書評:ソーシャルファイナンス革命

生きる技術!叢書の安藤さんから、慎泰俊『ソーシャルファイナンス革命』を献本してもらった。とても刺激的な本だったので、ここで紹介したい。

著者の慎泰俊は「しん・てじゅん」と読んで、1981年東京生まれ。朝鮮大学校を卒業後、早稲田大学大学院でファイナンスを学び、モルガン・スタンレー・キャピタルを経て、現在は投資ファンドの仕事をしている。同時に、カンボジアやベトナムの貧困層のために「マイクロファイナンスファンド」を企画するNPOを運営してもいるという。

著者自らが書いているように、在日朝鮮人の社会で育つことは、ふつうの日本人とはちょっとちがった体験だ。慎氏が外資系金融機関に勤めるようになると、友人や知人が次々と無心にやってくるようになった。事業を始めるとか、転職や結婚で金がいるとか、実家が急な事情で困っているとか、学校を卒業するために援助してくれとか、理由はさまざまだが、貸したお金はほとんど返ってこず、お金と同時に友情や人間関係まで失うことになったという。それが、慎氏が個人間の少額のお金の貸し借りに関心を持った理由だ。

慎氏はまだ30代はじめだが、私の世代でも、個人間で金銭の貸し借りすることはほとんどない(その数少ない経験でエッセイを1本書いたほどだ)。消費者金融は自分とは無関係の「負け組」が使う高利貸しで、上限金利がどうなろうが、過払い金請求で業者が倒産しようが、誰もなんの関心もない。マイクロファイナンス(少額融資)について真剣に考えるのは、慎氏のように、お金を貸すことの“痛み”を知っているひとだけなのだろう。

この本で慎氏は、ファイナンスの基礎を明快に説明したあと、ソーシャルファイナンス(ひととひととのつながりを利用したお金の貸し借り)はふたつに分けれらると述べる。ひとつが、モハメド・ユヌスがグラミン銀行で行なったマイクロファイナンス。もうひとつが、著者が「P2Pファイナンス」や「クラウドファンディング」と呼ぶ“ファイナンス革命”だ。

本書ではマイクロファイナンスの仕組みや現状、課題などが簡潔に説明されていて、それがコミュニティ(前近代的な共同体)のベタな人間関係を基礎とした“連帯責任”のファイナンスだということがよくわかる。この仕組みはインドやバングラデシュ、メキシコ、ベトナムやカンボジアなどでは大きな成果を挙げ、成功しすぎたために一部では逆に社会問題化している(マイクロファイナンス金融機関が収益を優先して高金利を課したり、強硬な取立てで自殺者が出たりしている)。それに対してアメリカやヨーロッパなどの先進諸国では、さまざまな試みはあってもほとんど機能していない。

ユヌスは、先進国であってもマイクロファイナンスはうまくいくはずで、それを阻んでいるのは生活保護などの過剰な福祉だと批判する。そうした側面もあるかもしれないが、慎氏は、ここにはもっと本質的な問題があるという。インドやバングラデシュとアメリカやヨーロッパ、日本では、社会のかたち(ひととひととのつながり方)がちがうのだ。

マイクロファイナンスは貧困層への無担保融資だが、その返済率がきわめて高いのは、「連帯責任」によって共同体が支援と圧力を加えるからだ。だが私たちが生きているのは後期近代の「自己責任」の社会で、そこではすべてのひとは「自己実現」を目指すべきだとされていて、共同体のための人生にはなんの価値も与えられない。

前近代の共同体が、少人数が深くつながるベタな人間関係だとすれば、後期近代は砂粒のようにばらばらなひとたちが浅くつながる世界だ。だから後期近代のファイナンスは、(前近代の)マイクロファイナンスとはちがうものでなければならないと慎氏はいう。

クラウドファンディングは、インターネットを利用して世界中のたくさんのひとたち(クラウド)から少額のお金を集める仕組みだ。P2P(person-to-person)ファイナンスは、SNS(ソーシャルネットワーク)のプラットフォーム上で、旧来の金融機関を介在させることなく、見知らぬ個人と個人が直接つながるファイナンスのことだ。慎氏は、ICT(情報通信技術)の発達とSNSによって、これまでとはまったく異なるファイナンスの地平を展望する。これはとても魅力的な「革命」のビジョンだ。

ちなみに私は、個人投資家が機関投資家と対等のプレイヤーになる「金融3.0」について書いたことがある(『賢者の投資術』)。ソーシャルファイナンス革命は、「金融3.0」を別の側面から描いたものともいえる。

