくいかないかもしれない。みんなバラ色の未来を願っているが、もし失敗すればとんでもなくヒドいことが待っている。誰も未来を知ることができないとすれば、私たちは1人の生活者として、相場の上昇に乗りつつも常に最悪の事態に備えておかなければならない。

ここで重要なのは、国家破産のような極端な出来事を想定しても、戦争や内乱、地震や原発事故とちがって、「経済的なリスクは金融市場でヘッジ(保険)をかけることができる」ということだ。それも、思ったよりもずっと簡単に。

そんな話を、近刊の『日本の国家破産に備える資産防衛マニュアル』で書きました。保守的な投資家は、アベノミクスがどちらに転ぼうとも、当分はお金を普通預金に預けておけいい、という話です。投資中級者には、オプションなどデリバティブを使って「国家破産」から身を守る方法も紹介しています。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.28:『日経ヴェリタス』2013年3月24日号掲載
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