大学教育に意味はあるのか?

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載しています。

前回は「あなたの一票には意味があるのか?」をアップしましたが、今回はリバタリアンの経済学者ブライアン・カプランの『大学なんか行っても意味はない? 教育反対の経済学』(みすず書房)を紹介します。原題は“The Case Against Education; Why the Education System Is a Waste of Time and Money(「教育」を被告人とする訴訟事例 教育システムが時間とカネの無駄である理由)”。(公開は2021年5月20日。一部改変)。

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ブライアン・カプランはプリンストン大学で博士号を取得し、現在はジョージ・メイソン大学経済学部教授というエリートだが、「高等教育はほとんどのひとにとって不要だ」という暴論を唱えている。それも、教育学、心理学、社会学、経済学の山のような研究論文を読み、膨大な(そしてスタンダードな)エビデンスを集め、徹底的に検証したうえで、「問題は教育が足りないことではなく、教育のしすぎにある」との結論に達したという。

学校教育は学生たちに役に立つことをほとんど教えていない

アメリカでも日本でも、あるいは先進国・新興国を問わず、学歴が収入に大きな影響を与えている。日本では大卒・大学院卒の男性の生涯賃金は2億6980万円で、高校卒の2億910万円より30%多い(2018年)。アメリカはもっと極端で、大卒の収入プレミアは70~100%(2倍)とされる。

学歴でなぜこれほどの格差が生じるのか。「そんなの当たり前だ。大学教育によって、より高い賃金にふさわしい知識やスキルを獲得したのだ」というのが教育者の答えだろう。労働市場で評価される能力は「人的資本」と呼ばれるから、これは「教育によって人的資本が大きくなる」という説明だ。――カプランは「人的資本純粋主義」を、「ほぼすべての教育が仕事で役に立つスキルを教え、その仕事のスキルや教育が労働市場で見返りをもたらすほぼ唯一の理由である」という思想だと定義する。

人的資本純粋主義では、「より多くの国民により高い教育を受けさせれば、ひとびとはゆたかになり、社会もその恩恵を受ける」とする。事実、どの国も教育に巨額の公費を投入し、高校・大学進学率は一貫して上昇してきた。

だが、このわかりやすい話にはどこか居心地の悪いところがある。もしこれが正しいとすれば、大学までを義務教育にして無償化すればユートピアが実現するはずだが、どれほど理想主義の教育者でもこれを主張するのは二の足を踏むのではないか。

その理由をカプランは、「学校教育は学生たちに役に立つことをほとんど教えていないから」だという。教師はみんな(いわないだけで)このことを知っているので、「教育にもっと公費を投入すべきだ」と大合唱しながら、教育がどれほど人的資本の形成に役立っているかについては口をつぐんでいるのだ。

アメリカの一流私立大学はどこも教育費がきわめて高い。カプランが学んだプリンストン大学の授業料は年額4万5000ドル(約500万円)を超えるが、じつは誰でも無料で勉強できる。学部の講義なら、正規の学生か否かにかかわらず聴講者を拒む教員はいないからで、これはアメリカの他の一流大学も同様だという。

多くの教育者が主張するように、質の高い教育が大きな人的資本を形成するのなら、賢い若者はハーバードやイェール、プリンストン、スタンフォードなどの「ニセ学生」になって、タダで勉強するはずだ(現在では、超一流の学者・研究者の講義がYouTubeなどで公開されている)。

正規の学生と「ニセ学生」は、まったく同じ授業を受けることができるが、ひとつだけちがいがある。それは、「ニセ学生」では卒業証書をもらえないことだ。

かつて、卒業証書は羊皮紙(シープスキン)に印刷されていた。ここから、卒業することによるボーナスは「シープスキン効果」と呼ばれる。

高校3年(あるいは大学4年)で中退した者と、高校/大学を卒業した者とのあいだにも、生涯賃金に大きな格差がある。シープスキン効果は、重要なのは「教育を受けた年数」ではなく、高校や大学を「卒業」したかどうかであることを示している。

学生はこのことをよく知っているので、高い授業料を払って卒業し、「大卒」の学歴を手にしようとする。一流大学の講義をタダで受講できたとしても、そんなものになんの価値もないのだ(だから大学は、「ニセ学生」対策をする必要がない)。オンライン教育も同様で、学生が人的資本ではなく学歴を渇望している以上、既成の教育システムに置き換わるのは無理だろう。

「教育内容ではなく卒業証書に価値がある」というのは、教育者にあるまじき発言に思えるが、カプランは、じつは大学教授こそがこのことをいちばんよくわかっているという。なぜなら、大学は「学歴主義が世界一多く生息している環境」で、「「相応の」学位のない人間など絶対に雇わない」のだから。

アメリカ人の半分は地球が太陽の周りを回っていることを知らない

高校や大学の授業で、「こんなことを勉強して、将来、なんの役に立つのか」と疑問に思ったひとは多いだろう。これに対してカプランは、「なんの役にも立たない」とひと言でこたえる。

旅行やビジネス、学問の共通語は英語で、アメリカ人はみな英語のネイティブスピーカーであるにもかかわらず、高校では人生でほとんど使うことのないスペイン語やフランス語を何年もかけて勉強させられる。三角関数や微積分の知識を必要とする仕事はほとんどなく、科学や工学関連の職業を志すのは高校生の5%程度にすぎない。

