「パブリック」というユートピア思想

Googleが3月に導入した新たなプライバシーポリシーが波紋を呼んでいる。検索サービスのほか、メール、地図、ナビゲーション、写真管理、動画配信(ユーチューブ)、スケジュール管理、自動翻訳、書籍検索、ブログ閲覧など、60以上のサービスで顧客情報を統一して管理し、「利便性を高める」ものだ(玉井克哉〈日経新聞4/11朝刊『経済教室』〉)。

これが「プライバシー侵害」として強く批判されるのは、Googleがネットユーザーのプライバシーを収集し、ビジネス化しようとしている(ユーザーの行動履歴から効率的な広告配信をしようとしている)、と考えられているからだろう。プライバシー権に敏感なEUでは、「忘れられる権利」すなわち自己にかかわるいっさいのデータの消去を顧客が求める権利を立法化しようとしているという(玉井、上記)。

もちろんGoogleが私企業である以上、収益の最大化を目指していることは間違いない。だが今回のプライバシーポリシーの背景には、「パブリック」と「プライベート」の思想的対立、とでもいうようなものがあると思うので、そのことについて私見を述べておきたい。

ジェフ・ジャービスの『パブリック』を読むと、GoogleやFacebookには、「パブリックにすることは善である」という理念があることがわかる。端的にいうと、「プライベート(匿名)をパブリック(実名)に変えていくことでよりよい社会が生まれる」という信念のことだ。

『残酷な世界~』ではこのことを、「伽藍とバザール」で説明した(エリック・スティーブン・レイモンドのに山形浩生氏がつけたタイトルを借用した)。

閉鎖的な伽藍空間では、悪い評判から身を守るために匿名の世界に身を隠す「ネガティブゲーム」がもっとも有利になる。それに対して開放的なバザール空間では、できるだけ多くのよい評判を集めようとする実名での「ポジティブゲーム」が最適行動だ。

これは、退出の自由なバザール空間では、悪い評判はいつでもリセットできるのに対し、退出の許されない伽藍空間では、いちどつけられたレッテルは二度とはがすことができないからだ(伽藍の世界)。

伽藍の世界では、ひとびとは強い閉塞感に耐えて生きていくしかない。自由なバザール空間なら、私たちはずっと容易に自己実現できるだろう……。このように考えれば、サイバー空間のテクノロジーを駆使し、ユーザーをパブリックなバザール空間に誘い出すアーキテクチャを構築することで、よりよい世界をつくることができるはずだ、ということになる。

ジャービスの本によると、アメリカでは“パブリック原理主義者”によるさまざまな実験が行なわれている。

たとえば、ジョシュ・ハリスのドキュメンタリーフィルム『We live in Public(われわれはパブリックを生きている)』。ここでは、私生活がすべてパブリックにされた。

ジョシュは、室内の隅々まで写せるようアパートに32個のカメラを設置して、彼とガールフレンドのすべての行動を100人のボランティアに公開した。シャワー、トイレ、セックス、喧嘩といったまさにプライベートなことすべてが、Webを通じて世界に放送されたのだ。

2人は、ロフトのなかにあるプロジェクターをとおして、ネットユーザーたちが自分たちについて交わす会話を知ることができた。さらには1日に2度、電話を受けて視聴者と会話を交わすことまでした。

この“実験”は1999年に開始され、2000年1月1日に、ニューヨーク市警によって強制的に終了させられた。しかし権力の介入がなくても、このプロジェクトは失敗に終わっていた。

ある日、ジョシュはガールフレンドと大喧嘩をした挙句、彼女を殴ろうとした(ように見えた)ことで、寝室を追い出されてソファに寝ることになる。この“事件”を目撃したネットユーザーたちがジョシュを批判し、ガールフレンドにさまざまな助言をしたことで、二人の関係は破局に至った。

後に、ジョシュは次のように語っている。

「彼ら(ネットユーザー)は彼女に力を与えたけれど、それにはトレードオフがあった。彼女の人間性のひとかけらを取り去ってしまった。彼女の脳の一部が、天上からの存在によって拡張された

