『ダブルマリッジThe Double Marriage』戸籍に入ってきた見知らぬ子

新刊『ダブルマリッジThe Double Marriage』で、戸籍に「長男」として、新たにケンという名前が加わったことを知った憲一は、市役所の市民課戸籍係の山下課長補佐に電話で事情を聞きます。なぜ本人の許諾はもちろん一片の通知すらなく戸籍が書き換えられるのか、第2章「青空」からその部分をアップします。

***********************************************************************

「そんな……」桂木憲一は受話器を耳に押し当てたまま絶句した。

一週間のシンガポール出張から帰宅したとたん、妻の里美から硬い表情で「どういうこと、これ?」と一枚の紙を押しつけられた。

混乱した憲一は、T市役所の戸籍係に電話した。山下という担当者は、事情を聞くと、三〇分ほどで折り返し電話をかけてきた。

「法務局にも確認してみたのですが、戸籍上、桂木ケンという人物が憲一さんの長男であることは間違いありません」山下は、木で鼻をくくったような口調でいった。「この方は、桂木憲一を父、ロペス・マリアを母として、平成二十六年十月一日に岐阜地方法務局で日本国籍を取得しています」

「しかし、わたしはそんな人物はまったく知らないんですよ」ようやく気を取り直すと、憲一は反論した。

「ですから、“戸籍上は”と申し上げているんです。実際に血がつながっているかどうかは、わたしどもには知りようがないわけですから」

「だったらなぜ、そんな勝手なことができるんですか」憲一は思わず声を張り上げた。

「それはケンさんが、憲一さんとロペス・マリアさんの婚姻後に出生しているからです」あっさりと、山下はいった。「憲一さんとマリアさんは平成二年十二月二十五日にマニラで婚姻されています。フィリピン側から提出された記録によると、ケンさんの出生日は平成三年八月八日ですから、戸籍の上ではケンさんは憲一さんの長男になるんです」

「しかしわたしは、そんなことは認めていません」

「婚姻前に生まれたのであれば、戸籍に記載するにあたって父親の認知が必要になります。再婚の場合は、民法上、離婚後三〇〇日以内に生まれた子どもは前夫の子と推定されますが、それ以外は、婚姻関係にある男女のあいだに生まれた子どもは実子と扱われ、認知は不要なんです」

憲一は唇をかみ締めた。山下の受け答えは丁重だったが、そこには「お前の責任だ」という本音が隠されていた。

「この人物が実子ではないと主張されるならば、家庭裁判所に親子関係不存在の調停を申し立てることができます。その場合は、DNA鑑定をして確認することになるのではないかと思いますが」

「DNA鑑定……」憲一はまた絶句した。この慇懃無礼な役人と話をすればするほど、なにもかも泥沼にはまっていくようだ。

「しかし、二度も無断で戸籍を書き換えるなんてひどいじゃないですか。仮にあなたがおっしゃっていることが法律的に正しいとしても、これだけは納得できません」

前回、T市役所で山下と話をしたときは、マリアとの婚姻を戸籍に記載するにあたっては憲一あてに催告通知を送ったはずだといわれた。そのとき憲一は海外に赴任していて、通知を受け取ることができなかった。だが「桂木ケン」の名が戸籍に記載されたのは一〇日前のことなのだ。

山下は憲一の抗議に動じる風もなく、「これはドウセキなんです」と奇妙なことをいった。

「ドウセキ?」

「氏(うじ)が異なる相手を戸籍に入れるのが入籍で、その手続きにあたっては、行政が職権で行なう前に本人に催告するよう定められています。それに対して氏が同じ場合が同籍で、本来ひとつであるべき戸籍がなんらかの理由でふたつに分かれているだけですから、これをいっしょにするときは戸籍筆頭者への催告は不要なんです」

「どういうことかよくわからないんですが」

「桂木ケンさんは、二年前の十月に岐阜県で日本国籍を取得しています。このとき、戸籍上の父親である桂木憲一さんの長男として戸籍がつくられ、本籍はケンさんの居所である岐阜県美濃加茂市になっています。しかしこの戸籍は本来、憲一さんの戸籍と同じものですから、申し立てによって同籍の手続きをとることができるんです」