2008~09年に心理学の学士号を取得した大学生は9万4000人いるが、アメリカ国内で心理学者として働いているのは17万4000人だ。コミュニケーション学の学士号を取得した学生は(1年間で)8万3000人以上いるが、記者、特派員、ニュース解説者の仕事の「総数」は5万4000だ。歴史学を修めた学生は(1年間で)3万4000人以上いるが、歴史学者として働いている者はアメリカでで3500人しかいない。

仕事に直結しないとしても、高校や大学で学んだことはその後の人生に活かせるとともに、社会の文化レベルを上げるのではないだろうか。だが事実(ファクト)を見るかぎり、この通説が正しいとはいえない。

アメリカでは「総合的社会調査(GSS/General Social Survey)」で、12の基本的な科学知識について一般人の理解の程度を調べている。

正誤二択の質問にたまたま正答する割合を調整すると、「地球が太陽の周りを回っていることを知っているアメリカの成人は半数そこそこしかいない」「原子が電子より大きいことを知っているのはわずか32%」「抗生物質ではウイルスは死なないことを知っているのは14%だけ」「進化の知識がある人はゼロをわずかに上回るほどしかいない」「ビッグバンを知っている人は実質ゼロを下回る(コイントスで回答した方が正答率が高い)」ことになる。

これ以外の調査も同様で、それらを総合すると、「大半のアメリカ人が基礎的な読み書き計算能力を有しているが、優秀と言えるのは13%にすぎない」。歴史、公民、科学、外国語では、初歩を身につけている人すらほとんどいない。「学校がこれらの科目を教えている」というのは言い過ぎで、「これらの科目について教えている」だけだ。「何年間も授業を受けた結果、アメリカの成人は歴史、公民、科学、外国語というものが存在することは知っている。以上」とカプランはまとめている。

なぜこんなことになってしまうのか。理由のひとつは、脳が使用頻度の低い知識を記憶しておくことが苦手だからのようだ。高校で代数と幾何学を取った人の大半は5年後には学んだ内容の半分を忘れ、25年後にはほぼすべてを忘れている。大半のアメリカの成人が保有している学校で学んだ知識は、(使用頻度の高い)基本的な読み書きと計算以外はないに等しい。「平均的なアメリカ人は他の科目の勉強に何年も費やしているのに、それについてはほぼ何も覚えていない」のだ。

学習した内容を覚えていなくても、教育によって培った考え方(論理的な思考方法)は将来の役に立つのではないだろうか。

先に学習したことが、後に学習することに影響を及ぼすことは「学習転移」と呼ばれ、多くの実験研究が理想的と思われる条件でなされている。そのなかのひとつに、軍事の問題の解決法を学び、それを使って医療の問題を解決できるかという古典的実験がある。その結果はというと、学習したことを他の事例に転用できた被験者は5人に1人しかいなかった。

アリゾナ州立大学の学生を対象に、「日常的な出来事についての推論に、統計の概念と方法論の概念を適用できるか」を調べた研究では、高校と大学で6年以上、実験科学から微積分まで学んできたにもかわらず、学生たちは、新聞や雑誌の記事に書かれている日常的な出来事について「方法論を用いた推論」の真似事すらできなかった。回答の圧倒的多数は0点で、「優れた科学的回答」と認められたのは1%に満たない。「被験者は比較対照群、そして第3の変数の制御が必要であることをまったく無視して、「食生活」の例に「きちんと食べるに越したことはない」のような意見で回答していた」のだ。

もちろん、教育の成果がすべて否定されるわけではない。「大学の授業を受けると批判的思考のテストの得点が高くなる」という勇気づけられる調査結果もある。問題は、「教育は教室の外まで批判的思考の向上を継続させることはできていない」ことだ。

多くの研究が明らかにしたのは、教育によって能力が伸びるのは、学生自身が勉強し修練を積んでいるタスクだけだということだ。これは要するに、「面白いと思ったり、得意だったりする分野は、熱心に勉強するから成績が上がる」ということで、教育の成果というより本人の適性ですっきり説明できるだろう 。

ほとんどの生徒は授業に退屈している

教育者なら誰もが知っていながら、あえて口にしないもうひとつの「不都合な事実」が、「生徒たちの大半は授業に退屈している」だ。

高校生の学校に対する感情を調べた「高校生エンゲージメント調査(The High School Survey of Student Engagement)」によれば、高校生の66%が「毎日」授業で退屈しており、17%は毎日「すべての」授業で退屈している(授業が退屈でないという生徒はわずか2%だった)。内訳を見ると、82%が「授業に関心がない」、41%が「授業内容が自分と関係ない」からとこたえている。

中学生に電子端末を渡し、リアルタイムで彼らの気持ちをとらえようとした調査では、生徒たちは授業時間の36%で退屈を感じ、授業以外の活動時間でも17%で退屈していた。生徒の3人に1人が授業に、ほぼ5人に1人が学校そのものに関心がないのだ。

大学生の退屈に関する研究はすくないが、イギリスの調査では59%が講義の半分以上で退屈していた。だからこそ、25~40%の大学生が授業に出てこないのだろう。

プリンストン感情・時間調査(PATS/Princeton Affect and Time Survey)では、無作為抽出したアメリカ人のサンプルに電話をかけ、前日をどのように過ごし、どう感じたのかを調べている。それによれば、教育(3.55)は仕事(3.83)とともに「不快」な活動の最下位を争い、苦痛で最下位の高齢者介護よりかろうじて上だった。