ジョシュによれば、彼女は「人生をクラウドソーシングしてしまった」のだ。

もちろんこれだけでは、ただの露出狂か、自己顕示欲の強すぎる男の荒唐無稽な話にすぎない。だがここで考えるべきは、なぜこのような原理主義者(狂信者)が生まれてくるのか、ということだ。

それは、「パブリック」がユートピア思想だからだ。彼らは、プライバシー権を認めず、ネット上の匿名性を剥奪し、すべてのひとがパブリックになるよう「強制」することで、理想世界が実現すると信じているのだ。

このように考えると、Googleの新しいプライバシーポリシーの別の意味が見えてくる。顧客情報を統合して「利便性を高める」のは、ユーザーをバザール世界に誘い出すためだ。あらゆる場面で個人情報が参照されるようになれば、実名でよい評判を獲得することが、匿名で活動するよりも圧倒的に有利になるだろう。これは逆にいえば、実名の履歴(レビューやコメント)が検索できない人間は存在しないのと同じ、という世界だ(Facebookが実名主義を貫くのも同じ理由だ)。

こうしたユートピア思想を持つのは、GoogleやFacebookだけではない。そもそも西海岸(シリコンヴァレー)のサイバーリバタリアニズムは、60年代のカウンターカルチャーの正統な後継者だ。このあたりの思想史的な系譜は池田純一『ウェブ×ソーシャル×アメリカ』に上手にまとめられているので、興味のある方はご一読を。

「引き寄せの法則」は効果がある? 週刊プレイボーイ連載(46)

すこし前に「引き寄せの法則」というのが話題になりました。よいことも悪いことも、ひとは自分に似たものを引き寄せるという“宇宙の法則”で、いまではスピリチュアル系のセミナーで定番のアイテムです。

一見オカルトっぽい引き寄せの法則ですが、これは科学的にも証明されていて、「ホモフィリー(似ているものへの愛)」という名前まであります。

ひとがどのように引き寄せられるかは、幼稚園や保育園を観察しているとよくわかります。

少人数のグループでは、子どもたちはみんないっしょに遊びます。このとき、幼い子どもは年上の子どもにまとわりつき、年上の子どもはその面倒をみます。狩猟採集時代には、両親は食糧の確保にせいいっぱいで、こうした行動は、離乳後の子どもの世話を兄姉に任せていたときの名残だと考えられています。

子どもの数が一定数を超えると、ごく自然にグループ分けがはじまります。

最初の基準は年齢です。子どもは、自分と同じくらいの子どもと遊ぼうとします。

次は性別です。男の子と女の子では遊び方がちがうので、男女が入り混じってなにかをするということはなくなります。

さらに人数が増えると、同じ性別のなかで、外見や雰囲気の似た子どもたちがグループをつくるようになります。アメリカではこの段階で、白人や黒人、アジア系など人種別のグループ分けが起こることが知られていて、大人が介入して人種混交の子ども集団をつくらなければなりません。

日本では、たとえば女の子集団でこうした傾向が顕著です。街で女の子たちを観察していると、ファッションによってグループ分けが行なわれていることがわかります。お嬢様系とギャル系、ゴスロリの女の子がいっしょになることはありません。

ひとはなぜ、自分と似たものに引き寄せられ、自分と似たものを引き寄せるのでしょうか。これも、進化の過程から説明が可能です。

石器時代には、ヒトは家族や血族の小さな集団で暮らしていました。ここからごく自然に、同じ集団は味方、ちがう集団は敵、という性向が生まれます。進化論的にいうならば、自分とちがうもの恐れない個体は淘汰されて子孫を残すことができなかったのです。

母親以外が赤ん坊を抱き上げると、いきなり泣き出すことがあります。幼い子どもは、見知らぬ大人(ひとさらい)を怖がります。これもまた、私たちの遺伝子にプレインストールされた進化のプログラムだと考えられています。

私たちは、自分と似たひとたちといっしょにいると安心し、ちがうひとたちに囲まれていると不安になります。人種差別は法や社会制度によって矯正することができるかもしれませんが、同じファッションの女の子が集まることまでは規制できません。引き寄せの法則は、私たちの社会を広く覆っているのです。