「そうすると、本人がそこにやって来た、ということですか」

「はい」と、山下はいった。

――なぜそのことを最初にいわないんだ、と怒鳴りそうになったが、憲一はやっとのことで怒りを押さえ込んだ。どんな抗議にも、無味乾燥な法律論が返ってくるだけなのだ。

「なにかいってませんでしたか?」

「だれが、です?」

山下のわざとらしい訊き方に、ふたたび怒りがこみ上げた。「桂木ケンという人物です」いやなものを吐き出すように、憲一はいった。

「さあ、とくに記憶はありませんが」

「どんな感じでした?」

「どんな、といわれても……」しばらく考えて、山下はこたえた。「ふつうの青年でした」

思わず受話器を叩きつけそうになったが、憲一にはもうひとつ山下に訊かなければならないことがあった。

憲一の戸籍には、妻が二人と、母親が異なる子どもが二人、記載されていた。重婚であっても、戸籍上は里美も妻と見なされることは説明された。では、マリの立場はどうなるのか?

山下は最初、憲一がなにを心配しているのかわからなかったらしい。憲一がもういちど繰り返すと「ああ、そういうご質問ですか」と、この男には場違いな陽気な声を出した。

「ロペス・マリアさんも里美さんも、どちらの婚姻関係も戸籍に記載されていますから、前婚、後婚にかかわらず、長男のケンさんも長女の茉莉愛さんも憲一さんの嫡出子ということになります。嫡出子である以上、もちろん相続の権利もありますから、この件で娘さんの法的な立場になんの影響もありません」

それから、こう付け加えた。

「強いていえば、前婚のロペス・マリアさんから重婚の申し立てがあった場合、後婚の里美さんが戸籍から削除されることくらいでしょうか」

受話器を置くと、憲一は大きなため息をついた。

憲一が市役所に電話しているあいだ、里美には席を外してくれるよう頼んだ。リビングのドアの向こうでは、その里美が聞き耳を立てているはずだった。

文藝春秋刊『ダブルマリッジThe Double Marriage』 禁・無断転載

文庫版『バカが多いのには理由がある』発売のお知らせ

『バカが多いのには理由がある』が文庫になりました。出版社の許可を得て、「文庫版あとがき」をアップします。最近の「日本的雇用を変えよう」という大合唱について書いています。

************************************************************************

文庫化にあたって久しぶりにむかしの原稿を読み返してみて、「日本は変わってないなあ」というのが正直な感想です。

たとえば日本人の働き方。この原稿を書いている時点で、大手広告代理店に入社してわずか8カ月の女性社員がクリスマスの晩に投身自殺したことが大きな社会問題になり、長時間労働やサービス残業などの悪習が批判され、安倍首相は「「同一労働同一賃金を実現し、非正規という言葉をこの国から一掃する」と宣言しました。

でもこんなことは、すべてこの本に書いてあります。これは私に先見の明があると自慢しているわけではありません。日本的雇用がグローバルスタンダードからかけ離れた歪(いびつ)な制度で、それが日本の「風土病」ともいわれるうつ病や自殺の原因になっていることは1990年代から指摘されていました。日本社会は20年間も、バカのひとつ覚えのように同じことをつづけてきたのです。この国のエスタブリッシュメント(支配階級)である“超一流企業”が、未来のある優秀な若者を自殺するまで追い詰めるというグロテスクな悲劇は、ある意味必然だったのです。

しかしそれでも、希望がないわけではありません。

私はずっと「正社員/非正規社員は身分差別だ」といいつづけてきましたが、“良心的な”知識人から当然のごとく無視されてきました。保守派であるか、リベラル派であるかを問わず、彼らは「日本的雇用を守れ」と大合唱していたからです。

このひとたちによると、終身雇用・年功序列の雇用制度こそが日本人を幸福にしているのであり、雇用改革は日本社会を破壊する「ネオリベ(新自由主義者)」「グローバリスト」「アメリカ」「ウォール街」「ユダヤ人」の陰謀なのです。――そして不思議なことに、すでに1980年代から日本の会社で異常な数の過労死が起きていることには見向きもしませんでした。

