テロとのたたかいに「理性」が役に立たない理由 週刊プレイボーイ連載(221)

少なくとも129人が死亡し、352人が負傷した“13日金曜日”のパリ同時テロは世界じゅうに大きな衝撃を与えています。その後も新たなテロ計画が発覚し、オランド大統領はIS(イスラム国)に対する「戦争」を宣言しました。

ISは原理主義のカルトで、世界をイスラーム(光)と十字軍=西欧(闇)に分け、自分たちをジハード(聖戦)の最前線で悪魔とたたかうアッラーの聖戦士だと考えています。イスラームではジハードに殉じた者は最後の審判を待たずに天国に迎えられるのですから、彼らにとってテロは救済と解放なのでしょう。これはもちろん洗脳によって植えつけられた妄想ですが、ISとのたたかいが困難なのは、彼らにそのことを気づかせる方途がないことです。

教養ある青年アーサーは、自動車事故で頭部をフロントガラスに強打し、3週間昏睡状態がつづいたあと奇跡的に意識を回復、集中的なリハビリ療法によって以前と同じように歩いたり話したりできるようになりました。ところが退院後のアーサーには、ひとつ問題がありました。すっかり正常に戻ったはずなのに、両親が偽者だといい張るのです。

アーサーは精神科医に父親を「外見がそっくりな老紳士」と紹介し、どれほど説明されても肉親であることをぜったいに認めません。この特異な症状は、カプグラ症候群と呼ばれています。

脳には、認識に関する領域と情動(感情)に関する領域があります。正常な脳では、側頭葉にある認識領域から情報が辺縁系に送られ、特定の顔に対する情動反応を促進するのですが、なんらかの理由でこの経路が切断されてしまうと、父親や母親、妻や子どもなど親しいひとの顔を認識するものの、それにともなってわいてくるはずのあたたかさや愛おしさを感じることができません。そのため、肉親を見てもそっくりな他人だと判断し、自分がなにかの陰謀に巻き込まれたか、相手がゾンビの類だと思うようになってしまうのです。

カプグラ症候群よりもさらに悲惨なのはコタール症候群で、患者は自分が死んでいるといい張ります。精神科医は、死人には血が出ないということを納得させたうえで、実際に患者を針で刺して血が出るところを見せたりしますが、ひどく驚くものの、実は死人も血が出るのだと結論を変えるだけで、自分が生きていると考えるようにはなりません。

コタール症候群ではすべての認識が情動から切断されていて、患者はどのような体験からも生の実感を得ることができません。そのため、自分が実は死んでいるのだと結論づけるしかなくなります。カプグラ症候群の患者はゾンビの世界に住んでいますが、コタール症候群では自分自身がゾンビになってしまうのです。

患者たちはいずれもきわめて知的なひとたちで、精神科医はなぜ間違った考えを抱くのか論理的に懇切丁寧に説明しますが、まったく治療効果はありません。なんらかの理由で妄想(歪んだ直観)に囚われてしまうと、それを否定する証拠がいくらあっても、というか、反証があればあるほど、彼らは妄想にしがみついて自分のアイデンティティを守ろうとするのです。

こうした奇妙な脳の疾患から、理性(知性)とはなにかを知ることができます。理性の本質が自己正当化ならば、原理主義に対して説得や教育、啓蒙が無力なのも当然です。

参考文献:V・S・ラマチャンドラン、サンドラ・ブレイクスリー『脳のなかの幽霊』

『週刊プレイボーイ』2015年11月30日発売号
禁・無断転載

読書のコストパフォーマンスを追求するために

『ちくま』2015年12月号に掲載された『「読まなくてもいい本」の読書案内』の自著解説を、出版社の許可を得て掲載します。

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世の中の(ほぼ)すべてのブックガイドは「読むべき本」を紹介している(当たり前だ)。でもここでは、「読まなくてもいい本」について考えてみた。とはいっても、古今東西の名著を取り上げて、「こんなものは古本屋に売り飛ばしてしまえ」と八つ当たりしているわけではない。

若い頃はいろんな本を読んだけど、いつの間にか宗教書にはまったく興味がなくなった。理由は単純で、神なんていないからだ。ひとびとの幻想(というか妄想)が生み出したものを真面目に考えたところで時間のムダだ。たくさんのひとがいまも「神」に人生を拘束されているから、宗教の歴史や制度、信者の生態についての研究は意味があるだろうが。

哲学書にも興味が持てなくなった。これは「意識」や「善」が、いまでは脳科学や進化論で語れるようになったからだ。自然科学のフレームワークを無視して、内輪で小難しい用語を弄んでいるだけでは、大学から哲学科が消えていくのも仕方ないだろう。

哲学以上に存亡の危機にあるのがフロイトとかユングとかの人文系の心理学だ。男の子は母親とセックスしたいなんて思ってないし、「集合的無意識」は進化心理学や遺伝学、脳科学の領域で扱えるようになった。面白おかしいお話を捏造しているだけでは、もはや学問として生きていくことはできないのだ。