自己啓発系のセミナーでは、この法則を利用して、「あなたが変われば、望みのものすべてを引き寄せることができる」と説きます。これは理屈のうえでは正しいのですが、じつはひとつだけ問題があります。

「引き寄せ」は無意識の法則で、ひとは意識によって無意識を操作することはできません。すなわち、ひとは変われないのです。

参考文献:ジュディス・リッチ ハリス子育ての大誤解―子どもの性格を決定するものは何か』

 『週刊プレイボーイ』2012年4月9日発売号
禁・無断転載

日本人は世界でいちばん仕事が嫌い

日本人の価値観を世界の国々と比較する「世界価値観調査」のことは以前も書いたが、鈴木賢志『日本人の価値観』には、各種の価値観調査のなかから興味深いものがコンパクトにまとめられている。

ここではそのなかから2つ紹介しよう。

最初の表は、「たとえ余暇が減っても、常に仕事を第一に考えるべきだ」という意見に「強く賛成」とこたえたひとの割合だ。いわば、「世界仕事人間ランキング」である。

一目瞭然のように、日本人は堂々の第一位だ。しかも、下から。

日本人は、「余暇が減るんなら仕事なんかしたくない」と考えているひとの割合がきわめて高い。すなわち、「世界でいちばん仕事が嫌いな国民」なのだ。

ランキングを見ればわかるように、上位はほとんど発展途上国で占められている。彼らは、「働かなきゃ生きていけない(遊ぶことなんて考えてられない)」ひとたちであり、同時に、「働けば働くほどゆたかになれる」ひとたちでもあるのだろう。

先進国はおしなべてランクが低いが、そのなかでは“勤勉の国”ドイツが38位に入っている。「仕事よりも余暇が大事」とこたえるのは、アメリカ、オーストラリア、スウェーデン、イギリス、オランダなど、アングロサクソンや北ヨーロッパの国々だ。

しかしそのなかでも、日本人の仕事嫌いは突出して高い。

たとえば、「生きることは楽しむことだ」を身上としているイタリア人も、15.8%が仕事第一とこたえている。あのギリシア(失礼)ですら、余暇よりも仕事を優先するひとが14.5%いる。それに対して日本人は、たったの2.6%しか「仕事が大事」と思っていない。

この結果に納得できないひとも多いと思うが、「日本人はじつは会社が大嫌い」というのは、以前紹介したデータとも整合的だ。「年功序列と終身雇用の日本的雇用制度が日本人を幸福にした」というのは、大いなる虚構だったようだ。

次の表は、「仕事は収入を得るための手段であって、それ以外のなにものでもない」という意見に「そう思う」「どちらかといえばそう思う」とこたえたひとの割合だ。こちらは、「仕事は金がすべてだ世界ランキング」である。

こちらも上位には発展途上国が並んでいるが、先進国のなかでは、韓国・台湾とならんで日本は上位グループに入っている。

「日本的雇用は素晴らしい」と信じ込んでいるひとたちにとって衝撃なのは、アメリカ、ニュージーランド、カナダといったアングロサクソンの国々、デンマーク、ベルギー、スウェーデン、スイス、ノルウェーといった北ヨーロッパの国々の労働者が、「働くってことは金がすべてじゃないよ」と考えていることだろう。

これらの国々は、能力主義(成果主義)で解雇も容易な、「労働者を不幸にするネオリベの国」とされている(北欧は生活保障は手厚いが、企業は能力主義で整理解雇も認められている)。日本人はカネのために嫌々働いているのに、ネオリベの国の労働者は、お金には換えられないやりがいを仕事に見出しているのだ。

この価値観調査の結果を素直に解釈すれば、ネオリベはひとびとを幸福にし、日本的雇用は労働者を不幸にする。

連合がほんとうに労働者の幸福を考えているのなら、成果主義の導入と解雇規制緩和(あとは定年制の廃止と同一労働同一賃金)こそが目指す道になるだろう。まあ、無理だろうけど。

*著者(鈴木賢志氏)のサイトで、これ以外にもさまざまなデータが見られます。興味のある方はどうぞ。