ほんものの「ブラックスワン」はどこにいる? 週刊プレイボーイ連載(253)

6月24日の国民投票でイギリスのEU離脱が決まったと思ったら、ラマダン(イスラームの断食月)に合わせたようにIS(イスラーム国)の関与するテロが続発しました。6月28日にイスタンブール空港が武装したテロリストに襲撃され(死者48名、負傷者238名)、7月1日にはバングラデシュの首都ダッカの高級レストランで日本人7人を含む民間人20人が死亡するテロが起き、フランス革命を祝う7月14日には観光地ニースで花火見物の群集に向けて大型トラックが暴走、84人が死亡200人以上が負傷する大惨事が起きました。さらには翌15日、トルコで軍の一部がクーデターを起こし、エルドリアン大統領が宿泊していたホテルを襲撃、テレビ局などを占拠しました。

わずか3週間のあいだにめまぐるしく大事件が起きたことで、その間の参議院選挙はすっかりかすんでしまい、7月末の東京都知事選は茶番劇のような扱いです。

フラクタル(複雑系)理論の創始者ブノワ・マンデルブロに師事したヘッジファンドマネージャー、ニコラス・タレブは、私たちが生きているのは正規分布の統計学で予測できる「確率世界」ではなく、平板な日々のあとに突如とてつもないことが起きる“べき分布”の「複雑系世界」だとして、それをブラックスワンと呼びました。「白鳥(スワン)は白い」という常識は、オーストラリアで黒いスワンが見つかったことで一夜にして覆されてしまいます。同様に、2001年9月11日の同時多発テロや08年9月のリーマンショック、11年3月11日の東日本大震災と福島原発事故のような「とてつもないこと」は、それまでの世界を一変させてしまうのです。

この理論はきわめて魅力的なのでたちまち普及し、びっくりするようなことはすべて「ブラックスワン」と扱われるようになりました。

しかし冷静に振り返れば、EU統合の夢が破れたのは2005年にフランスとオランダが国民投票で欧州憲法の批准を否決したときで、14年の欧州議会議員選挙でイギリス独立党が第一党になったことでイギリスのEU離脱は現実的な可能性になりました。

ヨーロッパにおけるテロの脅威は、15年1月のシャルリー・エブド襲撃事件と、同年11月のパリ同時多発テロ事件が「ブラックスワン」で、翌16年3月には「ヨーロッパの首都」ブリュッセルがテロの標的になり、「新たなテロは時間の問題」といわれてきました。ニースの事件の衝撃は、大型トラックというどこにでもあるものが大量殺人に使われたことでしょう。

そう考えれば、「誰も予想していなかった」出来事はトルコのクーデター未遂事件ということになります。トルコでは軍部による政治介入が繰り返されてきましたが、1980年の軍事クーデターから30年以上たち、EU加盟を目指す民主国家として成熟してきました。多くの民衆が街頭に出て軍に抵抗したことからわかるように、もともと成功するはずのない企てだったのです。

しかしこの事件は、「独裁」を批判されるエルドアン大統領の権力基盤が予想外に脆弱なことを明らかにしました。IS掃討作戦の最前線に位置し、膨大な難民を堰き止めてもいるトルコで政変が起きれば、ヨーロッパは大混乱に陥るでしょう。これが世界の様相を一変させるブラックスワンにならないことを祈るばかりです。

『週刊プレイボーイ』2016年8月1日発売号
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「愛国心の祭典」EUROはちょっとうらやましい 週刊プレイボーイ連載(252)

ヨーロッパのサッカーの祭典EURO2016はポルトガルが地元フランスを下して幕を閉じました。EUROはまた、互いの「愛国心」を競うお祭りでもあります。

今大会で注目を集めたのは、初出場でグループリーグを突破したばかりか、決勝トーナメントでも強豪イングランドを下して8強に進んだアイスランドです。人口33万人と、国というより田舎の小都市といった規模ですが、それだけに「俺たちのチーム」に対する誇りと愛情はとてつもなく、スタジアムには人口の1割に相当する3万人が押し寄せ、熱くて陽気でクリーンな応援が世界じゅうから賞賛されました(イングランド戦の実況の瞬間最高視聴率が99.8%に達したことも話題になりました)。

それに比べて評判を落としたのはイングランドとロシアで、マルセイユでの試合後に両チームのフーリガンが暴動を起こして機動隊が出動する騒ぎになり、ロシアサッカー協会は大会からの追放を警告される羽目になりました。これでまた「ロシア人は民度が低い」という“偏見”が助長されることになるでしょう。

今回のEUROはフランス開催ということで、パリ、マルセイユ、ボルドーの3会場で決勝トーナメントを観戦しました。印象に残っているのはボルドーのドイツ×イタリア戦で、1対1のまま互いに譲らずPK戦で決着する好試合になりました。