それにもかかわらず、学生たちはなぜ我慢して学校に通うのか。それは現代社会(知識社会)において、学歴が雇用主に対する強力なシグナリングになるからだ。

クジャクのオスは大きくきらびやかな尾羽をもつが、あまりに重くて飛ぶことも逃げることもできなくなり、捕食者の格好の餌食になってしまう。これでは生存にはなんの役にも立たないばかりか、かえってマイナスだ。

ダーウィンはこの問題に悩んだ末に、これを性淘汰で説明できることに気がついた。なんらかの理由でクジャクのメスがオスの大きな尾羽を好むようになれば、「利己的な遺伝子」をできるだけ多く後世に残すために、オスたちは尾羽を生存の限界まで大きくする熾烈な「軍拡競争」に突入する。このときオスの尾羽は、メスに対して「ぼくとセックスすればよりよい子どもができるよ」というシグナルになる。

同様に知識社会では、学歴は雇用主に対して、「わたしを雇えば得をする(高い生産性で利益をもたらす)よ」というシグナルになっている。雇用主が従業員に求めるのは高い知能と高い協調性・堅実性(真面目さ)だが、学歴はこれを低コストで選別できるようにする。難しい入学試験に受かるのは知能が高いからであり、退屈な授業に耐えて卒業までこぎつけたのは協調性と堅実性が高いからだ。これが中退(入学によって知能は証明できたが、協調性・堅実性は証明できていない)よりも卒業証書が大きな価値をもつ理由だ。

シグナリング・モデルの基本要素は以下の3つだ。

1) いろいろなタイプの人間がいなければならない
2) 個々人のタイプは見た目ではわからない状態でなければならない
3) タイプの間には平均に対して目に見えて違いがなければならない

雇用主にとって採用は、この条件を満たしている。実際に働かせてみればほんとうの実力は明らかになるだろうが、それを短い試用期間で見抜くのは至難の業だし、正社員として雇ってから「使えない」とわかっても、解雇には大きなコストがかかる。だとすれば、学歴による「統計的差別」を利用して、(統計的には優秀な)学生を優先的に採用するのがもっとも合理的なのだ。――「おかしな内容を勉強した見返りとして雇用主が給料を上乗せする」といってもいい。

問題はこれによって、クジャクの尾羽と同様に、「学歴の軍拡競争」が勃発することだ。かつては高卒でも「高学歴」だったのに、いまでは大卒が当たり前になり、ITや金融のような高収入の仕事では修士号や博士号をもっていなければ「高学歴」とは見なされないようになった。

増えつづける大卒者に見合う職がなくなっている

仕事に対して学歴が高すぎるのが、「学歴過剰(overqualified)」だが、労働経済学では、受けた教育に比べて仕事の内容が不十分なことを「不完全就業(malemployed)」と呼ぶ。不完全就業(学歴過剰)は、大きく3つの方法で計測されている。

「非典型教育」法では、受けた教育が就いた職業に対して並外れて高いかどうかを調べ、不完全就業率は10~20%だ。

「自己報告法」では、研究者が労働者に、自分の職業に対して受けた教育が過剰か、不足しているか、十分かを質問する。この方法では、不完全就業率は20~35%になる。

「職務分析法」では、研究者が職業を一つひとつ解剖し、その職業に「本当に要求される」教育程度を判断したうえで、労働者の教育がその要件に対して過剰かどうかを確認する。不完全就業率は20~35%だ。

不完全就業の割合がこれほど高いと、レジ係(大卒者が就いている仕事の上位48位)やウェイター(50位)として働く大卒者の方が機械技師(51位)より多いのも不思議ではない。同様に、警備員(67位)や用務員(72位)として働く大卒者はネットワークシステム/コンピュータシステム・アドミニストレーター(75位)より多く、料理人(94位)やバーテンダー(99位)として働く大卒者は司書(104位)より多い。

それに加えて、アメリカの大卒者の不完全就業率は年々上がってきている(2000年の25.2%から2010年には28.2%に上昇した)。リーマンショック後の世界的な不況では、最若年の大卒者の不完全就業率は40%に迫った。アメリカの高学歴の若者たちは、学歴にふさわしい仕事につけていないという大きな不満を抱えている。これが、バーニー・サンダースを熱烈に支援するラディカル・レフトの運動に結び付いたのだろう。

カプランによれば、不完全就業の背景には「学歴が急ピッチで上がりすぎている」ことがある。学歴の軍拡競争に巻き込まれて、多額の借金(学生ローン)を抱えながらなんとか大卒の学歴を取得しても、それに見合う仕事が足りなくなってしまった。「情報化時代についての常套句とは裏腹に、仕事より労働者の方がはるかに変化が速い」のだ。

とはいうものの、学歴社会では、教育が個人にもたらす利益はあいかわらず大きい(だからこそみんなが夢中になって高い学歴を目指す)。問題は、「教育はパイを大きくできないから、誰かの取り分が大きくなれば、別の誰かの取り分は小さくなる」ことで、経済学ではこれを「シグナリングは負の外部性である」という。

