素晴らしきベーカムの未来

『週刊新潮』からの依頼で寄稿した「ベーシックインカムは『橋下市長』の亡国政策」を、編集部の許可を得てアップします。

雑誌タイトルは『週刊新潮』編集部がつけたものなので、エントリーのタイトルは別のものにしています。

週刊誌の記事なので、個々のソース(参考文献等)は記載してありません。後日、追記のかたちでアップしたいと思います。

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年齢や性別、出自や能力のちがいにかかわらず、日本人というだけで誰もが最低限の生活を保障される。そんな世の中になったらどんなに素晴らしいだろう。

橋下徹大阪市長率いる大阪維新の会は“生活最低保障制度の創設で貧困を根絶する”という理想を高く掲げる。この政策は、一般にはベーシックインカム(ベーカム)と呼ばれている。

ベーカムでは、日本国籍を有する日本の居住者(日本人)は無条件で定額の給付を受けられる。「最低保障」の定義には諸説あるが、仮にその金額を年100万円(月額約8万3000円)とするならば、受給額は夫婦で年200万円、夫婦に子ども2人の標準世帯で年400万円になる(ちなみに生活保護の支給基準は、東京都区部などで単身者が月額約13万7000円、子ども2人の母子家庭で24万2000円)。これですべての国民が憲法の定める「健康で文化的な生活」を実現できるというのが、ベーカムの理念だ。

ここまで読んで、“バカバカしい”と思ったひとも多いだろう。日本の人口は1億2800万人だから、彼らに一律年額100万円を支給すればそれだけで128兆円が必要だ。それに対して日本の国家予算(歳出総額)は96兆円で、租税収入は42兆円しかないのだから、そんなことができるわけがない……。

ベーカムは、日本人全員に生活保護を支給する荒唐無稽な政策だと思われている。だったらなぜ、維新の会が大真面目に取り上げるのだろうか。

最初に、ベーカムは法螺話の類ではなく、れっきとした経済政策だということを確認しておこう。

ベーカムの生みの親は新自由主義(ネオリベ)の元祖とされる経済学者ミルトン・フリードマンで、生活保護などの貧困対策が行き詰まった1960年代のアメリカで、より効率的な社会保障制度として「負の所得税」を提唱した。一定の課税所得以下の国民は税金を払うのではなく逆に受け取れるという制度で、ベーカムはこの「負の所得税」をより簡素化したものだ。

具体的に、その仕組みを説明してみよう。

仮に所得税率を一律50%、課税最低所得を200万円とすると、所得1000万円のひとは、課税最低所得を上回る800万円に対して50%課税され、400万円の所得税を支払う((1000万円‐200万円)×50%)。それに対して所得のないひとは、課税最低所得を下回る200万円に対して50%の負の所得税が適用され、100万円を受け取る((0円‐200万円)×50%)。

これとまったく同じことがベーカムでも可能だ。

例えば、所得税率を同じく50%、ベーカムを年100万円とすると、所得1000万円のひとは500万円を納税する一方で100万円のベーカムを受け取るから、結果的に400万円の納税と同じ負担にしかならない。それに対して所得のないひとは納税もないのだから、100万円を受け取るだけだ。

ただし、負の所得税ではいちいち給付額を計算しなければならないのに対し、ベーカムは所得にかかわらず全国民に一律100万円を配るだけでいい。しかも、支出額はたしかに多くなるがそのぶん税収も増えるのだから、どちらを選んでも実質的な負担は変わらない。だったらより面倒のすくないベーカムのほうがすぐれているとして、90年代から注目を集めるようになった。

ベーカム(負の所得税)のメリットは、次のようなものだとされる。

  1. 生活保護には厳しい給付基準があるが、ベーカムは全国民に一律に支給されるのだから、援助を必要としているひとが排除されることがない(平等)。
  2. ひとたび生活保護を受けると、働けば受給額が減る“貧困の罠”に陥ってしまうが、ベーカムでは働けば働くほど収入が増えるのだから、貧しいひとたちの労働意欲を阻害しない(市場の活用)。
  3. 年金制度や子ども手当て、生活保護などをベーカムに一元化してしまえば行政のムダを大幅に削減できる(小さな政府)。
  4. ベーカムという生活最低保障があれば、最低賃金や解雇規制のような非効率な生活保障制度を廃止できる(規制緩和)。

こうして見ると、ベーカムはきわめてよくできた経済政策に思える。生活保護のような旧来の貧困対策は、経済格差の拡大やワーキングプアの増加にまったく対応できない。これまでのやり方を“グレートリセット”してベーカムに変えれば、人類の悲願である貧困のない社会を実現できるかもしれないのだ。

しかしここで、こんな疑問を持つひともいるだろう。

ベーカム(負の所得税)が最初に唱えられた1960年代から半世紀もたったのに、なぜ世界のどこでも、福祉国家の手本とされるスウェーデンですら、この素晴らしい経済政策が実行されていないのだろうか――。

コンプガチャが許されるのは国家だけ 週刊プレイボーイ連載(56)

ソーシャルゲームのコンプリートガチャ(コンプガチャ)が、消費者庁から景品表示法違反に該当すると指摘され、ゲーム会社は大きな打撃を受けました。

“ガチャ”は一種の宝くじで、ゲーム内のアイテムを確率的にしか入手できない仕組みです。“コンプ”というのは、稀少なアイテムを含むすべてを揃えるとさらに価値が上がることをいいます。「誰も持っていない宝物を手に入れたい」「なにからなにまで全部集めたい」というのはヒトの根源的な欲望ですから、“ガチャ”と“コンプ”の組み合わせはものすごく強力です。それを子ども相手の商売に使うことには、やはり一定のルールが必要でしょう。

