きれいごとがうさんくさいのには理由がある 週刊プレイボーイ連載(273)

次の2つの質問に「まったく反対」「やや反対」「やや賛成」「まったく賛成」のいずれかで答えてください。

  1. ほとんどの女性はほんとうに頭がよいとはいえない。
  2. ほとんどの女性は外で仕事をするよりも家で子どもの世話をするほうが向いている。

どちらも明らかに女性差別的な主張ですから、良識あるひとは躊躇なく「まったく反対」とこたえるでしょう。

では、次の2つの意見はどうでしょうか。

  1. なかにはほんとうに頭がよいとはいえない女性もいる。
  2. なかには外で仕事をするよりも家で子どもの世話をするほうが向いている女性もいる。

こんどは良識あるひとでも判断に迷うのではないでしょうか。「まったく反対」としてしまうと、「すべての女性は頭がよく、家で子どもの世話をするには向いていない」ということになってしまうからです。いくらなんでもこれはおかしいので、「やや反対」「やや賛成」などを選ぶことになるでしょう。

じつはこれは心理学の実験で、アンケートの目的は、被験者を「女性差別に明確に反対する」か、「差別的かもしれない主張に中立的な立場をとる」かに誘導することでした。そのうえで被験者は、建設や金融など男性上位とされる企業の人事担当者になって、男女数名の採用候補者の適性を判断します。

ひとには意見や主張を一貫させたいという傾向がありますから、研究者は、アンケートで「女性差別に反対」と誘導された被験者は女性の採用候補者に寛大になると予想しました。ところが実際には、女性差別に明確に反対した彼らは、中立的な回答をした被験者よりも男性の求職者を優遇したのです。

なぜこんなことになってしまうのでしょうか。

心理学ではこれを、「悪のライセンス」で説明します。善悪の問題について私たちは「道徳の小遣い帳」のようなものを持っていて、差別的な主張に反対すると道徳の「収支」がプラスになって、その後に差別的な(マイナスの)判断をしても許されると思ってしまうのです。逆に「自分はすこし差別的かもしれない」と思ったひとは、道徳の帳尻をゼロに戻すために、差別されているマイノリティ(少数派)に寛大になります。

この「悪のライセンス」は性差別や人種差別だけでなく、あらゆる場面で観察できます。

自分が以前に気前よく寄附したことを思い出したひとたちは、そうでないひとに比べて、寄附する金額が6割も低くなります。さらには、被験者にホームレス支援施設で子どもたちに勉強を教えるボランティアをやってみたいかと尋ねただけで、参加申込をしたわけでもないにもかかわらず、被験者は自分へのごほうびとしてなにか買い物したくなりました。

よいことをしたからではなく、よいことをした「気」になっただけで道徳の小遣い帳は「黒字」になり、「赤字」すなわち不道徳な行為を許容するようになってしまいます。そして困ったことに、道徳的であるはずの自分がじつは差別的であることに本人はまったく気づかないのです。

いつもきれいごとばかりいっているひとがうさんくさく見える理由は、じつはここから説明できるかもしれません。

参考:Benoît Monin, Dale T. Miller「Moral Credentials and the Expression of Prejudice」

『週刊プレイボーイ』2016年1月16日発売号
禁・無断転載

『ダブルマリッジThe Double Marriage』事件のはじまり

新刊『ダブルマリッジThe Double Marriage』から、第1章「見知らぬ名前」の冒頭部分をアップします。ここから事件が始まります。

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「なに、それ?」

電話口で、母の里美が素っ頓狂な声をあげた。

「そんなのわかんないよ」

マリは片手に書類を持って、口をとがらせた。

「窓口のひとに訊いたんだけど、“この記載事項で間違いありません”だって。あとは“ご本人でなければおこたえできません”って、それだけ」

平日午後の北関東のT市役所は閑散としていて、市民課には引越しの住民登録や年金・健康保険の手続きに来たひとが何人か、呼び出されるのを待っているだけだった。そんな田舎臭い雰囲気のなかで、マリは明らかに異物だった。