学歴というシグナルは、クジャクの尾羽同様、実用的な価値がない。カプランは、高校・大学教育の80%ちかくはシグナリングだとしている。これほど無駄が多ければ、社会にとっては大打撃だ。

アメリカでは、2008年の生徒1人当たりの民間支出は平均900ドル(約10万円)で、それに対して政府の支出はおよそ1万1000ドル(約120万円)だった。2011年にアメリカ連邦政府、州政府、地方自治体が教育に費やした額は1兆ドル(約110兆円)ちかい。

一部の著名な経済学者は、国民の教育程度が上がると国はゆたかになるどころか少し貧しくなるとしている。これは極論としても、経済学者のあいだでは、「教育に社会的なプラス効果があるとしても、それはスズメの涙ほど」という広範な合意があるようだ。

一番よい教育政策は教育をなくすこと

教育の大半が(無意味な)シグナリングで、若者は退屈な学校に押し込められ貴重な時間を無駄にするばかりか、「学歴の軍拡競争」によって多額の借金まで負わされている。この理不尽な現状を変えるにはどうすればいいのか。カプランの提案はシンプルで、「国家が教育から手を引く」ことだ。

まず、「高校以下で歴史、社会、美術、音楽、外国語を教える必要は、実際のところない」。公立大学も非実用的な学部を閉鎖すべきだ。

こうした「役に立たない」学問を学びたいひともいるだろう。その場合は、政府の助成金やローンを受けられない私立大学に非実用的な専攻の学科を創設すればいい。――日本なら、カルチャーセンターで「一流」の講師に興味のある分野を教えてもらえばいいだろう。

次に、公立大学の授業料を大幅に値上げする。助成金はカットするかローンに変えて、借りた学生には市場金利を請求する。私立大学に税金を投入するのをやめ、大学の運営は学費と民間の慈善活動だけでまかなう。なぜなら、「ふつうの人は大学に行くべきではない。もっと言ってしまえば、今のふつうの大学生は大学に行くべきではない」からだとカプランはいう。

こうした「改革」によって大学に行けない若者が増えるが、教育の80%がシグナリングだとすれば、これは悪いことではない。学費の高騰で「学歴の軍拡競争」が続けられなくなれば、雇用主は学歴以外の(より公正な)方法で応募者を採用せざるを得なくなるだろう。

大学進学者が減れば、高卒の学歴が重視されるようになるかもしれない。しかしその場合でも、全員がひとつ下の学歴になるのだから、1人当たり4年分の教育費用が削減できる。

それと同時に、職業教育を充実させる 高校で無駄に過ごすよりも仕事のスキルを身につけた方がずっといいし、退屈な授業に耐えることを強要するよりも、児童労働を認めて、早めに社会に出してオン・ザ・ジョブ・トレーニングをさせるべきだという。

教育が労働者の質の保証にすぎないなら、みんなが教育程度を下げた方が社会にとってはいいはずだ。とはいえこれは、国家が子どもたちの幸福の実現から手を引くことではない。教育支出を80%削減すれば、大型の児童税額控除か、直接支給の児童手当の資金源にできる。これによって子どもの貧困は劇的に解消されるだろう。

労働市場が高い教育を求めるのは、教育が誰の手にも届くからにほかならない。助成金がなくなれば、手に届かなくなった教育はもはや必要なくなる。「一番よい教育政策は教育をなくすこと」なのだ。

こうした提案はどれも、「教育の理想」を掲げるひとたちにとっては腰が抜けるようなものばかりだろうが、膨大なエビデンスをロジカルに検証すればこうした結論に至るほかないことをカプランは説得力をもって示している。それにもかかわらず多くのひとが「教育神話」にとらわれているのは、個人にとって利益になること(これは間違いない)が、社会にとっても利益になること(こちらは間違い)だと素朴に信じているからだ。

知能の高い教育者は、この誤解を逆手にとって、教育に税金を投入させて懐を肥やしている。この悪弊を止めるには、学校と国家を完全に切り離し、「政府はいかなる種類の教育も税金を使って財政支援するのをやめるべき」なのだ。学歴競争の過熱化は社会正義の追求の本道から外れており、「ディストピア的な未来を恐れるよりも、ディストピア的な現在を見つめるべき」だとカプランはいう。

そのカプランは大学教授として、教育のシグナリング効果から大きな利益を得ている。この提案が実現すれば多くの教育者が職を失うだろうし、カプラン自身もその例外ではないかもしれない。

だが「教育神話」はあまりにも強力なので、一介の経済学者がなにをいったところで「学歴の軍拡競争」が終わるはずはない。だとしたら、知識人としての特権を享受しながら「正しい」ことを主張するのがもっともコストパフォーマンスが高いというのが、この「偏屈」な経済学者の合理的なシニシズムということになる。

禁・無断転載

映画早送りの背景にある、最大のコストは「友だちとの人間関係」 週刊プレイボーイ連載(529) 

映画やドラマを1.5倍速で観る、会話のないシーンはスキップする、観る前にネタバレサイトをチェックする――などの習慣が若者たちのあいだで広まっているそうです。いちばんの理由は「コンテンツが多すぎる」ことで、映画なら1本で2時間、何シーズンにもわたる連続ドラマを「ドカ見」すればまる1日つぶれてしまいます。

