裁量労働制の議論が「日本人はバカだ」に行きつく理由 週刊プレイボーイ連載(338)

厚生労働省が、裁量労働制についての調査データに異常値が含まれていたとして約2割の事業所のデータを削除するそうです。全国の労働基準監督署が一般労働者と裁量労働で働く労働者の残業時間を調べたもので、これに基づいて安倍首相が、裁量労働制を導入したほうが残業時間が短くなると答弁したことが問題になりました。

厚労省は資料を開示せずに都合のいい結論を導いており、「誤ったデータに基づいて政策を決めるのはけしからん」との野党の批判はもっともです。こんな醜態をさらすことになったのは、調査や分析をすべて省内で行ない、労働経済学者など外部の専門家を排除しているからでしょう。その結果、「素人仕事」が見破られて立ち往生してしまったのです。

とはいえ、野党のいうように、いったん法案を取り下げて正しいデータを集計し直せばいいというわけではありません。裁量労働制の残業時間が一般労働者より長かったとしても、統計学的には「裁量労働制にすると残業時間が増える」とはいえません。因果関係が逆で、「長時間労働が必要な事業者が裁量労働制を導入している」かもしれないからです(新聞やテレビが裁量労働制なのはこれが理由です)。

どちらが正しいかを知るためには、全国からランダムに事業者を選び、半数を裁量労働制にして残業時間がどのように変わるかを調べる必要があります。これがランダム化対照実験で、現在では、これ以外は恣意的な解釈が可能で政策決定の役には立たないとされています。

ランダム化対照実験で裁量労働制と残業時間の関係がわかったとしても、それで結論が出るわけではありません。裁量労働制によって収入が増えたり、時間を自由に使えるようになった労働者の満足度が上がるかもしれないからです。正しい政策にはこうした要素も考慮に入れなければなりません。

しかし、これで話が終わるわけではありません。裁量労働制に適した仕事とそうでない仕事があるかもしれず、どんな働き方が向いているかを知るには職種ごとのランダム化対照実験が必要になります。年功序列・終身雇用の日本的雇用と、欧米のように同一賃金・同一労働が徹底され、不況時には金銭解雇が一般的なジョブ型の働き方で、裁量労働制の効果が異なることもじゅうぶん考えられるでしょう。

このように「働き方」の議論はものすごく複雑ですが、日本では「長時間労働=悪」「短時間労働=善」という単純な善悪二元論でしか論じられません。サラリーマンの本音は「残業代が減ると家計が苦しくなる」でしょうが、その分は「副業の自由化」で補えということのようです。

これまで何度か指摘しましたが、日本の労働者は長時間労働に苦しむ一方で、先進国でもっとも労働生産性が低く、アメリカの労働者の7割程度しか稼げません。この事実を説明しようとすれば、「日本人はバカだ」というか、「働き方がまちがっているか」のいずれかしかありません。

こうして「働き方改革」が急務になったのですが、それを主導する厚労省のあまりに稚拙な仕事と国会での低レベルの議論をみると、残念ながらもうひとつの説明のほうが正しいような気もしてきます。

『週刊プレイボーイ』2018年5月28日発売号 禁・無断転載

子どもがいるひとは、いないひとより3.6倍もその決断を後悔している 週刊プレイボーイ連載(337)

数年前、グーグル検索で「夫」と入力すると「死んでほしい」という候補が最初に現われることが話題になりました。その後、夫への恨みつらみをえんえんと書きつらねる「だんなDEATH NOTE」なるサイトが登場し、結婚生活に不満(というか憎悪)をもつ妻が世の中にあふれていることが明らかになりました。検索頻度の高い言葉を自動表示するオートコンプリート機能はひとびとの本音を示していたのです。

だとしたら、検索を調べることで社会の深層に隠されているものが見えてくるのではないでしょうか。じつは、匿名化されたビッグデータを使ってそれを調べている研究者がアメリカにいます。

データ・サイエンティストのセス・スティーヴンズ=ダヴィドウィッツ『誰もが嘘をついている』(光文社)によると、英語で「……したいことは正常?」と検索したときのトップ表示は「人を殺したいと思うことは」で、「……を殺したいことは正常?」のトップは「家族を」です。幸いなことに(?)「DEATH NOTE」は日本だけの特殊な現象ではないようです。

それ以外でも、検索データは興味深い事実をいろいろ教えてくれます。

アメリカでは、奴隷制度の負の遺産によっていまも南部で人種差別が行なわれているとされています。しかしビッグデータは、人種差別的なジョークを検索するひとが南部よりも東部に多いことを明らかにしました。しかもそれは、大統領選でトランプが「予想外の勝利」を収めた地区と重なっています。アメリカは南北ではなく東西で分断されているのです。