また『(日本人)』の「UTOPIA」の章で、もし私たちに「夢」があるとするならば、それはICTとSNSが生み出す(かもしれない)新しい価値観(評判社会)しかない、と述べた。共同体のしばりを欠いたソーシャルファイナンスにおいて、返済の担保となるのはSNSの「評判」だ。

もちろん私は、このことで自分の先見の明を誇るつもりはない。私たちは「夢」を奪われた時代を生きていて、おそらくは、誰が考えても同じような場所に行き着くほかないところまで道は狭まっているのだ。

本書のいちばんの魅力は、金融の仕組みについてのクリアな解説でも、未来のファイナンスの予言でもなく、これが「未完」だということだ。まだ30代の著者は、これから自らの実践によって、本書の「続編」を書いていくことになる。それが“世界を変える”innovationになることを期待したい。

PS:とはいえ私は、この「革命」がたんなる幻かもしれないと疑ってもいる。それについては機会をあらためて書いてみたい。

東電の社員は原発事故に責任を負うべきなのか? 週刊プレイボーイ連載(57)

東京電力による家庭向け電気料金の値上げ申請が強い批判を浴びています。自らの失態で原発事故を起こし、多くのひとに迷惑をかけているにもかかわらず、利用者に負担を求めるのはけしからん、というのです。

これはたしかにもっともですが、「社員の給料を下げろ」とか、「OBの年金を減らせ」というだけではたんなるバッシングになってしまいます。ほとんどの社員やOBは、原発事故とはまったく関係のない仕事をしている(いた)からです。

彼らに「責任を取れ」と求める根拠はどこにあるのでしょうか。

議論の前提として、東電が原発事故に対して「無限責任」を負っていることを確認しておきましょう。法律上は、「異常に巨大な天変地異」による原子力災害は事業者の責任が免責されることになっていますが、東電はこの免責を求めていないからです。

次に法人の責任ですが、これも法律に明快な規定があります。

株式会社の所有者は株主で、株主の代表が取締役会です(取締役会の代表が「代表取締役」です)。会社が第三者に経済的損害を与えた場合、その責任は所有者である株主が負うことになりますが、株主は出資金を超えて負担を求められることはありません(有限責任)。

ところで今回の原発事故のように、株主だけではとても負担できない場合はどうなるのでしょうか。こうしたケースも法律の規定は明快で、債権者が損失を被ることになります。債権者というのは、東電に融資している銀行や、東電の債券(電力債)を持っている投資家のことです。

法的には、第一に東電の株主が、次いで債権者が福島原発事故の責任を負います。その一方で、社員やOBの責任についてはなにも書かれていません。彼らは「法的な責任」を取る必要はないのです。

それでは、東電社員やOBの利益は守られるべきなのでしょうか。そんなことはありません。

取締役会は株主の代表ですから、彼らの仕事は「株主利益の最大化」です。代表取締役の義務は、リストラや不要資産の売却によって、できるかぎり株主の資産価値を守ることなのです。

損害があまりに大きすぎて株主の資産がゼロになってしまうと、会社の支配権は債権者に移ります。債権者は会社の支配者として、自分の資産(債権)を守るためにリストラや資産売却を行なうことになります。

東電が「会社」として奇妙なのは、原発事故に「無限責任」があるにもかかわらず、株主も債権者も責任を取っていないことです。彼らは東電にリストラを求める理由がなく、責任問題をあいまいにしたまま電気料金を値上げした方が好都合なのです。

ところが東電の赤字はあまりに膨大なので、けっきょく政府が過半数の株式を所有して“国有化”することになりました。これは、国民が東電の「所有者」になることです。

こうした紆余曲折を経て、ようやく原発事故の責任問題が(すこし)正常化しました。国民が株主ならば、東電に対して厳しいリストラを求めるのは当然の権利です。ただしそれは、社員やOBを“道徳的に罰する”ものであってはならないのです。

 『週刊プレイボーイ』2012年7月2日発売号
禁・無断転載

「素晴らしきベーカムの未来」追記

「素晴らしきベーカムの未来」は、『生活保護の経済分析』(阿部彩・國枝繁樹・鈴木亘・林正義)のなかの、主に國枝繁樹氏の3本の論考、「公的扶助の経済理論Ⅰ:公的扶助と労働供給」(第2章)、「公的扶助の経済理論Ⅱ:公的扶助と公的年金」(第3章)および阿部彩・鈴木亘・林正義氏との共同執筆「就労支援と生活保護」(第6章)を参考にしています。