しかし、「サラリーマンは会社に忠誠を誓って幸福に暮らしている」というのがたんなる神話であることは、いまでは明らかです。最近でも、従業員の会社への忠誠心を示す「従業員エンゲイジメント」指数が日本は先進国中もっとも低く、サラリーマンの3人に1人が「会社に反感を持っている」とか、日本人は「世界でもっとも自分の働く会社を信用していない」などの調査結果が続々と出てきています。

日本とアメリカの労働者を比較した大規模な意識調査では、90年代前半ですら、「いまの仕事は、入社時の希望と比較して合格点をつけますか」の質問に対して、合格点は米33.6%に対し日本はわずか5.2%にすぎません。否定にいたっては米の14.0%に対し、日本は62.5%にものぼります。常識に反して、サラリーマンはむかしから会社が大嫌いだったのです(小池和男『日本の産業社会の「神話」』日本経済新聞社)。

なぜこんなことになるかというと、日本的雇用では労働市場の流動性が極端に低いため、新卒で入った会社で40年以上も働きつづけることが“強制”されるからです(これにもっとも近い状況は長期の懲役刑でしょう)。自分の職業適性を正しく把握している大学生などほとんどいませんから、たまたま入った会社が「適職」である確率は宝くじに当たるようなものです。そう考えれば、会社に満足しているサラリーマンがいることの方が不思議です。

さらに困惑するのは、格差社会を「ネオリベの陰謀」だとして、非正規社員やニートの権利を守るために運動しているひとたちが、大企業の労働組合(もちろん正社員の既得権を守るための組織です)といっしょになって「日本的雇用は素晴らしい」と合唱していたことです。これでは奴隷制時代の黒人が、自分たちを差別する白人の農場主といっしょになって、「奴隷制度を守れ」と運動するようなものです。私にはこのひとたちの頭のなかがどうなっているのか想像もつきませんが、それはきっと私が“バカ”だからなのでしょう。

ところがこの数年で、ブラック企業が蔓延し、一流企業が「追い出し部屋」で中高年の社員をリストラしている実態が暴かれ、ILO(国際労働機関)など国際社会が日本的雇用を差別制度だと疑っていることがわかって、ようやくこのひとたちが黙りはじめました。そればかりか、いまでは「日本企業はけしからん」と叫んだりしています。まあ、“希望”といってもこの程度のものですが。

「日本的雇用は素晴らしい」と力説していたひとたちだけが間違っていたわけではありません。安倍政権の登場までは、「中央銀行がお金を供給すればインフレになって景気も回復する」として、日銀をデフレの元凶として批判し、リフレ政策に懐疑的な学者に罵詈雑言を浴びせるひとたちが跋扈(ばっこ)していました。しかし実際に彼らの主張のとおり日銀がやってみても、何年たってもまったく物価は上がりません。壮大な社会実験によって誰が正しいかははっきしましたが、“リフレ派”のひとたちが過ちを認めて謝罪した、などという話は聞いたことがありません。

しかしこれは、ぜんぜん不思議なことではありません。進化心理学の知見によれば、意識の役割は自己欺瞞と自己正当化だからです。それによると、そもそもひとは自分の過ちを認めないばかりか、自分が間違っていることすら気づかないように「(進化によって)設計」されています。そして話をよりややこしくするのは、知能が高いひとほど巧妙に自分を騙す能力を持っていることです。間違いを指摘されると、それを逆恨みし、なにかの陰謀のせいだと奇怪な理屈をひねりだすのはこれが理由です。

このことから、なぜ“バカ”が無限に増殖しているように見えるかがわかります。バカ=ファスト思考は人間の本性で、論理的・合理的なスロー思考にはもともと大きな制約が課せられています。そして日ごろ立派なことをいっているひとほど、自己欺瞞の罠から逃れられなくなってしまうのです。

しかしそれでも、絶望する必要はありません。私を含め、ひとはみんな“バカ”ですが、それでも日本社会はそこそこうまくやっているからです。シリアやイラクの惨状を見ればわかるように下を見れば切りがありませんが、稀代のポピュリストであるドナルド・トランプを大統領にしたアメリカや、移民排斥の右翼政党が政治の主導権を握りつつあるヨーロッパを例に挙げるまでもなく、見上げればすぐそこに天井があります。世界を見回せば、「日本人でよかった」というのが正直な感想ではないでしょうか。

