理屈をいう前に、まずは保育園の送り迎えから 週刊プレイボーイ連載(235)

子育てをしたのはだいぶ前のことですが、ゼロ歳のときから共働きで、月~金のうち2日は私が保育園に迎えにいくことになっていました。公立の保育園は9時から5時までで、前後に1時間延長が認められていました(*)。朝8時に子どもを預けると、5時に迎えにいくためには4時過ぎに会社を出なくてはなりません。これでは正社員の勤務は無理なので、子どもが小学校に上がるまではフリーランスで働いていました。

日本では共働きでも夫が正社員、妻がパートがほとんどで、その保育園では父親が迎えに来るのは私だけでした。「保育園落ちた日本死ね」のブログをきっかけに政治家や識者がいろんなことをいってますが、違和感があるのは、このひとたちのほとんどが保育園を利用した経験がないからでしょう。

待機児童の解消が重要なのは当然ですが、保育園の数を増やしただけでは問題は解決しません。当時、いちばん困ったのは子どもが頻繁に発熱することでした。ほとんどは些細なことですが、保育園では園児の健康に責任がもてないので、37度5分を超えると親に連絡して引き取ってもらうことになっていました。この「お迎えコール」はきわめて厳格で、仕事が忙しいから早引けできない、というのは許されません。私はポケベルをつけて(当時はまだ携帯がなかったのです)、それが鳴ると5分以内に折り返し電話をかけ、「子どもが熱を出したので帰ります」といって駅まで走りました。こうした事情はいまでも変わっていないでしょう。

子どもが小学校にあがると学童保育で預かってもらいましたが、そこで感じたのは、日本の社会では専業主婦が“正常”で、「共働きは特別な事情がある家庭」と扱われていたことです。すでに欧米では共働きが常識になり、専業主婦は「障がいなどの理由で働けないひと」と思われていたのに。

会社も同じで、正社員を長時間拘束することで仕事が成り立っているため、午後4時になると「保育園に子どもを迎えにいきます」と帰ってしまう人間を「正規のメンバー」にすることはできません。私の場合は珍しがられていただけですが、女性の場合、この同調圧力ははるかに強いものがあるはずです。

安倍政権は「女性が輝く社会」を掲げていますが、そのためにはまず「正社員+専業主婦」という日本社会の根本構造を変えなくてはなりません。フルタイム(正社員)とパートタイム(非正規)で異なる待遇は、国際社会では「身分差別」として禁止されています。オランダなどでは労働者がライフステージに合わせて勤務形態を選ぶことができ、パートタイムも「正社員」と扱われます。これなら堂々と4時に退社できるし、子育てが一段落すればフルタイムに戻ればいいだけです(早引けするときは自宅作業にすればいいでしょう)。働き方の仕組みを変えるだけで、共働き家庭の状況は劇的に改善するのです。

待機児童問題の背後には、正社員中心の日本社会の差別的な構造があります。しかし「保育園を増やせ」と叫んで安倍政権を批判するひとたちも、その大半は家事・育児を専業主婦に丸投げしてきた中高年の男性で、自分たちの既得権を手放す気はありません。立派なことをいう前に、まずは子どもを保育園に預け、送り迎えをやったみたらどうでしょう。

(*)30年近く前のことなので、現在とは保育時間などは異なります。

『週刊プレイボーイ』2016年3月22日発売号
禁・無断転載

第57回 節税対策 そう甘くない(橘玲の世界は損得勘定)

すこし前の話だが、タワーマンションの上層階をかなりのお金を出して購入したひとに話を聞いたことがある。彼は子どもがまだ小学生なのに、相続のことを考えて決断したのだという。

私がぽかんとした顔をしていると、彼はそれがどれほど有利な節税法なのか懇切丁寧に教えてくれた。

湾岸などに建てられた超高層マンションは、眺望のいい上層階ほど価格が高い。それに対して低層階は人気がないため、価格は近隣の物件と比べても安めだ。ところが相続税の算定基準となる「評価額」は階層で差をつけず、マンション全体の評価額を各戸の所有者で均等に分割することになる。

「同じ広さで、2階が2000万円で50階が1億円だとするでしょう。でも相続税評価額は、1億2000万円を2等分した6000万円なんです。そうすると、子どもに1億円相当の不動産を相続させても、税金を40%も節約できるじゃないですか」

私は話をうまく理解できず、彼に訊いた。

「だったら2階を購入したひとは、2000万円相当の物件を6000万円で評価されることになるんですよね。なんでそんな取引をするんですか?」

こんどは彼がぽかんとした顔をする番だった。そして「バカだからじゃないですか」といった。

でもこれは、もうちょっと経済合理的に説明できる。2階の物件は相続税の割増分だけ値引きされていて、50階の物件は節税分が価格に上乗せされているのだ。

もっと不思議なのは、彼の年齢を考えれば相続が30~40年先の出来事だということだ。明日どうなるかすらわからないのに、なぜそんな遠い未来を心配するのだろう。日本人の平均寿命からすれば、相続は70歳過ぎてから考えればじゅうぶんなのだ。