共著者を代表して林正義氏が「はしがき」で書いているように、『生活保護の経済分析』は、「貧困問題に対処する公的扶助制度の設計は経済学における最も重要な課題の一つであり、特に欧米では、公共経済学や労働経済学と呼ばれる分野において、数多くの重要な研究が蓄積されてきている」にもかかわらず、「日本の近代経済学では公的扶助(生活保護)研究が正面から取り組まれてきたとは言い難く、むしろ、関心さえも十分に持たれることはなかった」との問題意識のもとに、研究者だけでなく一般の読者にも、生活保護や社会保障制度についての欧米の最先端の研究成果をわかりやすく紹介するものです。

こうした企画意図に鑑みれば、私がその論考を紹介するのも、あながち的外れとはいえないでしょう。ただし私の要約はかなり主観的なものなので、できれば原著に直接あたることをお勧めします(社会保障制度に関心があるひとにとっては、とても刺激的な本だと思います)。

ここでは國枝氏の論考から、負の所得税やベーシックインカムが欧米の経済学者によってどのように検証されてきたのかをまとめておきます。今後の議論の参考にしてください。

(1)日本国憲法の定める「健康で文化的な最低限度の生活」とは、「所得」の保障ではなく、「効用水準」の保証である。

効用水準を「幸福度」として10段階で評価し、日本人の平均を5、国家が保証する最低限の幸福度を3とする。このとき、幼い子どもをかかえて明日の食費にも窮する母子家庭の幸福度を1とすると、最低限の所得を生活保護で給付することによって、その幸福度を3に引き上げることができる。

ところが、同じように失業中で収入がないものの、親にパラサイトしてネットゲームなどで時間をつぶしている若者もいる。彼の幸福度を3とすると、母子家庭と同様に生活保護を給付した場合、その幸福度は5まで上がってしまうかもしれない。

このとき、働きながら子どもを育て、苦しいなかで納税している勤労者の幸福度を4とするならば、最低所得の保障によって、受給者のなかに納税者の幸福度を上回る者が出てきてしまう。これでは「働かずに生活保護をもらった方が得だ」という強いインセンティブを与えることになり、制度はいずれ破綻してしまうだろう。

それを避けるには、給付にともなって就労義務を課し、幸福度を3にまで引き下げなくてはならない。このような理由から、給付と就労義務はあくまでもセットであり、「働かない者に最低所得を保障する」というような制度はそもそも検討の対象外だ。

日本国憲法の理念はあくまでも効用(幸福度)の最低保証であって、所得を最低保障するものではない。

*上記は私の主観的な要約で、國枝氏の説明とは異なります。

(2)働くと給付が減額される生活保護制度が「貧困の罠」だとしても、負の所得税ですべての問題が解決するわけではない。

日本の生活保護制度では、勤労控除があったとしても、月額4万円から12万円の勤労収入に対する実効税率が83~93%ときわめて高くなり、受給者は働くよりも保護費をもらいつづけることが得だと考えてしまう。

これに対する解決策として、フリードマンが1962年に「負の所得税(マイナスの税率を持つ線形所得税)」を提唱したことはよく知られている。また1995年にはアトキンソンが、線形所得税とベーシックインカム構想を結びつけた「ベーシックインカム/フラットタックス構想」を提唱した。

だがその後の理論研究において、負の所得税は働いていない者が就労する「フェーズイン段階」ではプラスのインセンティブがあるものの、すでに働いている「フェーズアウト段階」の低所得者(ワーキングプア)に対しては労働を抑制するマイナスのインセンティブがあることが指摘された。

たとえば年収300万円の者が、負の所得税の導入で、年収250万円でも50万円の還付金が受け取れることを知ったとすると、彼(彼女)は経済合理的な判断から、より多く働いて収入を増やすよりも、労働時間を減らして還付金をもらうことを選ぶだろう。

負の所得税による労働供給の減少効果は、すでにアメリカの一部地域で社会実験が行なわれている。それによると、負の所得税の導入によって、労働時間は5~25%程度減少し、雇用率も1~10%程度減少している。

負の所得税(ベーシックインカム)はフェーズイン段階ではプラスのインセンティブによって労働供給を増やすが、フェーズアウト段階では就労意欲を減退させるため、両者を合算すると、全体として労働供給は減少してしまうのだ。

日本では、負の所得税(ベーシックインカム)によって労働供給が増えることが当然の前提として語られているが、欧米の理論ではこうした効果は疑問視されている。

(3)低所得者の労働インセンティブは、負の所得税やベーシックインカムでなくても、勤労所得税額控除で改善可能だ。

公的扶助制度は、低所得者に対して補助金を給付する勤労所得税額控除が主流になってきている。

アメリカの勤労所得税額控除(EITC)では、失業者が働きはじめるフェーズイン段階では給付を多くして、その後は所得に応じて徐々に給付率を下げることで、フェーズアウト段階のディスインセンティブを弱めるよう工夫されている。

