ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。
2012年6月にシチリア島とマルタ島を旅したときの記録で、同年10月公開の記事です。(一部改変)

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最初は、誰かが歌をうたっているのかと思った。朝の9時頃、パレルモのカフェでコーヒーを飲んでいた時のことだ。
パレルモはシチリア王国の古都で、旧市街の中心はクアットロ・カンティ(四つ辻)と呼ばれている。17世紀に造営された小さな広場だが、四つ辻(十字路)に面した角を丸く削った優雅な建物に囲まれ、ヴィム・ベンダースの映画『パレルモ・シューティング』の舞台ともなった。その周辺には大聖堂(カテドラーレ)や教会などの観光名所が集まっているから、ガイドブックでも真っ先に紹介されている。
カフェは、そのクアットロ・カンティから50メートルも離れていない大通りに面していた。通りの向かい側にバス停があり、そこで60歳前後の上品な身なりの女性がなにごとか叫んでいたのだ。
やがてカフェの店員が通りに出ると、肩を抱きかかえるようにして女性を店に連れてきた。彼女は大粒の涙をこぼしながら、首のあたりに手をあててカフェの店員や客にしきりになにかを訴えている。店員が水を飲ませ、慰めるとすこし落ち着くが、またすぐに泣きはじめる。
そのとき、バス停に立っていた女性の前に若い男の乗ったスクーターが止まったことを思い出した。そのときはまったく気がつかなかったが、スクーターの男は、出勤のためにバスを待つ彼女が首飾りをしているのを見て、それをひったくったのだ。
理不尽な被害にあった女性は、恐怖と怒りで身体を震わせ、泣きながらしばらく神の名を唱えていたけれど、みんなに慰められて落ち着きを取り戻すと、着替えをするために自宅に戻っていった。警察が呼ばれることもなく、女性が店を出ると、カフェの店員や客はなにごともなかったように談笑を始めた。
廃れていく旧市街とゲイパレードの新市街
最初に断わっておくが、私はたまたま見かけたひったくりを理由に、パレルモが危険な街だというつもりはない。日本を含め世界のあちこちで同じような軽犯罪が起きており、私はたまたまパレルモでその一つに遭遇しただけだ。
私はイタリア語を解さないが、それでもカフェの店員や客が、「怪我がないだけよかったじゃないか」と女性を慰めているのはわかった。こうした軽犯罪が日常茶飯事で、警察に訴えても捜査すらしてくれないとしても、世界にはそんな国はいくらでもある。
しかしそれでも、パレルモでの体験を書いたのには理由がある。首飾りをひったくられた女性の不幸は、この街の構造を抜きにしては説明できないからだ。
私のいたカフェは、クアットロ・カンティへと向かう通りの東側にあった。女性は、通りを渡った西側のバス停に立っていた。このことがなぜ重要かというと、通りの西側はほとんどの店が閉店していて、シャッター通りになっているのだ。
通りの東側の店しか営業していないというこの不思議な現象は、太陽の方向と関係がある。観光客が集まるのは午前中だが、夏の日差しは強烈なので、誰もが直射日光を避けて日陰のある東側を歩こうとする。そのため西側の商店が次々と商売をあきらめて、シャッターを下ろしてしまったのだ。
バス停の近くには、5~6頭の犬といっしょに野宿をするホームレスの男が寝ていただけだった。スクーターの男は、女性を襲っても誰も助けに来ないことを知っていたのだ。
旧市街が廃れていくのは、都市計画の問題でもある。歴史的建造物は改築をきびしく規制されていて、外から眺めるのはいいが暮らすのは不便だ。ひとびとはより快適な新市街や郊外のマンションに移住していき、せっかくの観光資源が荒廃してしまう。
パレルモの新市街は街の中心から北に延びるリベルタ大通りに面した一帯で、公園を中心に住宅街が広がり、瀟洒なカフェやレストラン、スーパーマーケットなどが点在している。
午後7時過ぎに、新市街のホテルの近くで食事をしていると、どこからか場違いなテクノっぽい音楽が聞こえてきた。通りに出てみると、大型トラックの荷台の上で派手な衣装のドラァグクイーンが踊り、そのまわりを旗やプラカードをかざしたひとびとが満面の笑みで囲んでいる。そんなトラックが、大音響でダンス音楽を鳴らしながら何十台も列をなしているのだ。
この週末は、世界各地でゲイとレズビアンの「プライドパレード」が行なわれていた。1969年6月28日にニューヨークのバーで同性愛を取り締まる警察官に対する暴動が起き、それを記念した行事が始まった。ニューヨークやサンフランシスコではものすごい人出になるのだが、そのパレードがパレルモでも行なわれていたのだ。敬虔なカトリック教徒が大半のイタリア南部でも、いまではゲイが堂々と自分たちの権利を主張できるようになったのだ。
火の消えたような旧市街のシャッター通りと、新市街の賑やかなゲイパレードは、パレルモの過去と現在を象徴しているように思えた。
日曜日のカターニアはゴーストタウン
『ニュー・シネマ・パラダイス』で知られるジョゼッペ・トルナトーレはシチリア出身の映画監督で、『シチリア、シチリア』は、貧しい牛飼いから共産党員となった父親を中心にトルナトーレ家の3代の歴史を描いている。
その映画のなかに、ローマに出稼ぎにいった父のペッピーノがシチリアに帰ってくるシーンがある。
ペッピーノが故郷の駅に降り立つと、駅前には仕事のない男たちが所在なげにたむろしている。旅行カバンを手にしたペッピーノを見ると、男たちは次々と声をかける。「ここから出ていけるのか。運がいいな」
