小沢一郎はなぜエラそうなのか? 週刊プレイボーイ連載(59)

小沢一郎が50人ちかい議員を引き連れて民主党を離党しました。これが自滅への道なのか、政界再編の立役者として返り咲くのかはわかりませんが、マスコミの扱いの大きさを見ても、いまでも日本でもっとも注目を集める政治家であることは間違いありません。

ベストセラーとなった『日本改造計画』の小沢一郎は、日本を「ふつうの国(グローバルスタンダードの国)」にしようとする開明的で合理的な政治家でした。元秘書だった石川知裕が『悪党―小沢一郎に仕えて』で描いたのは、自宅で書生に雑巾がけをさせる古色蒼然たる“オヤジ”の姿です。自民党から新進党、自由党、民主党への遍歴のなかで袂を分かったかつての仲間たちは、ひとをひととも思わぬ残酷さにそろって怨嗟の声をあげます。

政治家なら誰もがいちどは小沢一郎に憧れ、やがて裏切られ捨てられていく。しかしいつのまにか、新人議員たちが彼のまわりに集まってくる。そんな不思議な魅力と複雑な人格(キャラ)が人気の秘密なのでしょう。

ところでここで考えてみたいのは、小沢一郎はなぜあんなにエラそうなのか、ということです。

特定の集団のなかで、お互いに相談しあってなにかを決めることはよくあります。こうした集団での決定を観察すると、そこに簡単明瞭な法則があることが知られています。それは「最初に自信たっぷりに発言したひとの決定に従う」ことと、「一貫していてブレない主張を信じる」ことです。

ここでのポイントは、その主張が正しいかどうかはどうでもいい、ということです。どんなデタラメでも同じことを自信にあふれた口調で繰り返していると、それを信じるひとが出てきます。その人数が増えてくると、さらにまわりを巻き込んで、大きな集団をつくっていきます。カルト宗教から革命まで、歴史はゴーマンな人間を中心に回っているのです。

こうしたテクニックは、会議の冒頭でいきなり大声を出してジコチューな発言をする、というような場面で使われます。これはきわめて効果的な方法で、どんな批判にもいっさい妥協せず頑なに同じ主張を繰り返していれば、やがて相手が折れて議論に勝つことができるでしょう(ネットでもよく見かけます)。

その一方で、この方法にはリスクもあります。たんなる演技では“上から目線”と馬鹿にされ、総スカンを食ってしまうのです。ゴーマンにはそれなりの作法というか、存在感が必要なのです。

永田町にもゴーマンが似合う政治家はほとんどいなくなってしまいました。どこを見ても、甘やかされた二世議員か頭のいいお坊ちゃん(お嬢ちゃん)ばかりです。彼らは腰が低く、さわやかな笑顔で有権者にすり寄りますが、エリート臭さを見透かされて大衆的な人気を獲得することができません。

その意味で小沢一郎は、いまや絶滅危惧種となった傲岸不遜な政治家です。

ひとびとが合理的な意見よりもエラそうな主張を好むなら、小沢一郎の「賞味期限」はまだ切れてはいないのかもしれません。

 『週刊プレイボーイ』2012年7月16日発売号
禁・無断転載

お金を必要としているのは誰なのか?

先日、慎泰俊『ソーシャルファイナンス革命』を紹介したが、私はこうしたファイナンスのイノベーションについて、若干の疑問を持っている。それについても忘れないうちに書いておきたい。

ムハメド・ユヌスがマイクロファイナンスを始める前は、新興国の貧しいひとたちは金融業者から年利数百パーセントというきわめて高い金利で融資を受けるしかなかった。だが慎氏も指摘するように、これは金融業者が暴利をむさぼっていたわけではない。新興国に特有のさまざまな事情(高いインフレ率、政治的・社会的なリスク、モラルハザードなど)によって、“暴利”でなければビジネスが成立しなかったのだ。

ところがユヌスは、融資の返済を「連帯責任」にすれば回収率が劇的に高まることを利用して、貧しいひとたちに少額の無担保融資を「低利」で提供した。これはスゴいイノベーションで、貧困への取り組みを一変させたからこそノーベル平和賞を受賞したのだ。

ところでユヌスのグラミン銀行でも、貸出金利は年利20%超と、先進国の基準ではじゅうぶんに「高利」だ。メキシコ最大のマイクロファイナンス機関コンパルタモスは2008年に株式市場に上場したが、財務諸表から推測される金利は年利70%以上で、インフレ率を除いた実質金利でも65%を超えるという(これはさすがに利益優先の暴利として、ユヌスから「マイクロファイナンスは新しい高利貸しをつくるためのものではない」と批判された)。

年利20%で資金を借りて、約束どおりに返済するためには、それ以上の利回りで「投資」をしなければならない。マイクロファイナンスの利用者は、どのようにして融資を返済しているのだろうか?

これも慎氏が書いているが、たとえば中国の穀倉地帯では、収穫期に稲刈りを代行する「賃刈屋」という商売がある。小規模農家にとっては、1年に1度しか使わない稲刈り機を購入するよりも、手数料を払って賃刈屋に頼んだほうが割に合うのだ。

賃刈屋は、3年もすれば農機の費用を回収できるといわれている。そこから先は利益なので、借金してビジネスを始めてもじゅうぶんに採算が取れるのだ。

新興国には、ちょっとした才覚でお金を稼ぐことができるニッチな投資機会がたくさん残っている。それは市場がじゅうぶんに成熟していないからで、だからこそ年利20%でマイクロファイナンスから融資を受けた村の女性たちが、牛や馬を買って育てたり、工芸品を手づくりしたり、露天で物売りや飲食店を始めたりして、費用(借り入れコスト)を上回る収益をあげることができるのだ。

私の疑問は、アメリカやヨーロッパ、日本のような成熟した市場経済では、こうした小商い(@平川克美)の機会はそれほど多く残されていないのではないか、というものだ。

ソーシャルファイナンスでは、ICTやSNSを活用したクラウドファンディング、P2Pファイナンスによって、より効率的かつ低利に少額の資金を提供できるとされる。日本では上限金利が15~20%だから、ソーシャルファイナンスによって、たとえば年利10%の無担保融資が可能になるとしよう。

ところで、年利10%でお金を借りたひとは、それでなにをするのだろう?

