マクロ経済学のどこがヤバいのか

現代の経済学は市場のフィードバック構造を取り込み、マクロ経済学をミクロ的に基礎づけて両者を統合しようとした。でもこれですべてがまるく収まったわけではない。

ひとつは行動経済学などから、「合理的期待」についても厳しい批判が浴びせられたことだ。

単純な数学的合理性すら持たない人間が、不確実な状況で「期待を合理的に最大化する」などという芸当ができるわけがない。合理的期待の最大化は、合理的な効用の最大化よりもさらに難易度が高いのだ。実際、(実験室に模擬的な市場をつくって経済理論が妥当するかどうかを調べる)実験経済学でも、ゲームの参加者が合理的に期待を形成するという仮説は証明できていない。

市場参加者が合理的な期待を形成しないならば、マネタリストもニュー・ケインジアンも、その理論的根拠を失ってしまう。これはけっこう深刻な事態だ。

でもそれよりマズいのは、マクロ経済学を基礎づけるはずのミクロ経済学に対して、「そもそも最初から間違ってるんじゃないの」という批判が出てきたことだ。

大学でミクロ経済学の授業を取ると、真っ先に「需要と供給の均衡」を勉強することになるが、かなりの学生がここで脱落してしまう。そこに出てくる仮定があまりにも現実離れしているからだ。

近代経済学の基本は「資源の希少性」だ。どんな資源(財やサービス)にも限りがあり、無限に利用できるわけではない。企業(生産者)は希少な資源を利用して生産を行ない、財やサービスを販売して「利潤の最大化」を図る。家計(消費者)は希少な資源を最適に組み合わせて購入し、消費することで「効用の最大化」を図る。

このように、生産者と消費者は利害が対立している。生産者は生産物をできるだけ高い価格で販売しようとし、消費者はそれをできるだけ安く購入しようとする。だが両者はいずれどこかで妥協し、そこで取引が成立する。この価格は消費者の需要曲線と生産者の供給曲線が交差した点で、そこが「均衡」になる――という話になっている。

この需要と供給の法則は高校でも習うし、直感的にも理解しやすい。だが経済学は、ここで「限界効用の逓減」「限界費用の逓増」という奇妙な概念を持ち出す。これが出てくるのは経済学の授業の2回目くらいで、ここで早くも落ちこぼれが生まれる。

効用というのは、満足度や幸福を経済学的にいい換えたもので、数字で表わされる。「幸福を数値化する」というとそれだけで拒絶反応を起こすひともいるだろうが、経済活動を数学的に扱うためにはこれは避けて通れない前提だ。

もちろん経済学者は、「強欲な守銭奴となってカネを貯めれば幸福になれる」なんて無粋なことはいわない。ここで登場するのが限界効用の逓減で、「限界Marginal」は日本語としてはかなり変わった使い方だけど、1単位増えたり減ったりすることをいう。

生ビールなら、ジョッキ1杯が1単位だ。生ビールの限界効用は、1杯めから2杯め、3杯めから4杯め、10杯めから11杯め(もし飲めれば)へとジョッキを1単位増やしたときの効用(満足度)の変化ということになる。

生ビールを飲む自分を想像すれば、限界効用が逓減する(だんだん減っていく)ことは誰でもすぐにわかるだろう。乾杯のあとの一口はものすごく美味しいが、2杯めになるとそうでもない。3杯めから4杯めへはたんなる惰性で、大ジョッキ10杯飲んだあとさらにもう1杯飲まされるのは拷問かなにかだ。これは生ビールだけではなく、ケーキやチョコレートも、シャネルやエルメスのバッグも、世の中のたいていのものは限界効用が逓減する。――この話も直感的に理解できるから、ここまではなんの問題もないはずだ。