大胆に肩を開けたワインレッドのカットソー、すらりと伸びた足を強調したミニのショートパンツとヒールの高いパンプス、ケイト・スペードのショルダーバッグ。ファッション雑誌のグラビアから抜け出してきたようだ。

電話を切ると、マリはLINEで、ドクロの額に「最低」と書かれたスタンプをモデル仲間のグループに送った。さっそくサキから、「なに?」という質問のスタンプ。「チョー最悪。あとで」と書いているうちに、ケイコから「時間厳守。遅刻はなしね」の確認が送られてきた。ケイコは大学の先輩で、ファッション雑誌の編集者に気に入られて読者モデルのとりまとめを任されている。「了解です!」と返信して、マリは小さくため息をついた。

「ぜんぶパパのせいじゃん。いったいどうなってるの?」

父・憲一のパスポートの有効期限が切れていることがわかって大騒ぎになったのは昨日のことだった。急な海外出張が決まったのに、パスポートの更新を忘れていたのだ。

調べてみると、今日じゅうにパスポート申請すれば、出発までになんとか間に合いそうだ。しかしパスポートの期限が切れていると、運転免許証のほかに戸籍謄本が必要で、本籍地の役所まで取りにいかなくてはならない。戸籍謄本もパスポートも委任状があれば代理申請できることがわかったが、里美はマリの高校時代のママ友と「大切な会合」があるとかで、「ヒマなんだからあんたがやりなさいよ」と押しつけられたのだ。

マリは、「戸籍全部事項証明書」と書かれた書類をあらためて眺めた。

最初に本籍地と父・桂木憲一の名が書かれている。生年月日は昭和四十一年五月七日。先週の土曜日が五十歳の誕生日で、マリは奮発してバーバリーのレザーベルトをプレゼントした。ちょっと苦手な埼玉のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんの名前があって、その次が婚姻欄でママの旧姓の高峯里美、生年月日は昭和四十二年十一月十六日、婚姻日は平成七年十一月四日。それから大好きな目黒のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんの名前が来て、その下に大嫌いな「長女・茉莉愛(まりあ)」の名前。マリが生まれたのは平成八年九月三十日だ。

でも不思議なことに、そこにはもうひとり見知らぬ人物の名前があった。

婚姻の欄に、「高峯里美」と並んで「ロペス・マリア」。婚姻日は平成二年十二月二十五日で、フィリピン国籍の注記。「なんなんだろう、これ?」

マリは戸籍を写メで撮ると、母の里美にメールで送った。

文藝春秋刊『ダブルマリッジThe Double Marriage』 禁・無断転載

小説『ダブルマリッジ The Double Marriage』発売のお知らせ

文藝春秋より小説『ダブルマリッジ The Double Marriage』が発売されます。

発売日は24日(月)ですが、都内の大手書店では明日から店頭に並ぶ予定です。

Amazonでも予約が始まりました。電子書籍も同日発売で予約可能です。

「ダブルマリッジ」は文字どおり「重婚」のことです。日本ではもちろん重婚は違法で、戸籍制度では複数の配偶者を持つことはありえないはずですが、実際には「合法的」に複数の妻が戸籍に記載されることがあり得るし、そのようなことが現実に起きています。これは架空の物語ですが、戸籍に関する記述はすべて事実に基づいています。

帯のコピーです↓

「知らぬ間に、妻とは別の女が戸籍に入っていた!

なぜ重婚が認められているのか? これは戸籍の乗っ取りか?」

戸籍に2人の妻と、母親の異なる2人の子どもが記載されたことで、エリートサラリーマンの幸福な家庭が崩壊していきます。なぜこんなことが起きるのかは、徐々に明らかになっていきます。

今回の舞台は、日本(東京、名古屋、福島)とフィリピンです。主人公の女子大生マリと、父親の憲一がフィリピンを訪れますが、その場面をPHOTOツアーで追体験できるようにしました(スマホにも対応しています)。

「ダブルマリッジ」PHOTOツアー

小説の世界をお楽しみください。

橘 玲