ポーカーから戦争まで、社会的動物としてのヒトは際限のない対立と協調のゲームを繰り返している。それを分析するのがゲーム理論で、将棋やチェスと同様に参加者の選択はルールに依存している。法律は社会のルールを明示したものだから、世間知らずの法学者が適当につくるのではなく、数学的にもっとも効率的で公平な制度を設計すればいい。このように考えるのが法と経済学で、民法や会社法など市場にかかわる法律は抹香くさい法学を見捨てて、これからは経済学の一分野になるだろう。

ついでにいうと、政治学は法学よりもはるかに遅れていて、日本ではいまだに権力者同士のいがみあいを三国志や戦国時代にたとえたり、政治家の言葉尻をイデオロギー(マルクス主義とか)で批判することだと思われている。でもそんなのはマンガやバラエティ番組でやればいいことで、ゲーム理論の枠組みで政治家や官僚、有権者のインセンティブを分析するのが世界標準だ。

ゲーム理論を最初に取り込んだ経済学は「社会科学の女王」として羽振りよさそうにしているけど、じつはぜんぜん安泰とはいえない。ひとつは進化心理学(行動経済学)の側から「合理的経済人」の前提に重大な疑義が突きつけられたことで、ひとが本性として不合理なら(たぶんそうだろうが)ミクロ経済学は土台から崩壊してしまう。

より深刻なのは複雑系の科学からの異議申し立てで、数学者のマンデルブロは、市場や社会はロングテールを持つ「複雑で小さな世界」で、ベルカーブ(正規分布)しか扱えないマクロ経済学でモデル化することは原理的に不可能だと宣告した。社会科学の最高峰とされている数理経済学は、「科学」から脱落しつつあるのだ。

ここで述べたのは独断と偏見ではなく、それぞれの専門分野ではいまでは常識になっていることばかりだ。これを「知のパラダイム転換」と呼ぶならば、古いパラダイムで書かれた「名著」を一所懸命読んでも投入したコストに見合う成果は得られない。

人生は有限で1日は24時間しかないのだから、生活に必要なお金を別にすれば、この世でもっとも貴重な資産は時間だ。だとしたら読書も、費用対効果を考えて、「読まなくてもいい本」を読書リストからさくさく削ることから始めるべきだろう。

はたしてそんなことがうまくいくのか、疑わしいと思ったら(たぶんそう思うだろうけど)、本屋さんに行ってぜひ自分の目で確かめてみてください。

『ちくま』2015年12月号 禁・無断転載

『「読まなくてもいい本」の読書案内』あとがき

近刊『「読まなくてもいい本」の読書案内』の「はじめに」を、出版社の許可を得て掲載します。

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知が物理的な衝撃だということをはじめて知ったのは19歳の夏だった。

フランスの哲学者ミシェル・フーコーの2度目の来日が1978年4月で、東京大学での講演を中心に雑誌『現代思想』6月号でフーコー特集が組まれた。ぼくは発売日に大学の生協でそれを手に入れて、西荻窪のアパートに帰る電車の中で読み出した。

阿佐ヶ谷あたりだと思うけど、いきなりうしろから誰かにどつかれて、思わず振り返った。でも、そこには誰もいなかった。その衝撃は、頭の中からやってきたのだ。

フーコーはそこで「牧人=司祭体制」の話をしていた。牧人というのは羊飼いのことだ。

羊飼いは羊を管理しているけど、彼の仕事は餌や水を与え、できるだけ多くの子羊を産ませることだ。牧人は羊に対して絶対的な権力を行使するが、その目的は弾圧や搾取ではなく健康と繁殖の管理、すなわち羊の幸福なのだ。

この新しい権力は、牧人であると同時に司祭でもある。

カトリックの告解は、司祭に罪の告白をし、神の許しを乞うことだ。でもこれは、信徒が自らの魂を神の前にさらすことではない。信徒にはもともと魂(内面)などなく、司祭の導きと告解の儀式によって、キリスト教の教えにぴったりの魂がつくられていくのだ――。

ぼくはそれまで、「権力」というのは自分の外(警察とか軍隊とか政治とか)にあって、自由を抑圧しているのだと素朴に信じていた。でもフーコーは、そんなのはすべてデタラメだという。

「権力はきみのなかにある。きみ自身がきみをしばりつけている権力なんだ」

これはまさに権力観のコペルニクス的転換で、あまりの驚きでうしろから殴られたように感じたのだ。

そのとき以来ぼくは、「自分は善で、(自分の外にある)悪=権力とたたかっている」というひとをいっさい信用しないことにした。でもあれから40年ちかく経つのに、いまだに陳腐な善悪二元論を振りかざすひとは減らない――というか、「韓国人を殺せ」と叫ぶ集団を見ればわかるように、ますます目立つようになっている。

