訪問看護・介護はいったい誰が担うのだろうか 週刊プレイボーイ連載(510)

すこし前のコラムで、人類史上未曾有の超高齢社会になった日本では、今後、社会から孤立した中高年による「下級国民のテロリズム」が散発的に発生するだろうと書きましたが、その直後に、埼玉県ふじみの市で、訪問医療の医師が猟銃で射殺されるという衝撃的な事件が起きました。

加害者は66歳の無職の男で、生活保護を受けながら自宅で90歳を超える母親を介護していました。「母親を先に診ろ」と病院の待合室で騒いだり、長文の抗議文を送りつけるなど、地元の医療関係者のあいだでは「モンスター介護者」として有名だったといいます。

トラブルの原因は、自宅で母親に胃ろうをつくる要求を医師から断わられたことで、弔問に訪れた医師らに、母親の遺体に蘇生措置を行なうよう強要したというのですから尋常ではありません。医師らも揉め事に備えて男7人で訪問しましたが、まさか銃を所持しているとは思わなかったのでしょう。

医療関係者のあいだでは、無理な延命を要求するのはたいてい親の年金で暮らしている家族だとされ、「年金大黒柱」と呼ばれています。親が死んでも届け出さずに年金を受給しつづけるのが「年金ミイラ」で、ときどき事件になります。この加害者は生活保護を受けていたため、母親が死んでもすぐに生活に困るわけではありませんが、精神的にも経済的にも母親に依存していたことは間違いないでしょう。

こうした「モンスター」に共通するのは極端な被害者意識で、自分はなにひとつ悪くなく、他人がすべて悪いという「他責性」です。認知的不協和理論でいうなら、自分の置かれた状況があまりに絶望的なので、もはやそれを合理的に説明できなくなり、個人的な「陰謀論」によって不協和を解消しようとするのです。女性の場合、絶望は内に向かい、うつ病や自殺未遂につながりますが、男性は怒りが特定の相手に向かいやすく、時には無差別殺人を引き起こすという性差も確実にあります。

「モンスター」の怒りの標的になると被害は甚大ですが、医師は「応召義務」が医師法で定められており、事実上、患者の診療を断ることができません。大阪北新地の心療内科クリニックの事件が典型ですが、精神医療の現場では医師と患者の関係がこじれることはよくあり、対応に苦慮しているようです。――その結果、患者の求めに応じて大量の向精神薬を処方するようなことが起きます。

より深刻なのは訪問看護・介護の現場で、女性の看護師・介護士が一人で自宅を訪れることも多く、約半数が利用者や家族から、身体的暴力をともなうハラスメントを受けたという調査もあります。とはいえ、警察を呼ぶような事態でなければ、医療機関や介護施設、行政の側からサービスの提供を断わるのは難しいでしょう。

本人が嫌がる業務を強要できないとして、病院や介護施設に大きな選択権を与えればいいという意見もありそうです。しかしそうなると、一部の富裕層や楽な患者・要介護者だけにサービスを提供することになりかねません。この問題には、安直な解決策がないのです。

ひとつだけ確かなのは、報酬が安いばかりか生命の危険まである仕事の担い手が、早晩、いなくなることでしょう。

『週刊プレイボーイ』2022年2月21日発売号 禁・無断転載

日本人はいつまで「マスクと手洗い」でコロナと戦うのか 週刊プレイボーイ連載(509)

日本ではオミクロン株の感染拡大が続いていますが、ひと足早く感染が始まったヨーロッパでは大きく2つの対応がなされています。

ひとつはワクチン接種義務化の流れで、オーストリアでは18歳以上で未接種だと最高3600ユーロ(約46万円)の罰金が科せられ、フランスも16歳以上の未接種者がレストランや映画館、長距離交通などを利用できない「実質義務化」に踏み切りました。イタリアは50歳以上、ギリシアは60歳以上の高齢者の接種を義務化しており、ドイツも全成人への接種義務化を議会で審議しています。

もうひとつはコロナ規制撤廃の流れで、イギリスがマスク着用義務などの規制をほぼ撤廃し、ノルウェー、デンマーク、アイスランドなどの北欧諸国が続きました。オミクロン株は重症化率が低く、集中治療室の逼迫が見られないことなどから、国民の行動を過度に制限する必要はないというのが理由です。これらの国はワクチンの3回目接種率も高く、感染者を含めれば、ほぼ「集団免疫」を獲得したという判断もあるようです。

マクロン仏大統領がワクチン接種の実質義務化をコロナ規制撤廃の条件としたように、この2つは両立可能です。ワクチン接種で感染・重症化するひとが減れば医療は圧迫されず、経済活動に負担をかけずにすみます。

しかしこれは、逆にいうと、ワクチンを接種しない者が一定数いると市民生活が脅かされるということです。「ワクチンを接種しない自由」と「市民社会の自由」が対立し、後者を重視する国民が多数派だからこそ、各地で激しい抗議デモが起きてもマクロンは強気を貫けるのでしょう。