その日本は、過労死するほど長時間労働しているのに労働生産性は先進国で最低で、ゆたかさの指標である1人あたりGDPではアジアのなかでもシンガポール、香港、マカオの後塵を拝し、いまや隣国の韓国にも抜かれそうです。男女平等ランキングは世界111位と「共産党独裁」の中国よりも下で、国連の「世界幸福度報告書」でも157カ国中53位と低迷しています。

しかしそれも、「日本的雇用」「日本的家庭」「日本的人生」の前近代的な価値観を変えようという努力によって、すこしずつ改善していくでしょう。――すくなくとも20年たって、ようやく問題の所在に気づいたのですから。

2016年12月 橘 玲

集英社文庫『バカが多いのには理由がある』禁・無断転載

『ダブルマリッジThe Double Marriage』戸籍に記載された2人の妻

新刊『ダブルマリッジThe Double Marriage』で、戸籍の婚姻欄にロペス・マリアというフィリピン人女性の名が記載されていることを知った桂木憲一は、戸籍を管理する市役所に事情を聞きにいき、市民課戸籍係の山下という課長補佐から説明を受けます。戸籍制度の完備した日本でなぜ重婚が起きるのか、第1章「見知らぬ名前」からその部分をアップします。

***********************************************************************

翌朝、憲一がT市役所に着いたのは午前八時過ぎだった。開庁時間の八時半まで待って市民課に行き、戸籍について不審な点があると話すと、しばらくして分厚い法律書を小脇に抱えた四十代とおぼしきやせた男が現われた。「課長補佐の山下です」と挨拶し、廊下の端にある小さな部屋に憲一を案内する。窓はなく、机にパイプ椅子が三脚置いてあるだけだ。

「お問い合わせの件を調べてみたんですが……」山下はテーブルの上に憲一の戸籍謄本を置いた。「このロペス・マリアさんという方にお心当たりはないんですか?」

「まったくありません。なぜこんなことになったのか、当惑するばかりです」憲一はこたえた。

「平成二年だから一九九〇年ですか、その十二月二十五日にロペスさんと婚姻されたことになっていますが……」山下が戸籍謄本の婚姻欄を指差した。

「そんな女性は知らないんだから、結婚なんかしてるわけないでしょ」

「そうですか」山下はちょっとかなしそうな顔をした。「ロペスさんからは、桂木さんとの婚姻を証明する書類が提出されているんですけど」

「書類?」

「ええ。フィリピン政府が発行した婚姻証明書です。そこにはKENICHI KATSURAGIという男性の名前とサインが添えられています……」

しばらく絶句したあと、憲一は怒気を含んだ声でいった。

「そんな大昔の外国の書類が日本で通用するわけないでしょう。だいたい二十年以上もたってるんですよ」

「国際私法というのをご存知ですか?」憲一が落ち着くのを待って、山下は抱えてきた分厚い法律書をめくった。「以前は『法令』、現在は『法の適用に関する通則法』といって、日本と外国にまたがる民事上の手続きを定めているんですが、その第二四条第二項に、「婚姻の方式は、婚姻挙行地の法による」と記載されています。日本人がマニラで結婚式をあげたとすると、婚姻の挙行地はフィリピンになりますから、フィリピン政府が発行した正式な証明書で日本でも婚姻の事実が認められるんです」

山下の話を聞きながら、憲一は額に汗がにじむを感じていた。

「婚姻が平成二年ですからたしかに二五年過ぎていますが、戸籍法第四六条に「届出期間が経過した後の届出であつても、市町村長は、これを受理しなければならない」とありますから、婚姻届は、その事実があればいつでも提出できるんです。今回の件では、桂木さんが届出を怠っているとして、ロペスさんから戸籍を修正するよう申立があったということです」山下はもういちど戸籍謄本を確認した。「届出日が平成二十二年十月になってますから、五、六年前ですね」

「もしそうだとしても、本人になんの断りもなく勝手に戸籍を書き換えるなんてあんまりじゃないですか」最初のショックが収まると、山下の小役人然とした態度に腹が立ってきた。