案の定、総務省と国税庁が「タワマン節税」を封じる検討に入ったと報じられている。実際の物件価格に合わせ、階によって評価額を増減するよう計算方法を見直すのだという。

節税法の多くは、税法の本則ではなく通則や通達を根拠にしている。これらは税務当局の腹積もりでかんたんに変更されてしまうから、それが永続することを前提とした相続税対策はもともと矛盾しているのだ。

世紀の変わり目の頃に、海外生命保険を利用した節税法が富裕層に流行した。死亡保険金は相続財産として非課税枠の特例が認められているが、これが適用されるのは日本で免許を得ている保険会社の商品だけだ。海外生保の保険金は、税法の本則に戻って、一時所得として課税される。ふつうはこんなことをしても意味はないが、保険金が巨額になると、非課税枠を放棄しても税率の低い一時所得で課税された方が有利になるのだ。

当時、日系カナダ人の保険代理店から熱心にこの節税スキームを勧められたときも、私は同じ疑問を抱いた。そして案の定、海外の保険金も国内と同様に扱われることになって、この節税法はなんの意味もなくなってしまった。――海外生保に加入したひとがその後どうなったのかは知らない。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.57:『日経ヴェリタス』2016年3月13日号掲載
禁・無断転載

知識社会は“人種ポピュリズム”から”リベラルなポピュリズムへ 週刊プレイボーイ連載(234)

アメリカ大統領選の候補者選びの中盤の天王山スーパーチューズデーで、不動産王ドナルド・トランプが7州を制したことで、この稀代のポピュリストが共和党候補として大統領選に臨む“悪夢”が現実的なものになってきました。すでに多くの識者が述べているように、これは米国社会の分断を象徴しています。ところで、いったいなにが「分断」されているのでしょうか。

これまでの通説では、共和党支持の「赤いアメリカ(保守)」と民主党支持の「青いアメリカ(リベラル)」が対立し、ティーパーティのような偏狭な保守主義が台頭してリベラル派が退潮しているとされてきました。ところが今回の選挙戦は、こうした見方に疑問を呈しています。

トランプは「メキシコとの国境に壁をつくる」とか、「ムスリムを入国禁止にする」などの排外主義的な主張で知られていますが、その一方で自由貿易より国内雇用を重視し、福祉政策は必要だと論じ、妊娠中絶に理解を示すなど、共和党主流派の政治イデオロギーを真っ向から否定することも平然と口にします。これが「トランプは隠れ民主党員だ」との批判を招くのですが、選挙結果をみるかぎり共和党員はこうした“変節”をまったく気にしていないようです。

分断の基準がイデオロギーでないとしたら、それは何でしょうか? これは各種投票調査において、トランプが新たに開拓した支持層が「じゅうぶんな教育を受けておらず、低い賃金の白人男性」とされていることから明らかです。アメリカの経済格差は、「知能」の格差のことなのです。

なぜこのようなことが起きたのでしょうか。それは「グローバル資本主義」の本質が知識社会化だからです。そこではヒトの多様な知能のなかで、言語的知能と論理数学的知能のみが特権的に優遇されます。

20世紀末からアメリカは「知識大国」へと大きく舵を切り、高等教育を通じて世界じゅうの優秀な人材がウォール街やシリコンバレーの「知識産業」に供給されるようになりました。この好循環によってアップルやグーグルはグローバル経済の覇者になっていきます。

しかしこれは、「知能」において競争力を持てないひとびとの生活に破壊的な作用をもたらします。知識社会化が進めば進むほど脱落者は多くなり、ついには「1%の富裕層と99%の貧困層」(より正確には「人口の1%が富の3割を保有する社会」)に至ったのです。

トランプが予備選で人種差別的な発言を繰り返すのは、共和党員のなかでは、知識社会から脱落したのが圧倒的に白人が多いからでしょう。しかし黒人やヒスパニックの支持がなければ本選で勝つのは難しく、このままではただのトリックスターに終わりそうです。

知識社会化にともなう富の二極化は、人種や民族を問わずこれからも拡大していくでしょう。そう考えれば、人種的なポピュリズムより、「知能によって排除されたすべての有権者の側に立つ」候補者の方がずっと強力です。

4年後(もしくは8年後)には、いまはトリックスター扱いされている「民主社会主義者」バーニー・サンダース型の“リベラルなポピュリスト”が大統領の座に就いたとしても不思議はありません。

参考:チャールズ・マレー『階級「断絶」社会アメリカ  新上流と新下流の出現』

『週刊プレイボーイ』2016年3月14日発売号
禁・無断転載