「ゴーストライターのことはみんな知ってる」って本当? 週刊プレイボーイ連載(144)

“日本のベートーベン”の曲を別人が作曲していた問題で、ゴーストライターの存在が議論を呼びました。出版界では代作者を使って本を出すことが慣行になっていますが、「作曲家のゴーストライターがあれだけ批判されるのなら、出版物も同じではないのか」というのです。

もちろん、芥川賞や直木賞の受賞作を他人が書いていたら社会的な事件です。ゴーストライターを使うのは芸能人やスポーツ選手のような文筆を生業にしているわけではないひとや、多忙な企業経営者など執筆時間のないひとですから、今回の事件と同列に語ることはできません。その意味でゴーストライターが社会的に容認されてきたのは確かでしょうが、「そんなこと(芸能人やスポーツ選手がゴーストライターを使っていること)は誰でも知っている」という擁護論には違和感があります。

こうした主張は、「プロレスが真剣勝負でないことは誰でも知っている」というのに似ています。力道山の時代はもちろん、ジャイアント馬場やアントニオ猪木の全盛期も、プロレスラーは真剣勝負をしているとみんな信じていました。しかし徐々にプロレスが「筋書きのある格闘技」だということが広まり、1990年代になるとプロレスを芸能の一種として、レスラーが“筋書き”をいかに上手く演じたかが批評されるようになりました。

しかしこうした“おたく的”プロレス論の隆盛とは裏腹にプロレスは衰退し、K1のようなシュート(真剣勝負)が主流になっていきます。誰もがやらせだと知っていたわけではなく、プロレス人気は「真剣勝負であってほしい」と願うファンに支えられていたのです。だとしたら、「本人が書いたと思っている読者なんて一人もいない」といって済ませていいのでしょうか。

問題はそれだけではありません。

芸能人やスポーツ選手の本のほとんどがゴーストライターの手によるものだとしても、なかには自分で文章をつづるひともいるでしょう。しかしいまのままでは、そうした努力も有象無象の“ゴーストライター本”と一緒にされてしまいます。擁護論には、「芸能人やスポーツ選手に本なんか書けるわけがない」という傲慢さが見え隠れしています。

この問題の解決するのはかんたんで、すでに一部の本で行なわれているように、“ゴースト”をやめてちゃんとライターの名前をクレジットすればいいだけです。出版社が代作者を用意してまで本を出したいひとは、本人の実績や経験、生き方に読者が魅力を感じているのですから、本来であれば自分で書いたかどうかは商品価値に影響しないはずです。それでも“ゴースト”のままにしておくのは、「執筆」という幻想を残しておいたほうが商売に有利だと関係者が思っているからでしょう。こうした下心があるのなら“偽装”と批判されても文句はいえません。

ゴーストライターを表に出せば彼らの仕事が認知され、優秀なライターに仕事が集まって正当な報酬が支払われるようになるでしょう。それ以上に大事なのは、“自分で書いた”ことがちゃんと評価されることです。私にはこれでなんの不都合もないと思えますが、なぜこの悪弊を改めることができないのでしょうか。

『週刊プレイボーイ』2014年4月21発売号
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