「フィンランドがベーシックインカム導入?」の結末 週刊プレイボーイ連載(224)

北欧のフィンランドでベーシックインカムの導入が決定し、国民全員に毎月800ユーロ(約11万円)を支給するとのニュースがインターネットに流れました。その後、フィンランド大使館がツイートで「あくまでも予備調査が始まっただけ」と訂正し、誤報と判明しましたが……。

人口550万人のフィンランドで本格的なベーシックインカムを導入するには国家予算の半分に匹敵する500億ユーロ(約7兆円)もの財源が必要で、年金を含む他の社会保障はすべて廃止されるのですから、国会での審議もなしにいきなり決定できるはずはありません。しかし今回の騒動は、ヨーロッパの一部でベーシックインカムが現実的な選択肢のひとつと考えられていることを示しました。

国民全員に無条件で生活最低保障を給付するベーシックインカムはバラマキの典型と思われていますが、実は自由主義の経済学者ミルトン・フリードマンが提唱した「負の所得税」を拡張したリバタリアン的な構想です。

この革新的な政策には、次のようなメリットがあるとされています。

  1. 生活保護のような厳しい給付基準がなく、援助を必要としているひとが排除されない(平等)。
  2. 働いても受給額が減らないから貧困層の労働意欲を阻害しない(市場の活用)。
  3. 年金制度や生活保護などを一元化して行政のムダを削減できる(小さな政府)。
  4. 最低賃金や解雇規制のような非効率な労働者保護を廃止できる(規制緩和)。

こうして並べるといいことばかりですが、なぜいまだにどの国も導入できないかというと、これがとんでもない劇薬である恐れがあるからです。ベーシックインカムが招きよせる「暗い未来」は主に次の3つです。

【強制労働】国民1人当たり11万円ということは、夫婦と子どもふたりの4人家族で年間約500万円だから、それだけでじゅうぶん暮らしていける。これは貧困層に「働かずにひたすら子どもつくる」強いインセンティブを与えるが、富裕層(納税者)は制度への依存を許さないだろう。だとすれば、所得保障と引き換えに就労義務を徹底するしかない。

【超監視社会】ベーシックインカムの仕組みでは、所得を少なく申告することで収入を最大化できる。税の不正申告を許さないためには、国民の経済活動を完全に把握する超効率的な監視システムが要請される。

【鎖国】今回の誤報で「パスポートを持ってフィンランドに行こう」と考えたひとも多いだろう。フィンランドはEUに加盟しているから、ヨーロッパ内の移動はパスポートすらいらない。支給対象は国民だけだが、フィンランド人と結婚すれば市民権獲得への道が開けるし、二人のあいだに生まれた子どもは無条件に国籍を付与される。そうなれば、偽装結婚や子どもの不正認知が巨大な闇ビジネスになるだろう。それを防ごうとすれば、EUから離脱して半鎖国状態にするほかない。

もちろんフィンランド政府はこうした危険性をわかっていて、だからこそ慎重にそのメリットとデメリットを評価しようとしているのでしょう。いずれにしても、これがきわめて興味深い社会実験であることは間違いありません。

早ければ来年から予備調査が始まるとのことなので、その結果を楽しみに待つことにしましょう。

参考記事:素晴らしきベーカムの未来

『週刊プレイボーイ』2015年12月21日発売号
禁・無断転載

マクロ経済学のどこがヤバいのか

新刊『「読まなくてもいい本」の読書案内』の第一稿から、紙幅の都合で未使用の原稿を順次公開していきます。これは第3章「ゲーム理論」で使う予定だった「複雑系経済学」の紹介です。

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経済学が抱える最大の問題が「合理的経済人」の前提にあることは間違いない。行動経済学がこの前提が成立しないことを証明した以上、経済学も、ゲーム理論も、理論の正当性に深刻な疑問を突きつけられている。

この矛盾は、じつは経済学の内部でも気づかれていた。

大学で勉強する経済学は、ミクロとマクロに分かれている。ミクロ経済学は家計(消費者)の需要と企業(生産者)の供給から市場の構造を一般化しようする「帰納型」で、マクロ経済学は国民所得や失業率、インフレ率などのデータから一国経済を分析しようとする「演繹型」だと説明される。でもいまでは、この区別はほとんど意味がなくなっている。

1970年代に経済学者ロバート・ルーカスは、同じ経済現象をミクロ経済学とマクロ経済学が別々に説明するのはおかしいと主張した。その当時、マクロ経済学とはケインズ経済学のことで、一国経済のさまざまなデータを集計し、そこから景気を回復させたり失業率を低下させる効果的な政策(たいていは公共事業のような財政政策)を導き出していた。

でもルーカスは、政府が借金をして(国債を発行して)公共事業を行ない、景気をよくしようとしても、うまくいかないのではないかと考えた。合理的な国民は、いま受け取ったお金は将来の増税によって取り返されると考えるから、それに備えて収入の一部を貯金するだろう。そうなればいくら公共事業をしても消費は増えず、景気もよくならないのだ(このことを最初に指摘したのは19世紀はじめのデヴィッド・リカードで、「リカードの中立命題」と呼ばれる)。

なぜこんなことが起きるかというと、市場が高度なフィードバックシステムだからだ。

これまでのマクロ経済学は市場を物理的世界と想定して、さまざまな数学的モデルを組み立ててきた。でも水の分子は考えたりしないが、市場参加者は相手の動きを先読みして自分の選択を変えることができる。そういう「賢いプレイヤー」の存在を無視して数式だけをいじってもなんの意味もないのだ。