「平成二十二年の夏ごろに催告通知をお送りしているはずなんですが、お受け取りになっていませんか」

「平成二十二年……」憲一は西暦に換算した。「二〇一〇年なら、ちょうど海外にいましたが」

二〇〇九年から三年間、ロンドンに赴任することになったのだが、マリが中高一貫校に合格したため、憲一が単身赴任して、里美の目黒の実家からマリを学校に通わせることにした。その間、いまの家は定期借家で賃貸に出していたのだ。

「海外転出届は出されましたか?」

「ええ。ただ赴任先の住居が決まらなかったので、住所欄には国名と都市名だけを記載したと記憶していますが」

「ああ、それで催告通知が送れなかったんですね」なるほど、というように山下はうなずいた。

「“送れなかった”じゃないでしょう。こっちはそのせいで、ものすごく迷惑してるんですよ」しょせん他人事(ひとごと)という無責任な態度に、憲一はますます怒りがこみ上げてきた。「ちょっと調べれば、私が海外にいることや、妻の実家の連絡先だってわかったはずです」

「こういういいかたはお気にさわるかもしれませんが……」憲一の怒りに気おされたのか、山下は心底申し訳なさそうな顔をした。「戸籍法四一条に「外国に在る日本人が、その国の方式に従つて、届出事件に関する証書を作らせたときは、三箇月以内にその国に駐在する日本の大使、公使又は領事にその証書の謄本を提出しなければならない」とありますから、届出をするのは義務なんです。その義務を怠っておられるから、私どもから、ご自身で届出されるよう催告通知をお送りするんですが、これはなんというか、たんなる親切というかおせっかいで、行政上は通知できなくてもかまわないんです。いずれにせよ、お返事がない場合は職権で処理するわけですから」

「職権? 本人の同意がなくても、ですか」憲一は思わず声を張り上げた。「その婚姻証明が本物だと、どうしてわかるんですか?」

「もちろん私どもでは、英文の書類が真正なものかどうかは確認できません」山下はさらに、申し訳ない顔をした。「そこでご本人に連絡がとれないと、申請書類を県の法務局に差し戻すことになるんです。そこで書類を精査したうえで間違いがないとなると、市役所に戸籍を修正するよう指示があります。桂木さんの場合も決定は法務局の戸籍課で行なわれていますから、婚姻の事実が存在しないと主張されるのであれば法務局に行っていただかないと……。ロペスさんから提出された婚姻証明書もそこで保管しているはずです」

憲一は呆然とした顔で肩を落とした。山下の繰り出す法律論を正確に理解することはできなかったが、これ以上反論しても意味がないことは明らかだった。役所は規則にのっとって事務的に手続きしただけで、その保身の論理は完璧なのだ。

「いったいなんでこんなことに……」思わずそう漏らした。

「それはなんとも、私どもではわかりかねます」そう突き放す山下の言葉には、しかし同情がこもっていた。

「この戸籍だと、妻が二人いることになるんですが、それはどうなるんですか?」憲一はその態度に促されるように、訊いた。

「どうなる、というと?」山下は、質問の意味がわからないようだった。

「これだと重婚じゃないですか」

そう問い直されて、山下はようやく得心した表情になった。

「刑法には重婚罪がありますが、民法では「配偶者のある者は、重ねて婚姻をすることができない」として、当事者がその取消しを請求できると定めているだけですから、請求がなければそのままです」

「そのまま?」こんどは憲一が驚いて訊き返す番だった。「国が重婚を認めている、ということですか」

「そうではなくて、法律上、当事者からの請求がないかぎり、行政が重婚を解消する手続きは定められていない、ということです」

「そうすると、このままでもべつにかまわないんですか?」

「かまわない、といわれると語弊がありますが……」山下は困った顔をした。「行政として、桂木さんになにかをせよ、ということはありません」

迷宮のような法律論に憲一は混乱したままだったが、行政罰が科されるような事態でないことだけは理解できた。

「こういうケースはほかにもあるんでしょうか?」と訊いてみた。

「ええ、二、三年に一件は」山下はひとのよさそうな笑みを浮かべた。「でも、催告通知を送っても現われるひとはいません。私が知るかぎりでは、話を聞きにここに来たのは桂木さんがはじめてです。どのようなご事情かは存じ上げませんが、それだけでも桂木さんは立派だと思います」

文藝春秋刊『ダブルマリッジThe Double Marriage』 禁・無断転載