都市のエリートビジネスマンはストレスに苦しみ、田舎暮らしはのんびりしていると思われています。ところが、「不安 助けて」などと検索しているひとは農村人口比率が高い地域に住み、教育程度が低く、収入の中央値が低いことがわかりました。

「彼氏・彼女と共通の友人をもつことは関係が長つづきしないことの強力な予兆になる」とのデータもあります。パートナーとうまくやっていくなら、少人数の同じ仲間とつるむのではなく、それぞれが別の社交集団をもつほうがよいようです。

子どもをもてなかったことを後悔するひとがいますが、子どもがいるひとは、いないひとより3.6倍もその決断を後悔しています。「私の夫は浮気しているか?」よりも、「私の夫はゲイか?」と検索するひとがたくさんいます。セックスをしてくれないパートナーへの文句は「会話に応じてくれない」という文句より16倍も多く、彼女がセックスに応じてくれないという文句より、彼氏が応じてくれないという文句の方が2倍も多いこともわかりました。アメリカでも男性のセックスレスは深刻なようです。

その一方で、元気が出るメッセージもあります。

受験や就職に失敗して絶望するひともいるでしょうが、有名校にわずかの差で落ちたひとと合格したひとのその後の人生を大規模比較したところ、高校受験でうまくいかなかった生徒も一流大学に進学し、大学受験に失敗しても同じような一流企業に就職していることがわかりました。

1点差で合格・不合格が決まるのは運で、能力にちがいがあるわけではありません。ビッグデータは、不運は人生に決定的な影響を及ぼすわけではなく、失敗は取り返せることを教えてくれるのです。

『週刊プレイボーイ』2018年5月21日発売号 禁・無断転載

第76回 教育無償化、お金の配り方に注意(橘玲の世界は損得勘定)

「教育を無償化すればみんなが幸福になる」という通説の背後には、「教育は無条件によきもの」という信念がある。私はこれを疑わしいと思っているが、それは本題ではない。

自由経済で格差が生じるのは当然と考えるひとも、「貧しさのために教育機会を得られないのは正義に反する」との意見には同意するだろう。一流大学に入学する学生のほとんどが裕福な家庭出身なのは、欧米でも日本でも変わらない。貧しい家庭の所得を増やせば、教育を介して子どもはゆたかさを手にし、社会も好影響を受けるのだ。

だが、この主張はどこまで正しいのだろうか。

複雑な人種問題を抱えるアメリカでは、黒人貧困層に福祉の重点が置かれたため、白人保守派から「逆差別」との批判を受けることになった。これに反論するには、所得支援の効果を証拠(エビデンス)によって証明しなければならなない。

母子家庭の世帯所得を増やすには、行政からの生活保護、父親(別れた夫)からの養育費、母親が働いて得た所得などが考えられる。所得の増加が教育効果に直結するなら、生活保護と養育費は同等で、労働所得はもっとも効果が低いはずだ。母親が働けば、子どもの世話をする時間がそれだけ減るのだから。

だが実際には、成績や学習態度(中退率)でみて教育効果が高いのは養育費で、次いで労働所得、生活保護の順になっている。同じ不労所得なのに生活保護の効果がきわだって低いのは、母親の(ひいては子どもの)自尊心を低下させるからのようだ。

日本では「子どもがいじめられる」との理由で多くの母子家庭が生活保護の受給を躊躇しているが、「税金」を受け取ることへの蔑視はアメリカも同じらしい。それに対して養育費は、正当な権利として周囲にも堂々といえるので、子どもへの教育効果も高いのだ。

子どもが10代のときに年収が増えた家庭と、ずっと貧しくて、子どもが成人してから年収が同じだけ増えた家庭の比較も行なわれた。所得と教育効果の関係が一方的なら、事後的に所得が増えてもなんの効果もないはずだが、実際には両者に大きな差はなかった。これは、教育効果をもたらすのは所得そのものではなく、所得を増やすなんらかの要因(母親の能力や勤勉さなど)がかかわっていることを示唆している。

それ以外でも、増えた所得を親がなにに使うのか(子どもの教育投資より食費や家の修繕、車の買い替えなどに充てられた)や、子育て支援の充実した州は、そうでない州よりも教育効果が高いのか(あまり変わらなかった)なども調べられている。

誤解のないようにいっておくと、これは貧しい家庭への金銭支援が無意味だということではない。アメリカの研究が示すのは、漫然とお金と配るだけでは思ったような効果は得られそうにないということだ。

だったらどうすればいいのか。じつは日本には、それを議論するための基礎的なデータすらない。こんな状態で、教育無償化の議論は行なわれているのだ。

参考:Susan E. Mayer (1998)”What Money Can’t Buy Family Income and Children’s Life Chances” Harvard University Press

橘玲の世界は損得勘定 Vol.75『日経ヴェリタス』2018年5月12日号掲載
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