コンプガチャで問題になったのは射幸心です。請求額が100万円を超えるケースがあったように、ギャンブル中毒は依存症の一種で、いったんツボにはまると自らの意思で抑制するのは不可能なのです(製紙会社の御曹司の例で明らかでしょう)。

ところで、コンプガチャが社会問題化しはじめた今年3月、国会で宝くじ法が改正され、これまで宝くじ額面の最大100万倍だった最高賞金の上限が250万倍に引き上げられました。300円の宝くじなら、これまでの1等賞金3億円が、これからは7億5000万円になるのです。

日本の宝くじは経費率が5割超ときわめて高く、売上げの半分が胴元の儲けになります。宝くじ法が改正されたのは、この売上げが2005年をピークに減少しはじめたからでした。自分たちの取り分が少なくなることを怖れた関係者が政治家を動かし、射幸心を煽ることで挽回しようと考えたのです。

宝くじ発行側は、今回の法改正で「前年比12%増の売上げが見込める」と皮算用しています。売上げ増が1200億円とすると、そこから670億円が自分たちの懐に転がり込んできます。宝くじは巨大ビジネスなのです。

ところが宝くじの売上げが伸びると、toto(サッカーくじ)の収益が影響を受けてしまいます。宝くじ市場は全体のパイがほぼ決まっていて、今後、大きく伸びるとは考えられません。そこで「スポーツ振興」を目指す議員たちは、totoの最高賞金を現在の6億円から引き上げる法改正を目指しています。宝くじが「1等賞金7億5000万円」を宣伝するなら、自分たちは「10億円」を目指そうというわけです。

当然のことながら、賞金の最高額を増やせば当せん確率は下がりますから、ほぼすべての参加者は生涯宝くじを買いつづけても大損するだけです。しかし人生において数億円ものお金を手に入れる機会は(ふつうは)ありませんから、それだけでも賭けに参加する魅力があるとひとは考えます。この「錯覚」が射幸心で、最高額を大きくすればするほど冷静な判断ができなくなってしまいます。

もちろん自由な社会では、どんなことにお金を使おうとそのひとの勝手です。しかしこれは、「公正な競争」が前提となります。

宝くじやtotoは、国家が独占的に行なう“ガチャ”です。ゲーム会社はこれをより洗練された“コンプガチャ”として消費者に提供したことで処罰されることになりました。

日本のおいては、射幸心を煽ってボロ儲けを許されるのは国家だけなのです。

後記:この記事は、日本経済新聞6月3日朝刊「財源危うい『ギャンブル』傾斜」(電子報道部 松浦龍夫)を参考にしました。

 『週刊プレイボーイ』2012年6月25日発売号
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第17回 高齢化 波風立てぬコスト重く(橘玲の世界は損得勘定)

「お前、なにやってるんだ!」

道を歩いていたら、いきなり怒鳴り声が聞こえた。何事かと思って振り返ると、70歳前後のおじいさんがスーツ姿の中年男性に食ってかかっている。

男性は、近道をするために車道を斜めに横切っていた。おじいさんはそれをとがめて、ちゃんと横断歩道を渡れと怒ったのだ。

角を曲がるとスーパーがあって、入口の横が花屋になっている。そこで高齢の男性が、花屋の主人と大声で口論していた。店頭に鉢植えを並べているのだが、それが5センチほど歩道にはみ出している。おじいさんは、それが公道の不法使用だと怒っていたのだ。

このささいな出来事が妙に記憶に残っているのは、その日のランチで隣に座った女性客の会話を耳にしたからだ。

いかにも“奥様”ふうの女性は、最近は近所が高齢者ばかりになって、つき合いが大変だとこぼしていた。それは、次のような話だった。

彼女の住んでいる町内会では、年にいちど、60歳以上の住民に1000円分の商品券を配ることにしている。彼女は近所のとりまとめ役で、自分と母親以外に数世帯分の商品券を預かった。配布先のひとつが、「ちょっとボケた」夫婦だった。

彼女はおばあさんに、「あなたと旦那さんの分です」と説明して2枚の商品券を渡した。ところが数日後、彼女が留守のときにおばあさんが訪ねてきて、「商品券を1枚しかもらっていない」と彼女の母親に文句をいったのだという。

母親は、娘が商品券2枚を持っていったことを知っていたが、ここでいい争っても仕方がないと思って、自分の分の商品券をおばあさんに渡した。

それから数日後、こんどは町内会長が彼女のところにやってきた。おじいさんから、「自分たちは商品券を1枚しかもらってない」と怒鳴り込まれたのだという。その迫力に気おされて、町内会長はとりあえず手元にあった商品券を1枚渡したのだが、詳しい事情を聞きにきたのだ。

「ホントにイヤになっちゃうわ」と、彼女が憤慨するのもよくわかる。“ボケた”夫婦は彼女を悪者にして、しめて4000円分の商品券を手に入れたのだ。

「それでどうしたの?」と、もうひとりが訊く。

彼女の話によると、事情を知った町内会長は、来年から、商品券を受け取ったら必ず受領印を捺してもらうことにしたという。トラブルの再発を避けるには、それがもっとも賢明な方法なのだろう。

「でも、なんだかヘンだと思わない?」彼女がため息をつく。「これじゃあどんどん手間が増えるばかりだわ」

高齢化が進む日本では、2030年には国民の3人に1人が老人(65歳以上)になる。高齢化社会とは、人間関係の軋轢を解消するのにものすごくコストのかかる社会なのかもしれない。

上品な奥様の愚痴を聞きながら、その日の朝の出来事を思い返して、いささか不安な気持ちになったのだ。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.17:『日経ヴェリタス』2012年6月17日号掲載
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