近年、娯楽のための「お金の制約」はどんどんなくなっています。プラットフォーマーが収益を最大化するには、ユーザーをできるだけ長くサイトに留めておくことが必要です。その結果、多くのコンテンツが無料か、低額のサブスクで楽しめるようになりました。

とはいえ、それでも「時間の制約」は残ります。誰にとっても1日は24時間で、睡眠時間や食事、仕事・学校などを除くと、自由に使えるのはせいぜい4~5時間でしょう。いまやすべてのコンテンツ産業が、「時間」という稀少な資源(リソース)を奪いあっているのです。

できるだけ少ない費用(コスト)で大きな利益を得ようとするのが「コスパ(コストパフォーマンス)」です。それに対して現代社会では、できるだけ短い時間(タイム)で大きな利益を得る「タイパ(タイムパフォーマンス)」が重要になっています。

ライターの稲田豊史さんは『映画を早送りで観る人たち』(光文社新書)で、この現象の背景には、「(つまらないコンテンツで)時間をムダにしたくない」「失敗したくない」という意識や、「“推し”をつくらなければならない」「なにかに夢中になっていなければならない」というプレッシャーがあると分析しています。

アニメやドラマを“推す”ことは、オタクのような膨大な蓄積がなくてもできますが、それでも(見せ場や結末などの)最低限の知識は必要です。自分の「個性」を手っ取り早く演出するのに、ファスト映画やネタバレサイトと「早送り/スキップ」の組み合わせはものすごく便利なのです。

社会が「リベラル化」するにつれて、作り手が鑑賞の仕方を指定したり、専門家が高みから批評することが嫌われるようになりました。「(作品を)どのように好きになろうが個人の自由」なら、「意味がわからない」のは寛容さが足りないと見なされます。こうして「わかりやすさ」に配慮したナレーションや字幕が増えてくるのですが、それが1.5倍速や倍速での視聴を可能にしています。

しかし、なぜそこまでしなければならないのでしょうか。それは「友だちとの会話についていくため」のようです。音楽、アニメ、ドラマなどには旬があり、「これ面白かったよ」とSNSなどで勧められたコンテンツに素早く反応しないと、場が白けてしまいます。それを避けてノリを合わせるには、早送りしかないというのです。

だとすると、じつは最大のコストは「(友だちとの)人間関係」ではないでしょうか。それを維持するために、ひたすら時間に追われタイパを追及しているのですから。

無駄な人間関係を切り捨ててしまえば、よい映画をゆっくり楽しめるようになるでしょう。もっとも、「友だち関係がすべて」という若い世代に、このアドバイスはなんの役にも立たないかもしれませんが。

『週刊プレイボーイ』2022年7月11日発売号 禁・無断転載

あなたの一票には意味があるのか?

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなってしまったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

参院選が終わったばかりなので、法学者イリヤ・ソミンの『民主主義と政治的無知 小さな政府の方が賢い理由』(信山社)を紹介します(公開は2021年10月21日。一部改変)。

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イリヤ・ソミンは1973年に旧ソ連のサンクトベルクに生まれ、アメリカで高等教育を受け、現在はジョージ・メイソン大学ロースクール教授。政府の権限の最小化を求めるリバタリアン(自由原理主義者)で、本書でも有権者の「政治的無知」によって民主政(デモクラシー)が理想とかけ離れていることが雄弁に語られる。

とはいえ、ソミンの目的は民主政を否定することではない。逆に、「ソヴィエト連邦から合衆国への移民として――共産主義とナチズムの両方の被害者たちを親類に持つ者として――私は独裁政にまさる民主政の長所を痛いほど感じている」として、「民主政の権力がもっと厳しく制限されているならばその機能はよりよくなるという可能性は残っている」と述べる。

原著は2013年刊で、オバマ政権での医療保険制度改革(オバマケア)が政治問題化し、民主党・共和党の分極化が進んでいく時期にあたる。

絶望的なまでの有権者の「政治的無知

「政治的無知」の調査はアメリカで詳細に行なわれていて、それによると、平均的なアメリカ人は大統領が誰かは知っているが、それ以外の知識はきわめて心もとない。

オバマ政権発足後の重要な政治イベントである2010年の中間選挙では、最大の争点は経済だったが、有権者の3分の2は前年に経済が成長したのか縮小したのか知らなかった。しかもその選挙が終わった後、アメリカ人の過半数は、共和党が下院を支配したが上院は支配しなかったことを知らなかった。

こうした政治的無知は枚挙にいとまがないが、「アメリカ人はバカだなあ」と笑っているわけにはいかない。2014年の国際調査では、平均的な日本の回答者は失業率を大幅に過大評価し、殺人件数が減少ではなく増加していると誤解し、移民の割合を実際より5倍も多いと信じていた。さらに、日本人の約3分の2は政府の14の省庁の名前を半分もあげられず、大半は自分の選挙区の国会議員立候補者についてほとんど知識をもっていない。

プラトンは『ゴルギアス』で、「民主政は無知な大衆の意見に基づいていて、哲学者やその他の専門家のよりよい知識に基づく勧告を無視するから欠陥がある」と述べた。アリストテレスはもう少し好意的で、市民が個人としてほとんど知識をもっていないとしても、集団としてはずっとたくさんの知識を得られるという「集団的知性(集合知)」に気づいていた。だがそれにもかかわらず、アリストテレスは、「女性や奴隷や肉体労働者や、その他にも徳と政治的知識を十分なレベルまで得る能力がないと彼がみなした人々を政治への参加から排除すべきだ」と主張した。