イギリスが1999年に導入しその後給付対象が拡大された就労税額控除(WTC)では、フェーズイン段階で週16時間の最低労働時間を定める一方、働きはじめた後の給付率が高くなるようになっている。

それ以外にも、オランダ、フランス、ベルギー、フィンランドなどの欧州諸国が同様の勤労所得控除制度を導入し、最近では韓国も導入を決定している。

「貧困の罠」を改善するのに負の所得税やベーシックインカムのような大規模な社会保障制度の組み換えは必要なく、所得に応じて給付率を変えることによって、フェーズイン段階のインセンティブをより大きくし、フェーズアウト段階のディインセンティブを小さくするような工夫が各国で行なわれている。

日本の生活保護制度も、こうした成果を取り入れて、給付付き税額控除でインセンティブを改善することが望ましい。

(4)低所得者層に対する一律の現金給付は望ましくない。

フリードマンは、高齢者、母子家庭、障害者、失業者などのカテゴリー別の公的扶助を批判し、負の所得税のようなより包括的な福祉制度が望ましいとしたが、その後アカロフが、情報の非対象性のもとでは、カテゴリー別の公的扶助政策がより効率的であることを指摘した。

現在では、負の所得税やベーシックインカムのような現金の一律給付よりも、執行当局が貧困層のカテゴリーを認定し、その集団に対して特別な税率表を与えることで、効率的な福祉制度を構築できると考えられている。

日本の社会保障制度でも、一般的な生活保護に加えて、高齢者への公的年金、失業者への失業保険、障害者や母子家庭への特別手当などの対策が講じられているが、こうしたカテゴリー別の特別措置は経済学的に正当化できる。

(5)現物給付よりも現金給付が優れているとはかぎらない。

フリードマンは、フードスタンプなどの現物給付よりも、受給者が自由に使える現金給付の方が優れていると主張したが、人間の非合理性や情報の非対象性を考慮すると、現物給付の方が望ましいという議論が有力になっている。

たとえば、食料品の購入にしか使えないフードスタンプは現金給付に比べて受給者の効用を引き下げるが、その一方で、不正受給によってギャンブルやアルコールに耽溺しようとする者のインセンティブを失わせる。

これによって不正受給を未然に防ぎ、限られた財源を援助の必要な困窮者に振り分けることができる。

(6)勤労者への所得税額控除が望ましいとしても、不正受給の問題は避けられない。

アメリカのEITCは、ケースワーカーとの面談等の受給者の負担をなくし、還付を受ける者のスティグマを軽減し、漏給を減らすために、税務申告書類に基づいて税務当局が還付事務を行なっている。生活保護制度のような受給者の認定を廃止した結果、本来援助の必要なひとに支給が行なわれない「漏給」は減ったものの、不正受給率がきわめて高いと指摘されている。

日本の生活保護の不正受給率が0.3%程度なのに、EITCの不正受給率は20%を超えると推定されている。

(7)公的年金による最低所得保障は一種のベーシックインカムだが、大規模なモラルハザードを引き起こす。

消費税などを財源として、一定の年齢以上の国民に定額の公的年金を一律に給付する最低所得制度が提唱されている。これは、高齢者のみを対象とした一種のベーシックインカムと考えられる。

しかしこの場合、必要となる財源が巨額になるとともに、深刻なモラルハザードが起こると考えられる。将来の定額給付が保証されていれば、現役世代のなかには、保険料納付や私的貯蓄といった自助努力を放棄する層が出てくるだろう。

現在でも、「生活保護をあてにして年金保険料を払わない」というモラルハザードが指摘されている。最近の実証研究では、「将来定年などで仕事をやめたあとに、生活が苦しくなったらどうしますか」との質問に対し、「生活保護を受ける」という回答は全体では13%だが、年金の非納者では3割弱にのぼった。その後の検証で、現在の年金非納付のうち、2割弱が将来生活保護に頼ることをあてにしたモラルハザードの可能性があると指摘されている。

こうした実証研究に基づけば、高齢者のみを対象としたベーシックインカムですら、大規模なモラルハザードが起こることは避けられない。

上記は同書で扱われている議論のごく一部の要約ですが、この本を読むと、「すべてのひとが満足するような理想の社会保障制度は存在しない」ということがよくわかります。