コロナ規制を撤廃したデンマークは、いち早く「コロナパス」のアプリを導入し、ワクチン接種済みか、コロナ検査で陰性であることを提示しないとカフェやレストラン、図書館などを利用できないようにしていました。これが可能になったのは、日本のマイナンバーにあたる「CPR(社会保障)番号」によってあらゆる行政手続きがオンライン管理されているからで、接種履歴や検査結果は自動的に医療ポータルに表示されます。

コロナ禍の所得保障ではイギリスが、従業員の給与を企業が支払日ごとにオンラインで歳入庁に報告する「即時情報(RTI)」システムを活用して、所得が減った個人をリアルタイムで把握、自ら支援要請しなくても給付金請求の案内メールを送っていました。それに対して日本は、マイナンバー制度はあるものの、「コロナパス」もできなければ給付金の支給にもまったく役に立たず、平井卓也前デジタル改革相が「デジタル敗戦」を認める有様です。

これまでリベラルなメディアや知識人は、「ワクチンを打つか打たないかは個人の権利」「個人情報を国家に渡せばファシズムになる」と主張してきました。しかし、このひとたちが憧れる欧州のリベラリズムは、市民社会の自由を守るために個人の権利を制限し、個人情報を国家が管理することで、国民の生命と生活を守る功利主義的な政策を行なっています。

日本人はいつまで、「マスクと手洗い」の自助努力でコロナと戦おうとするのでしょうか。

『週刊プレイボーイ』2022年2月14日発売号 禁・無断転載

「新しい資本主義」が目指すのはグロテスクな世代間差別をなくすこと 週刊プレイボーイ連載(508)

「新しい資本主義」は岸田政権の大看板ですが、施政方針演説やその後の国会質疑でも具体像は語られず、野党からは「ぬかに釘」と批判されています。それでも、DX(デジタル・トランスフォーメーション)や気候変動対策、経済安全保障などと並んで、「格差」に取り組む決意は繰り返し表明されています。

格差というと富裕層と貧困層の二極化の話になりますが、日本の場合、その背景には正規/非正規の「身分差別」、親会社/子会社の「所属による差別」、海外の日本企業で行なわれている本社採用/現地採用の「国籍差別」などのさまざまな「差別」があります。

日本の知識人は右も左も、「終身雇用、年功序列の日本的雇用が日本人(男だけ)を幸福にした」として、「グローバル資本主義の雇用破壊を許すな」と大騒ぎしてきました。ところがその実態はというと、彼らの大好きな日本的雇用が、重層的な差別によって「日本人」や「(本社)正社員」など特権層の既得権を守ってきたのです。

このことは一部の経済学者がずっと前から指摘していましたが、「リベラル」を自称する識者たちは、こうした批判に「ネオリベ(新自由主義)」のレッテルを貼って罵詈雑言を浴びせ、封殺してきました。

差別を容認する者は、定義上、「差別主義者」です。最近になってジョブ型雇用(らしきもの)を推進できるようになったのは、日本的雇用の差別性が司法によって次々と指摘され、このままでは「差別主義者」の烙印を捺されてしまうと気づいた(自称)リベラルが黙るようになったからでしょう。

差別をなくすには、それを生み出す日本的雇用を徹底的に「破壊」するしかありません。「あらゆる差別と戦う」と喧伝してきた労働組合、リベラル政党、リベラルなメディアは、(彼らが「差別主義者」でなければ)諸手をあげて「働き方改革」に賛同するでしょうから、これこそが岸田政権が真っ先に取り組むべき課題です。

日本社会のさらなる大きな格差は、高齢者/現役世代の「世代間差別」です。人口推計では、2040年には国民の3分の1が年金受給者(65歳以上)になり、社会保障費の支出は200兆円で、現役世代を5000万人とするならば、その負担は1人年400万円です。

「世代会計」は国民の受益と負担を世代ごとに算出しますが、2003年度の内閣府「経済財政白書」では、年金などの受益と、税・保険料などの負担の差額は、2001年末時点で80歳以上の世代がプラス6499万円、40歳未満がマイナス5223万円で、その差は約1億2000万円とされました。――これがあまりに不都合だったからか、その後、政府による試算は行なわれていません。

人類史上未曾有の超高齢社会が到来したことで、いまの若者たちは「高齢者に押しつぶされてしまう」という恐怖感を抱えています。その結果、政治家がネットで「あなたたちのために政治に何ができますか?」と訊くと、「安心して自殺できるようにしてほしい」と”自殺の権利”を求める声が殺到する国になってしまいました。

未来を担う若者が生き生きと働ける社会を目指すのなら、このグロテスクな世代間差別を是正しなければなりません。これこそが、岸田政権が実現すべき「新しい資本主義」になるでしょう。

『週刊プレイボーイ』2022年2月7日発売号 禁・無断転載