自由主義者のジョン・スチュアート・ミルは民主政を擁護したが、それでも無知な有権者の体系的な誤りを是正するため、「よい教育を受けて知識を持っている人々に余分の票を与えることが正当化される」と考えていた。

20世紀になると、政治的無知を理由に、左右両極でプラトン的なエリート主義が復活した。

レーニンは「労働者が自分たち自身で社会主義革命を起こす十分な政治的知識を開発させるとは期待できない」として、「共産主義への移行のためには、労働者自身よりも労働者階級の政治的利益を理解しているメンバーからなる「前衛」政党による強力な指導が必要だ」と論じた。

ヒトラーは、「有権者は愚かでたやすく操作でき、この問題は遠くを見通せる指導者が率いる独裁によってしか解決できない」として、『我が闘争』で「大衆が知識を受け入れる能力はごく限られており、彼らの知性は小さいが、彼らの忘却力は巨大である」と書いた。

だがソミンは、有権者(市民)が政治的に無知なのはバカだからだと主張するのではない。逆に、ひとびとは合理的に選択・行動しているのであり、それによって賢い者も「合理的無知」になるのだという。

もっとも合理的なのは、無知のまま適当に投票すること

アメリカでは1930年代後半にはじめて選挙民の政治的知識の調査が行なわれたが、それ以降、有権者の知識レベルはほとんど向上していない。その間の80数年で教育水準は大幅に上がり、メディアから得られる政治情報が爆発的に増えたにもかかわらず、政治的無知のレベルは相対的に固定したままなのだ。

この事実は、一般に思われているように、教育の不足や正確な情報が提供されないことが政治的無知の理由ではないことを示している。

誰もが気づいているだろうが、国政選挙では1票の価値はほぼゼロに等しい。アメリカ大統領選の場合、自分の1票が当落に影響を及ぼす確率は小さな州では1000万分の1、カリフォルニアのような大きな州では10億分の1で、平均すると6000万分の1とされる。日本は議院内閣制で計算はより複雑だが、自分の1票で当選した候補者の政党が(連立を含めて)政権をとる確率は、せいぜい数百万分の一だろう。

経済学者がいうように人間が経済合理的に行動するのなら、なんの価値もないことにコストをかけるわけがないから、そもそも投票所に行くはずがない。だが実際には、日本の場合1990年までは国政選挙の投票率は7割程度を維持していて、それ以降はかなり下がったものの、それでも有権者の半分は投票に行っている。2020年の米大統領選は66%で、「120年ぶりの高投票率」と報じられた。

このことは、「合理的経済人」という経済学の前提が誤っている例としてよく挙げられるが、ソミンは、有権者の行動は経済学的に説明可能だとする。

民主的な社会では、選挙権を行使することが「市民としての義務」だとされる。社会人になれば(あるいは大学生でも)「選挙に行った?」と訊かれる機会は増える。

もちろん、行ってないのに「行きました」と答えることはできるが、ウソをつくのは気分が悪いだろう。だったら、投票してすっきりしたいと思わないだろうか。

日曜に出かけるついでに近所の投票所に立ち寄るだけなら、じつはコストはそれほど大きくない。同調圧力に対処するためにささやかな負担をするひとが半分いることは、不思議でも何でもない。

だとしたら、真のコストはどこにあるのか。それは、候補者の詳細な情報を入手・検討し、誰に投票するかを決めることだ。

正しい投票のためには、自分がどのような政治を望んでいて、それに対して現状がどれほどかけ離れていて(あるいはうまくいっていて)、各候補者が掲げる政策がどのような影響を与えるのかを知る必要がある。(ほとんど)無意味なことに、こんな面倒なことをするひとがいるだろうか(すくなくとも私はやらない)。

だとしたら有権者にとってもっとも合理的なのは、投票に行かないことではなく、政治的知識を獲得するための努力をほとんど(あるいはまったく)せずに、適当に投票して安心することなのだ。――なぜなら、自分の一票の影響力はほぼゼロだから。

ここからソミンは、「もっと十分な情報を持った有権者になろうという目的で広範な政治的知識を獲得することは、大部分の場合、単純に不合理」だという。

汚染物質をコストゼロで排出できるならば、企業にとっての合理的行動は公害を垂れ流すことだ。経済学ではこれを「負の外部性」というが、政治的無知はこれと同じで、有権者の合理的行動から生まれる「民主的プロセスの一種の「公害(汚染)」」なのだ。

有権者に最低限の政治的知識をもたせることも不可能

有権者が政治的に無知であることは否定できない事実なので、民主政を擁護するためには、それでも正しい(すくなくとも他の政治制度よりもマシな)意思決定ができることを示さなくてはならない。

この問題は多くの知識人が気づいていて、経済学者のヨゼフ・シュンペーターは、「市民は現在公職についている人々の業績を評価して、パフォーマンスが悪い人々や、「よりよいパフォーマンス」を期待できる競争者よりも劣っていそうな人々を投票によって排除することができ(れば十分だ)」と述べた。