ボルドーの会場は市内からトラムで30分ほどのところにあり、試合開始が近づくと、町で大量のビールを飲んだサポーターたちが続々と乗り込んできます。じつは今回の大会は、フーリガン騒動によって会場内での飲酒が禁止され、サポーターは会場入りする前にじゅうぶんに酔っ払っておこうと必死になったのです。

白のドイツのユニフォームを着たサポーターたちは、トラムに乗り込むや壁や天井を叩き、足を踏み鳴らして応援歌を歌い始めます。私の前には年配の夫婦が座っていて、奥さんは車内の馬鹿騒ぎを完全無視でずっと窓の外を見ています。でも夫はどこかもじもじしていて、やがてスマホを取り出すとサポーターの写真を撮り、次は彼らといっしょに自撮りし、ドイツ国歌が始まるととうとうガマンできなくなって、サポーターたちといっしょに大声で歌いはじめました。どうやら彼もドイツ人で、奥さんの手前、最初はおとなしくしていたようなのです。

面白かったのは、同じトラムに乗っていた数少ないイタリアのサポーターが自分たちの応援歌を歌いはじめたときです。それを聞くとドイツ人は喜んで手を叩き、ちゃんと最後まで終わるのを待って、より大きな声で自分たちの応援歌を歌いだすのです。

そのやりとりを見ていて、EUROのサポーターの約束事がなんとなくわかりました。自分たちの「愛国心」を楽しむためには、ライバルの「愛国心」を尊重しなければなりません。そうやってどちらの愛国心=チーム愛がイケてるかを競いあうのが祝祭のルールなのです。――フーリガンは愛国心を楽しむことができないからバカにされるのです。

この約束事さえ守っていれば、国旗をまとって愛国心を誇示し、街なかで大騒ぎしても嫌がられるどころか、大歓迎されます。それを見ながら、同じことが日本でできるようになるのはいつになるか考え、ちょっとうらやましくなりました。

『週刊プレイボーイ』2016年7月25日発売号
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PK戦後、サポーターと勝利を喜ぶドイツチーム
PK戦後、サポーターと勝利を喜ぶドイツチーム

第60回 英シティが望んだ?EU離脱(橘玲の世界は損得勘定)

イギリスのEU離脱でロンドンの金融街シティの地盤沈下が懸念されている。大手金融機関のなかには、EU圏でのビジネスを優先しフランクフルトやパリに本社移転を検討するところもあるようだ。シティが金融機関が集まるたんなる一区画なら、もっと有利な場所に移るのはビジネストして当然だろう。だが、シティは「ふつう」ではない。

シティの正式名称は「シティ・オブ・ロンドン・コーポレーション」で、1000年前からつづく同業組合(ギルド)の共同体だ。この共同体はロンドン市の行政の一部であると同時に、中世からの長い歴史のなかで数々の特権を認められた“自治都市”でもある。

中世イギリスの都市は国王から下されるチャーター(許可状)によって設立されたが、シティにはこのチャーターが存在しない。これが、シティが国家(国王)と対等の政治的権利を有しているとされる根拠だ。

古来、シティに入るには国王ですら武器を置かねばならなかった。エリザベス女王が在位50周年記念式典でシティを訪れたときは、町の境界でロード・メイヤー(シティの市長)が出迎えたが、これは国王との取り決めで許可なくシティに立ち入ることが許されていないからだ。

こうした数々の特権は、ロスチャイルド家やベアリング家などシティの豪商たちが王室の戦費調達などを支援した代償として手に入れ、コモンロー(慣習法)として認められてきた。たとえば王室債権徴収官はシティが英国王室に保有する債権の管理人で、現在でも議員以外でただ一人下院の議場に入ることができ、議長の後ろに座っている。その役割は「シティが享受している権利や特権を妨げるあらゆる法案に反対すること」だ。イギリスの中央銀行であるバンク・オブ・イングランドも、もとはシティの豪商たちが1694年に設立した民間銀行だった。

「国家のなかのもうひとつの国家」としてのシティは、共同体(コーポレーション)のメンバーである域内の金融機関にもっとも有利なルールを提供できる。さらにイギリスには、王室属領や海外領土、イギリス連邦の旧植民地など世界じゅうに広がる「帝国の遺産」がある。シティはこうしたタックスヘイヴンのハブ(中心)となることで、グローバルな金融ビジネスを支配してきた。アジアの金融センターである香港やシンガポールも、シティのグローバルネットワークの一部なのだ。

だがブリュセッルのEU官僚たちは、中世からの特権を手放さないこの奇妙な都市の存在を認めない。イギリスがEUにとどまるならば、シティは「ただの町」になっていく運命だった。だが今回の国民投票で、首尾よくEUのくびきから逃れることができたのだ。

シティがウォール街と互角にたたかえるのは、タックスヘイヴンのネットワークによって、グレイゾーンを含めた膨大な金融取引の需要にこたえることができるからだ。そう考えれば、シティが裏で離脱派を操っていたとしても、なんの不思議もないだろう。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.60:『日経ヴェリタス』2016年7月17日号掲載
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