このことからぼくは、もうひとつの教訓を学んだ。科学や技術は進歩するけれど、ひとは進歩しないのだ、ぜんぜん。

この本では、“知のパラダイム転換”への入口として、大小さまざまな驚きを集めてみた。

ここで紹介した複雑系、進化論、ゲーム理論、脳科学、功利主義の考え方は、ときどき話題になったりするけれど、世間的にはあまり評判がいいとはいえない。それは素朴な感情を逆なでするからだろうが、ちゃんと考えれば当たり前のことばかりでもある(そう思ったでしょ)。

文部科学省が国立大学に人文社会科学系の学部・大学院の統廃合を迫ったことで、“教養”をめぐる議論が巻き起こった。国際競争に勝つために高度な教育はごく一部のトップ校(G大学)だけにして、それ以外の大学(L大学)は職業訓練に徹すればいい、といい提言も話題を呼んだ。

これに対して人文系の学者は、(当然のことながら)「人間力を鍛えるためには教養が必要だ」と反論している。たしかにこの“複雑で残酷な世界”を生きていくためには知力だけでなく人間力も大事だろうが、彼らは根本的なところで間違っている(あるいは、知っているのに黙っている)。それは、人文系の大学で教えている学問(哲学や心理学、社会学、法律学、経済学のことだ)がもはや時代遅れになっていることだ。

こういうことをいうと大学の先生たちは激怒するだろうけど、これから大学に進んだり、専門を決めようと考えている学部生にはほんとうのことをちゃんと伝えておく必要がある。

古いパラダイムでできている知識をどれほど学んでも、なんの意味もない。

1980年代には、NEC(日本電気)が開発したPC-9800が日本ではパソコンの主流で、98(キュウハチ)のOSを専門にするプログラマがたくさんいたけれど、マイクロソフトのWindowsの登場ですべて駆逐され、その知識は無価値になってしまった。哲学や(文系の)心理学は、いまやこれと同じような運命にある。「社会科学の女王」を自称する経済学だって、「合理的経済人」の非現実的な前提にしがみついたり、複雑系を無視してマクロ経済学の無意味な方程式をいじったりしている学者はいずれ淘汰されていくだろう。

大学教員の仕事は“教養”という権威を金銭に換えることで、ほとんどの文系の大学は彼らの生活のために存在している。その現実が明らかになるにつれて、風当たりが強くなるのは当たり前なのだ。

バブルが崩壊して以来、日本の社会はデフレ不況の長い低迷期に入り、閉塞感に覆われている(といわれている)。本書では扱えなかったけれど、その理由は日銀がお金を刷らないからじゃなくて、日本の社会に「差別」が深くビルトインされているからだ。

年功序列・終身雇用の日本的な労働慣行は、正規・非正規という「身分」差別、新卒一括採用や定年制という「年齢」差別、子どもが生まれてサービス残業できなくなると昇進させない「女性」差別、本社採用と海外の現地採用で待遇がちがう「国籍」差別によってできている。これほどまでに重層的な差別が社会の根幹を蝕んでいたら、個人がどんなにがんばっても「自由な人生」が実現できるはずはない。

なぜこんな差別がいまだに残っているかというと、それによって得をするひとたちがたくさんいるからだ。それは「日本人」「中高年」「男性」「一流大卒」「正社員(終身雇用)」という5つの属性を持つアタマの固いおじさんやおじいさんのことで、政治や行政・司法から学校や会社、マスコミに至るまで、日本社会は彼らの既得権でがんじがらめになっている。

日本の社会で「リベラル(自由主義者)」と呼ばれているひとたちは、大学の教員にしても、マスメディアの正社員にしても、自分たちの組織が弱者を差別していることには知らない顔をして、「国家権力」なるもの(安倍政権とか)とたたかう振りをしてカッコつけているだけだ。フーコーが教えてくれたように、ひとはエラくなるほど自らの内なる権力から目を背け、外に敵をつくって偽善を隠蔽しようとする。

なかには、「理屈ではそうかもしれないけど、日本の社会ではすぐにはうまくいかない」と弁解するひともいる。これは現実主義(リアリズム)といわれているけど、こういうひとは、黒人が差別されている時代のアメリカなら、「人種の平等なんてすぐに実現できるわけはないんだから、とりあえず白人専用の公衆トイレを廃止しよう」なんて“穏当な”リベラルの意見をしたり顔でいうのだろう。

でも若いきみたちなら、自分たちが「差別」しながら「格差をなくせ」と主張する偽善者の論理に振り回されることなく、“知のパラダイム転換”を軽々と受け入れて、効率的で衡平で合理的な「よりよい世界(ベターワールド)」をつくっていくことができるはずだ――と思ったからこそ、この本を書いたんだけど。

2015年10月 橘 玲

『「読まなくてもいい本」の読書案内』(筑摩書房) 禁・無断転載