いまや日本では、企業に対する銀行の貸出金利の平均が1%を下回っている。これは、金利1%で銀行から融資を受けても、それを上回る投資機会がないと企業が考えているからだ。企業による「大商い」ですら難しい成熟した市場では、仮にマイクロファイナンスから融資を受けたとしても、個人はそのコストを回収する「小商い」をすることができないのではないだろうか。

「ソーシャルファイナンス入門」でも、融資の使い道についてははっきりとは語られていない。海外の大学でMBAを取得する、スマホのアプリを開発する、などの例が挙げられているが、多重債務者の大半がギャンブルと女(女性の場合は買い物)で借金まみれになっている現状を考えれば、その落差はあまりにも大きい。

金融テクノロジーの発達によって、ファンディング(調達)やレンディング(融資)の仕組みが大きく進化し、旧態依然とした金融機関は市場からの退場を余儀なくされる。これはもちろん素晴らしいことだが、問題は、だぶついたマネーをいったいどこに投資できるのか、ということにある。

この国で、お金を必要としているのは誰なのだろうか? 消費者金融で借りた資金で起業して成功した、などという話は誰も聞いたことがない。消費者金融が「低利」のソーシャルファイナンスに変わったとしても、それだけではなにも変わらないだろう。

PS 『貧乏はお金持ち』で書いたように、日本では国や自治体の“パブリックファイナンス”を利用すると、自営業者や小規模企業家(マイクロ法人)ですら無担保(ほぼ)無利子で1000万円程度のファイナンスが可能になる。このような制度があるかぎり効率的な金融市場は成立せず、パブリックファイナンスから排除された顧客がソーシャルファイアンスに殺到する「逆選択」が避けられないだろう。

北朝鮮は日本から生まれた? 週刊プレイボーイ連載(58)

北朝鮮のミサイル発射実験は失敗に終わりましたが、国際社会の圧力にもかかわらず、核実験やミサイル開発を断念する気配はありません。北朝鮮はなぜ、このような不可解な国になってしまったのでしょう。

もちろん世界には、独裁国家や宗教国家がいくつもあります。とはいえ、革命以来ずっと一党独裁の社会主義体制がつづいているキューバは、いまでは欧米に人気の観光地で国民もずっと開放的です。イスラム教による“神政”が行なわれているイランでも、若者たちはロックバンドを結成し、自由への思いを音楽に託します。北朝鮮は、これら“問題国家”と比べてもあまりにも極端なのです。

朝鮮問題の研究者は、冷戦時代の北朝鮮はそれほど変わった国ではなかったと指摘します。権力者(金日成)の個人崇拝による独裁というのは、中国やソ連をはじめとして、第三世界ではありふれた政治体制だったからです。

北朝鮮が変質しはじめたのは社会主義諸国の停滞が誰の目にも明らかとなった80年代からで、冷戦終焉の激動のなかで、国家の“創業者”である金日成から息子の金正日への権力の世襲(94年)が行なわれました。このとき二代目の権力者は、自らの正統性と無謬性をなんらかの方途で証明しなくてはならなかったのです。

こうして生み出されたのが、首領様(金父子)を脳髄、政府を中枢神経、国民を手足と見なす国家有機体説で、金日成は“神”となり、息子の金正日が教祖として父を祀ることで、国家はひとつの宗教教団のようになっていきました。

国家有機体説は、もともとは19世紀ドイツで唱えられた国家観で、これが伊藤博文などによって明治維新の日本に伝えられました。80年代に北朝鮮の国家体制をつくったのは戦前の日本に留学経験のある政治指導者たちで、彼らは日本の大学で学んだ国家有機体説を翻案して、金王朝の支配を正当化したのです。

戦前の日本では、国体とは現人神である天皇を頂点とする有機体(イエ)のことだとする皇国思想が唱えられました。しかしそれでも明治維新から半世紀の近代化の歴史があり、国民の多くは大正デモクラシーの自由な雰囲気を知っていました。ところが北朝鮮は儒教社会からいきなり日本の植民地となり、それが社会主義独裁体制に引き継がれたことで、より純化した皇国思想ができあがってしまったのです(金正恩への世襲は“万世一系”のグロテスクなパロディです)。

北朝鮮のひとびとは、国家は「社会政治的生命体」で、人民は国家に献身することで神となった金日成から永遠の生命を与えられると“洗脳”されています。これでは国家というよりも、カルト宗教そのものです。

オウム真理教の幹部たちは、教団がフリーメーソンやCIAから迫害を受けており、真理を守るには武装化しかないと信じていました。北朝鮮もまた、飢餓や貧困の原因はアメリカをはじめとする国際社会の陰謀で、核開発はそれに対抗する正当な権利だと国民に説明しています。

北朝鮮が国家ではなくカルトならば、その奇妙な行動も、その結末も、私たちはすでによく知っています。

参考文献:古田博司東アジア・イデオロギーを超えて』

 『週刊プレイボーイ』2012年7月9日発売号
禁・無断転載