ルーカスの批判は、近代経済学の内側からのラディカルな異議申立てだった。市場ゲームのフィードバック構造を考慮するなら、マクロ経済学の理論はミクロ経済学に連結されていなければならない。これが「(マクロ経済学の)ミクロ的基礎づけ」で、ルーカスの登場以降、この条件を満たしていないマクロ経済学の理論は相手にされなくなった。

ルーカスは、市場のあらゆる情報を知り、数学的に最適な選択を行なう全知全能の「合理的経済人」を仮定しなかった。そのかわり、ひとびとは不確実な世界のなかで、さまざまな期待を抱いていると考えた。ひとが利己的であるならば(おそらくそうだろう)、この期待は、自分がもっとも得をするよう合理的なものとして形成されるはずだ。――これが現代の経済学の中心命題である「合理的期待形成」だ。

1980年代なると合理的な「期待」や「予想」がマクロ経済を席巻し、どのような財政・金融政策も、国民がその負の効果をあらかじめ期待(予想)してしまうから効果がない、と主張されるようになった。これが、「政府はなにもせずに市場に任せたほうがいい」というレーガンやサッチャーの経済政策の理論的バックボーンだ(ミルトン・フリードマンらのマネタリストは、中央銀行が通貨の供給量を一定に保つ以外に政府がやることはないとした)。

ところがその後、ケインジアン(ケインズ主義者)から、合理的期待形成の前提を受け入れつつも、マクロ経済政策が有効になる理論的可能性が示された。これがニュー・ケインジアン・モデルで、価格の粘着性と不完全競争を前提にすれば、財政政策や金融政策で短期の景気変動に影響を与えることができるはずだ。アベノミクスの第一の矢である金融政策も、このニュー・ケインジアン・モデルに則っている。

障がいを持つ胎児の中絶をどう考えるか? 週刊プレイボーイ連載(223)

茨城県の教育委員が、「妊娠初期にもっと(障がいの有無が)わかるようにできないのか」「茨城県では(障がい児を)減らしていける方向になったらいい」などと発言したことで辞職に追い込まれました。これが差別的な発言であることは明らかですが、しかしそれを封殺すればすむ問題でしょうか。

傷がいを持つ胎児の中絶はもちろん、出産直後に障がいがあることがわかった場合も安楽死を認めるべきだ――こんな主張を聞いたらほとんどのひとは仰天するでしょう。しかしこれは、倫理学の分野で1970年代後半に提起され、数々の論争を経て(批判も含め)いまでは一定の評価が定まっています。

重度の障がいを持つ乳児の安楽死を議論の俎上に載せたのはオーストラリアの哲学者ピーター・シンガーですが、彼はネオナチやファシストの類ではなく、「動物の権利」を提唱して動物保護運動に画期をもたらしたリベラルの“過激派”です。

なぜ動物に権利があって胎児や出産直後の乳児には権利がないのか。シンガーはこれを意識の有無で説明します。

実験用のチンパンジーが、殺されるときに自分の運命に気づいて恐怖を感じるとしたら、チンパンジーにもその恐怖=意識の度合いに応じて権利を認めるべきだ(ここから、意識レベルの低いネズミの動物実験は容認されます)。それに対して(シンガーの知見では)胎児や出産直後の乳児が意識を持つという科学的な証拠はなく、恐怖を感じないのなら安楽死を否定する倫理的な根拠もない――という理屈になるのです。

生まれた子どもが重い障がいを持っていたら、親はたいへんな苦労を覚悟しなければなりません。このとき子どもの「生きる権利」と親の「幸福」が対立したとすると、シンガーは、胎児や乳児の意識レベルがきわめて低い段階では、親の権利を優先することが「倫理的」であるというのです。

ここで誤解のないようにいっておくと(というか、必ず誤解されるでしょうが)、これは「障がい児には生きる権利がない」ということではありません。

医師の義務は、胎児の検査や出産直後の診断により、子どもの障がいについて親に正確な説明をすることです。そのうえで親は、子どもを産み育てるかどうかを、第三者の介入を排して、自分たちの自由な意思で判断する権利を有します。そして障がい児を育てようと決めたのであれば、社会はその子どもの「人権」を尊重し、じゅうぶんな保護と援助を与える義務を負うのです。

ナチズムの暗い過去を持つドイツでは安楽死への心理的抵抗がことのほか強く、シンガーが生命倫理のシンポジウムに参加したときには「人権団体」から激しい抗議を受けました。彼らはシンガーの安楽死論を「(ユダヤ人絶滅を計画した)ホロコーストの正当化」だと批判しましたが、実はシンガー自身がユダヤ系で、親はナチスを逃れてヨーロッパからオーストラリアに移住したのでした(シンガーの著作の多くは日本でも翻訳されており、生命倫理を論じるうえでの必読文献になっています)。

2013年度に新出生前診断が始まり、受診数と、その結果を受けて中絶を選択するひとの数は増えつづけています。だとすればいま必要なのは、「差別はけしからん」という空虚なヒューマニズムではなく、当事者によりそった現実的な議論ではないでしょうか。

参考文献:ピーター・シンガー『実践の倫理』

『週刊プレイボーイ』2015年12月14日発売号
禁・無断転載