これが「回顧的投票(業績評価)」で、有権者がパフォーマンスの低い為政者を見分けることができさえすれば、多数決的な政府の支配が十分達成できるとする。それに対して予想的投票(業績予想)では、有権者はすべての候補者の影響を前もって予測・評価しなければならならない。

回顧的投票のためには、「現在その職にある人のパフォーマンスがよいか悪いかを確定するために、市民たちは自分たち自身の福利の変化さえ計算できれば足りる」とされるが、しかしこれでもハードルはかなり高いとソミンはいう。

回顧的投票をする有権者は、すくなくとも以下の4つの条件をある程度満たしていなければならない。

1)どの問題が政府の政策によって引き起こされているのか、また緩和できるかをある程度理解している。
2)どの公職者がどの争点について責任を負っているのかをある程度知っている。
3)現在の公職者の任期中にそれらの争点に関して何が起きたのかについて、すくなくとも基本的な事実を知っている。
4)現在の公職者の政策がこの状況下で可能な最善のものだったか、それとも野党の提案の方がうまくいったかもしれないかを、すくなくともある程度までは決めることができる。

新型コロナの第五波の感染拡大では、入院できないまま自宅で死亡する例が相次いできびしい批判を浴び、菅首相が再選をあきらめる事態になった。これは(選挙が行なわれたわけではないが)回顧的投票の好例で、ソミンは、大規模な飢餓のような「大きくて目につく災害」については、政治的無知でも責任ある現職者を罰することができるし、これが「民主政が対立する政治システムに勝る大きな長所」だとする。

だがそれ以外の「もっと目につきにくい、もっと複雑な争点」に対しては、回顧的投票の条件を満たすのは容易ではないだろう。

民主政を擁護しようとするそれ以外の理論は、どれも政治的無知の壁を超えることができそうもない。

「バーク的信託」は、保守主義者のエドマンド・バークが主張したように、有権者は「エリート=自然的貴族」を選んで裁量に任せればいいとするが、候補者の経歴や適格性についていくらかのことを知っている必要がある。

「特定の争点に対する民衆の選好の代表」は、原発問題や環境問題など特定の争点で投票を決めればいいとするが、有権者が(1)争点の存在を知っており、(2)争点について立場を持っており、(3)対立する候補者たちの争点に関する立場を知っていることが前提となる。

ユルゲン・ハーバーマスなどが理想とする「熟議民主主義」はさらにハードルが高く、「「不偏不党性」に基づき「能力ある主体間の相互承認」を含む市民の議論」のみによって意思決定が行なわれるべきだとする。これを実行しようとすれば、すべての有権者を拘束して熟議過程への参加を強制しなければならないだろう。

多くの調査が、ひとびとは「非熟慮的な推論形式」を好み、「(認知コストの高い)熟慮を特別に嫌がる」ことを一貫して示している。こうした理想論(机上の空論)についてソミンは、「現代の政府の規模と範囲は、大部分の普通の市民にとって、政府がしていることの多くを意識することさえ事実上不可能なほどであり、ましてそれについて見識を持つなどということは無理な相談だ」と端的に述べている。

投票率は低いほどいい?

多くの有権者が政治的無知のまま義務的に投票しているとしても、政治について熱心に勉強し、真剣に投票するひとたちがいることも間違いない。だとすれば、論理的には「投票率は低い方ほどいい」ことになる。なぜならその分だけ政治的無知(ノイズ)が減って、より精度の高い意思決定ができるはずだからだ。

公共選択の理論では、有権者は政治の「消費者」で、自己の利益を最大化するような選択・行動をするはずだと考える。だがその後、さまざまな研究が、「大部分の人々は狭い自己利益に基づいて自らの政治的見解を選んでいるのではなく、彼らは社会全体の利益だと考えるものに基づいて通常「向社会的」に投票している」ことを示した。

これは希望のもてる話だが、問題はこの「熱心なひとたち」がなんのために政治的知識を獲得しているかだ。

政治について熱く語るひとたちにもっとも近いのはスポーツファンだと、ソミンはいう。自分が応援するチームや選手について詳細な知識をもつファンは、他のチームを含め、スポーツ界全体の(公共)利益について不偏不党の立場で考えているわけではない。むしろそれとは逆に、「俺たちのチーム」を絶対化し、チームと一体化する喜びや、勝敗に一喜一憂する高揚感(エンタテインメント性)を求めているだろう。

同様に「政治ファン」も、自分がひいきする政党や候補者、イデオロギーや利益集団と結びつき、反対者を嘲ることから喜びを得る。彼らはまた、「自分がすでに持っている見解が肯定されることからも、また自分と同じ考え方の人々の集団への所属意識からも」満足を得る。これは社会心理学では「部族(党派)主義」と呼ばれる。

選挙について奇妙なのは、事実として1票の価値がほぼゼロにもかかわらず、有権者の70%以上が自分の投票が「本当に重要だ」と信じていることだ。さらに奇妙なのは、そのわりに投票に必要な政治的知識がほぼないか、大幅に偏っていることだ。

選挙が「部族主義的エンタテインメント」というのはシニカルすぎるように思えるが、この現象をうまく説明する。自分の投票価値を過大評価する程度は、「投票行動へと刺激するのに十分な程度には強いが、十分なだけの政治的情報を獲得するために必要なずっと大きな時間と努力の投資へと刺激するには小さすぎる」のだ。