火山島のシチリアはワイン用のブドウ栽培と漁業くらいしか産業がなく、イタリアでも貧しい地方として知られていた。困窮したシチリア人がアメリカに渡り、生き延びるために強大なマフィア組織をつくっていったことは、映画『ゴッドファーザー』などで有名だ。
ペッピーノの帰郷シーンが撮影されたパレルモ中央駅は、いまも往時の姿をとどめている。だが現在は列車の本数は少なく、島内の移動は駅に隣接したバスターミナルから長距離バスを使うのがふつうだ。
翌日はそのバスに乗って、パレルモに次ぐシチリア第二の都市カターニアに移動した。11世紀につくられた壮麗な大聖堂で有名な美しい街だが、その日は日曜で、街の中心にあるドゥオーモ広場周辺のカフェを除いてほとんどの店がシャッターを下ろしていた。日中は出歩くひとも少なく、落書きだらけのシャッターがえんえんとつづく様は、ほとんどゴーストタウンの趣だ。
カターニアの街をひと回りしても、ひとの気配のする場所はほとんどなく、唯一、ドゥオーモ広場の裏手にある公園に老人たちが集まってトランプに興じているだけだった。
カターニアを訪れたのは、マルタ行きの飛行機に乗るためだった。エア・マルタに電話すると、パレルモから出ているのはチャーター便だけで、定期便はカターニアからしか飛んでいないと言われたのだ。
カターニアの街で時間の止まったような午後を過ごし、タクシーを拾って夕方、空港に着いた。ところがマルタ便は、時間どおりに搭乗したもののいつまでたっても出発しない。そのうちアナウンスがあって、乗客全員が下ろされた。飛行機の整備で不具合が見つかって、機材を交換するのだという。
いったん搭乗してしまったのでターミナルに戻ることもできず、滑走路脇の待合室のようなところに案内された。その夜はちょうど、ユーロ2012準々決勝でイタリア対イングランドの大一番が行なわれており、乗客のなかにテレビ視聴ができるノートパソコンを持った男の子がいて、そのまわりにみんなが集まって試合観戦となった。
といっても、人垣の合間から覗くだけでなにがどうなっているのかほとんどわからないうちに、0対0で延長戦が終わりPK戦が始まった。双方、1本ずつ外した後に守護神ブフォンが止め、イタリアが勝利を収めると一瞬盛り上がったが、その後はほかにすることもなく、ひたすら機材の到着を待ちつづけた。
けっきょく、マルタに着いたのは午前1時を回っていた。
旅装を解いた後、ビールでも飲もうとホテルを出てネオンサインを目当てに近所を歩くと、いきなりの喧騒に度肝を抜かれた。細い坂道にスポーツバーやクラブが並び、そこで若者たちが浴びるほど酒を飲み踊り明かしていたのだ。
マルタ騎士団の島
マルタはシチリアの南100キロほどのところにある小さな島で、十字軍の時代に結成された聖ヨハネ騎士団(マルタ騎士団)の本拠地として知られている。もとは南イタリア文化圏の一部だが、オスマン帝国によってロードス島を追われた騎士団が16世紀に移り住んで大きく発展した。当時の騎士団はヨーロッパの裕福な貴族の次男以下の子どもたちによって構成されており、相続などによって多額の富が小さな島にもたらされたからだ。
往時の華やかさは、古都ヴァレッタにあるマルタ騎士団長の豪華な宮殿や、騎士団の守護神を祭った大聖堂などに刻まれていて、歴史好きの欧米人には人気に観光地になっている。
騎士団の支配を終わらせたのは、エジプト遠征の途上のナポレオンで、1798年に無抵抗のまま騎士団を降伏させるとフランスの属領に編入した。その2年後、島民の要請を受けてイギリスのネルソン総督がフランスの駐屯部隊を一掃すると、以降160年以上イギリスの統治が続いたが、第二次世界大戦後に英領マルタ共和国として独立した。
こうした数奇な歴史のため、マルタでは北アフリカのマグリブ語に近いマルタ語とともに英語が公用語として使われ、タックスヘイヴンとして金融機関を積極的に誘致した。観光客でごった返すヴァレッタのリパブリック通りには、地元の銀行に混じってHSBCなどのグローバルバンクの看板も目につく。
だがマルタが成功した理由は、治安の良さと英語が公用語であることを利用して、多数の語学学校を設立してヨーロッパじゅうから若者たちを集めたことだ。
大学生たちは、語学研修を名目にひと夏をマルタで過ごし、さまざまな国の若者たちと出会ってアバンチュールを楽しむ。そんな噂がさらに若い層をひきつけて、中高生のサマースクールも大人気だ。街を歩いていると教師に引率された高校生の集団をよく見かけるが、彼ら/彼女たちはバカンスの熱気に煽られて、自分も大学生になったらこの島で夏を過ごそうと誓うのだ。
マルタの英語学校には、日本からの留学生も多いらしい。観光・金融・教育という3つの柱で“島おこし”に成功したマルタは、いまでは地中海でもっともゆたかな国のひとつなのだ。
翌日は、会うひとごとに「昨日の夜はスゴかったね」と声をかけられた。イギリス系とイタリア系の住民が二つに分かれて、マルタをあげて試合に熱狂したのだという。私が見たのはその“余熱”で、それでもあんな大騒ぎだったのだから、PK戦のときはどんな光景だったのか想像もつかない。
どうやら旅の最後に最大のイベントが待っていたのだが、飛行機の遅れでそれを見逃してしまったようだ。
シチリアの寂れた街から飛行機でわずか1時間で、沸き返るようなマルタの熱気を目の当たりにして、なんともいえない複雑な気分になった。

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