読書のコストパフォーマンスを追求するために

『ちくま』2015年12月号に掲載された『「読まなくてもいい本」の読書案内』の自著解説を、出版社の許可を得て掲載します。

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世の中の(ほぼ)すべてのブックガイドは「読むべき本」を紹介している(当たり前だ)。でもここでは、「読まなくてもいい本」について考えてみた。とはいっても、古今東西の名著を取り上げて、「こんなものは古本屋に売り飛ばしてしまえ」と八つ当たりしているわけではない。

若い頃はいろんな本を読んだけど、いつの間にか宗教書にはまったく興味がなくなった。理由は単純で、神なんていないからだ。ひとびとの幻想(というか妄想)が生み出したものを真面目に考えたところで時間のムダだ。たくさんのひとがいまも「神」に人生を拘束されているから、宗教の歴史や制度、信者の生態についての研究は意味があるだろうが。

哲学書にも興味が持てなくなった。これは「意識」や「善」が、いまでは脳科学や進化論で語れるようになったからだ。自然科学のフレームワークを無視して、内輪で小難しい用語を弄んでいるだけでは、大学から哲学科が消えていくのも仕方ないだろう。

哲学以上に存亡の危機にあるのがフロイトとかユングとかの人文系の心理学だ。男の子は母親とセックスしたいなんて思ってないし、「集合的無意識」は進化心理学や遺伝学、脳科学の領域で扱えるようになった。面白おかしいお話を捏造しているだけでは、もはや学問として生きていくことはできないのだ。

ポーカーから戦争まで、社会的動物としてのヒトは際限のない対立と協調のゲームを繰り返している。それを分析するのがゲーム理論で、将棋やチェスと同様に参加者の選択はルールに依存している。法律は社会のルールを明示したものだから、世間知らずの法学者が適当につくるのではなく、数学的にもっとも効率的で公平な制度を設計すればいい。このように考えるのが法と経済学で、民法や会社法など市場にかかわる法律は抹香くさい法学を見捨てて、これからは経済学の一分野になるだろう。

ついでにいうと、政治学は法学よりもはるかに遅れていて、日本ではいまだに権力者同士のいがみあいを三国志や戦国時代にたとえたり、政治家の言葉尻をイデオロギー(マルクス主義とか)で批判することだと思われている。でもそんなのはマンガやバラエティ番組でやればいいことで、ゲーム理論の枠組みで政治家や官僚、有権者のインセンティブを分析するのが世界標準だ。

ゲーム理論を最初に取り込んだ経済学は「社会科学の女王」として羽振りよさそうにしているけど、じつはぜんぜん安泰とはいえない。ひとつは進化心理学(行動経済学)の側から「合理的経済人」の前提に重大な疑義が突きつけられたことで、ひとが本性として不合理なら(たぶんそうだろうが)ミクロ経済学は土台から崩壊してしまう。

より深刻なのは複雑系の科学からの異議申し立てで、数学者のマンデルブロは、市場や社会はロングテールを持つ「複雑で小さな世界」で、ベルカーブ(正規分布)しか扱えないマクロ経済学でモデル化することは原理的に不可能だと宣告した。社会科学の最高峰とされている数理経済学は、「科学」から脱落しつつあるのだ。

ここで述べたのは独断と偏見ではなく、それぞれの専門分野ではいまでは常識になっていることばかりだ。これを「知のパラダイム転換」と呼ぶならば、古いパラダイムで書かれた「名著」を一所懸命読んでも投入したコストに見合う成果は得られない。

人生は有限で1日は24時間しかないのだから、生活に必要なお金を別にすれば、この世でもっとも貴重な資産は時間だ。だとしたら読書も、費用対効果を考えて、「読まなくてもいい本」を読書リストからさくさく削ることから始めるべきだろう。

はたしてそんなことがうまくいくのか、疑わしいと思ったら(たぶんそう思うだろうけど)、本屋さんに行ってぜひ自分の目で確かめてみてください。

『ちくま』2015年12月号 禁・無断転載