アメリカでは中絶や銃規制をめぐって民主党・共和党支持者の意見が真っ向から対立しているが、さまざまな調査で、どちらの側も自分の主張にとって有利な情報を積極的に受け入れる一方、不利な情報を無視するという一貫した結果が出ている。「政治ファン≒スポーツファン説」は、このよく知られた現象を説明することもできる。

社会心理学でいう「確証バイアス」は「信じたいものを信じ、見たいものを見る」ことだ。なぜなら、「相手の方によい論拠があるかもしれないと認めると、自分の心理的満足を減少させてしまう」から。こうした偏向は、「心理的満足という目標にとっては合理的だが、彼らの投票の質の向上という目標にとっては非合理的」だとして、経済学者のブライアン・カプランは「合理的非合理性」と呼んだ。

政治的知識をもっとも多く持っている有権者(熱狂的党派主義者)は、政治的無知なひとより強いバイアスがかかっている傾向がある。これが、トランプの熱心な支持者が(世界は闇の政府に支配されているという)ディープ・ステイトの陰謀論にはまっていく理由だろう。

教育も熟議も無駄

ソミンによれば、合理的な有権者は、政治的無知なまま義務的に投票するか、部族的な偏向によって投票するか、いずれかになる(自分の政治的無知を知っている誠実な有権者は棄権するかもしれない)。これは、投票率が上がると政治的無知のノイズが大きくなって意思決定の質が下がり、逆に投票率が下がると部族(党派)主義の影響が強まって極端な結果になりやすいということだ。

さらに不都合なのは、この問題は公教育やメディアの努力によっては改善できないことだ。なぜなら問題の本質は、正しい政治情報が供給されないことではなく、消費者(有権者)がその情報を学び理解するために必要な時間と努力を惜しむこと、すなわち需要側にあるからだ。

この難問に対して、「熟議の日」が提案されている。具体的には、選挙前に「熟議の日」を国民の休日としてもうけ、すべての有権者が500人ずつのグループになって、主要な政党の代表者による主要争点に関する発表を聞き、その後、有権者は質問をして自分たちのあいだで争点を議論する。――熟議の参加者には150ドル≒1万6500円が支払われると同時に、労働者を熟議に参加させない雇用主には重い罰金が科せられる。

提案者たちは、無作為に選んだ有権者が専門家の話を聞き、その後に議論する「ミニ熟議の日」を開催し、多くの参加者がその日討議された争点について、対立した議論を聞いたあとで自分の意見を変えたとする。だがソミンは、「熟議の日」には2つの問題があるという。

ひとつは、現代の国家が社会のほぼすてのセクターを規制しており、膨大な争点を取り扱っていること。参加者の大部分は、「熟議の日」の争点の大部分についてほとんど知識をもたずに参加することになるだろう。

もうひとつは、政権をもつ側が自分たちに有利なテーマやルールを設定できること。現職政治家たちは、自分が落選するかもしれない「公正な熟議」よりも、有権者のバイアス(合理的不合理性)に働きかけて、当選確率を高める機会として利用するのではないか。

それ以外にも、政治的無知に対処する方法として以下のような案が検討されている。

1)選挙権の制限:相対的に高いレベルの教育を受けている有権者だけに選挙権を制限する。あるいは、有権者が投票を許可される前に政治的知識の試験を受けて合格することを要求する。
2)専門家に権力を委ねる:可能な限り民主的過程から断絶された、選挙によらない専門家にもっと大きな政策形成権限を移す。
3)有権者の学習に対して金を払う:政治的試験の合格者に金銭的報酬で報いる。

だがいずれも欠点があり、有効な解決策にはなりそうもない。そこでソミンは、「政治的無知の問題には知識の増大よりも無知の影響力の減少を試みることによって効果的に対処できる」かもしれないとして、「足による投票」を提案している。

足による投票では、有権者は選挙ではなく転居によって意思表示する。連邦制のアメリカでは、リベラルなニューヨークやカリフォルニアに住むか、保守的なテキサスやフロリダで暮らすかを国民が選択できる。選挙よりも転居の方がはるかに大きなコストがかかる以上、ひとびとは地方政府のパフォーマンスをより客観的に評価し、正しい選択をしようとするだろう。

ソミンはリバタリアンらしく、本書を「政府への民主的コントロールは、コントロールされるべき政府が小さくなれば、一層うまく機能するだろう」との言葉で終えている。この提案は興味深いものの、残念ながら日本にそのまま当てはめることはできない(道州制にする必要があるだろう)。

最後に訳語についてひと言。

私はずっと、「デモクラシー(democracy)」は「主義(ism)」ではなく、神政(theocracy)や貴族政(aristocracy)と同じ政治制度のことだから、「民主主義」は誤訳で、「民主政治」「民主政」「民主制」などとすべきだと指摘してきた。

本書の訳者は日本を代表する法哲学者の一人である森村進氏だが、democracyを「民主政」とし、「デモクラシーついての理論」を意味する場合のみ「民主主義」の訳語を使っていて、読んでいてまったくストレスがない(一般の翻訳書では、「民主主義」の訳語が政治制度のことか、イデオロギーのことかいちいち悩まなくてはならない)。

アカデミズムはもちろん、学校教育やメディアも早くこの「誤訳」を訂正すれば、「民主主義」についての政治的無知もすこしは改善されるのではないだろうか。

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