ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。
今回は2013年6月13日公開の「アメリカ社会は人種ではなく“知能”によって 分断されている」です(一部改変)。
なお、この記事で書いたことは2016年の米大統領選でのトランプ勝利で現実のものとなり、その後、アメリカのリベラルな研究者たちが、保守派・右翼とされるチャールズ・マレーの主張が正しかったことを(しぶしぶ)認めました。「絶望死するアメリカの低学歴白人労働者たち」と合わせてお読みください。
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すこし前の話だが、ワシントンのダレス国際空港からメキシコのカンクンに向かった。12月の半ばで、機内はすこし早いクリスマス休暇をビーチリゾートで過ごす家族連れで満席だった。
乗客は約8割が白人で残りの2割はアジア(中国)系、あとは実家に帰ると思しきヒスパニックの家族が数組という感じだった。クリスマスまでまだ1週間以上あるから、彼らは長い休暇をとる経済的な余裕のあるワシントン近郊のひとたちだ。
その富裕層の割合は、アメリカの人種構成とは大きく異なっている。国勢調査によれば、全米の人口のおよそ7割は白人(ヨーロッパ系)で、10%超がアフリカ系(黒人)、6%がヒスパニックでアジア系は5%程度だ。しかし私が乗り合わせた乗客のなかに黒人の姿はなく、メキシコに向かう便にもかかわらずヒスパニックの比率もきわめて低かった。
もちろん私は、たったいちどの体験でアメリカについてなにごとかを語ろうとは思わない。このときの違和感を思い出したのは、チャールズ・マレーの『階級「断絶」社会アメリカ』(橘明美訳、草思社)を読んだからだ。
アメリカの経済格差は知能の格差
著者のマレーが自らが認めているように、本書はアメリカ社会を分析したいくつかの先行研究を組み合わせたコロンブスのタマゴだ。しかしこのタマゴは、見た目がグロテスクで味はほろ苦く、アメリカの知識層に大きな衝撃をもたらした。
アメリカがごく一部の富裕層と大多数の貧困層に分裂しているという話は、耳にタコができるほど聞かされている。では、この本のどこがショッキングだったのだろうか。
マレーは、アメリカの知識人なら誰もが漠然と思っていて、あえて口にしなかった事実を赤裸々に書いた。彼の主張はきわめて単純で、わずか1行に要約できる。
「アメリカの経済格差は知能の格差だ」
マレーはこのスキャンダラスな仮説を実証するために、周到な手続きをとっている。
まず、アメリカにおいてもっともやっかいな人種問題を回避するために、分析の対象を白人に限定した。ヨーロッパ系白人のなかで、大学や大学院を卒業した知識層と、高校を中退した労働者層とで、その後の人生の軌跡がどのように異なるのかを膨大な社会調査のデータから検証した。
そのうえでマレーは、認知能力の優れたひとたち(知識層)とそれ以外のひとたちが別々のコミュニティに暮らしていることを、郵便番号(ZIP)と世帯所得の統計調査から明らかにした。
アメリカ各地に知識層の集まる「スーパーZIP」がある。このスーパーZIPが全米でもっとも集積しているのがワシントン(特別区)で、それ以外ではニューヨーク、サンフランシスコ(シリコンバレー)にスーパーZIPの大きな集積があり、ロサンゼルスやボストンがそれに続く。
ワシントンに知識層が集まるのは、「政治」に特化した特殊な都市だからだ。この街ではビジネスチャンスは、国家機関のスタッフやシンクタンクの研究員、コンサルタントやロビイストなど、きわめて高い知能と学歴を有するひとにしか手に入らない。
ニューヨークは国際金融の、シリコンバレーはICT(情報通信産業)の中心で、(ビジネスの規模はそれより劣るものの)ロサンゼルスはエンタテインメントの、ボストンは教育の中心だ。グローバル化によってアメリカの文化や芸術、技術やビジネスモデルが大きな影響力をもつようになったことで、グローバル化に適応した仕事に従事するひとたち(クリエイティブクラス)の収入が大きく増え、新しいタイプの富裕層が登場したのだ。
マレーは、スーパーZIPに暮らすひとたちを「新上流階級」と呼ぶ。彼らが同じコミュニティに集まる理由はかんたんで、「わたしたちのようなひと」とつき合うほうが楽しいからだ。
新上流階級はマクドナルドのようなファストフード店には近づかず、アルコールはワインかクラフトビールでタバコは吸わない。アメリカでも新聞の購読者は減っているが、新上流階級はニューヨークタイムズ(リベラル派)やウォールストリートジャーナル(保守派)に毎朝目を通し、『ニューヨーカー』や『エコノミスト』、場合によっては『ローリングストーン』などを定期購読している。
また彼らは、基本的にあまりテレビを観ず、人気ランキング上位に入るようなトークラジオ(リスナーと電話でのトークを中心にした番組)も聴かない。休日の昼からカウチに腰をおろしてスポーツ番組を観て過ごすようなことはせず、休暇はラスベガスやディズニーランドではなく、バックパックを背負ってカナダや中米の大自然のなかで過ごす。ここまで一般のアメリカ人と趣味嗜好が異なると、一緒にいても話が合わないのだ。
アメリカでは民主党を支持するリベラル派(青いアメリカ)と、共和党を支持する保守派(赤いアメリカ)の分裂が問題になっている。だが新上流階級は、政治的信条の同じ労働者階級よりも政治的信条の異なる新上流階級と隣同士になることを好む。政治を抜きにするならば、彼らの趣味やライフスタイルはほとんど同じだからだ。
新上流階級の台頭とコミュニティの崩壊
もちろん、アメリカ社会における新上流階級の登場を指摘したのはマレーが最初ではない。
クリントン政権で労働長官を務めたリベラル派の政治学者ロバート・ライシュは、1991年の『ザ・ワーク・オブ・ネーションズ 21世紀資本主義のイメージ 』(中谷巌訳、ダイヤモンド社)で、市場のグローバル化によって労働市場は「ルーティン・プロダクション・サービス(工場労働)」「インパースン・サービス(対人サービス業)」「シンボリック・アナリスト(知識産業)」に分かれていくと指摘した。
だが分裂していくのはワークスタイル(仕事)だけではない。
戦前はもちろん、戦後も1960年代くらいまでは、大富豪も庶民とたいして変わらなかった。金持ちになればハイボールがジムビームではなくジャックダニエルになり、乗っている車がシボレーではなくビュイックやキャデラックに変わったが、日々の生活や余暇の過ごし方は一般のアメリカ人と同じで、ただそれを召使に囲まれて優雅に行なっていただけだった。富裕層は庶民と異なるスタイルを身につけていたが、異なる文化コンテンツをもっていたわけではなかった。
しかし1980年代以降、とりわけ21世紀になって、アメリカ社会に大きな変化が訪れた。
ニューヨークタイムズのコラムニスト、デイビッド・ブルックスは2000年の『アメリカ新上流階級ボボズ ニューリッチたちの優雅な生き方』(セビル楓訳、光文社)で、高学歴の富裕な社会集団を「ボヘミアン(Bohemian)的なブルジョア(Bourgeois)」と定義し、「BOBO」と命名した(この名称自体は定着しなかった)。ここでいうボヘミアンは、「既存の秩序やルールにとらわれず自由な生き方を求めるひとたち」で、作家やアーティスト、同性愛者などを指す。
次いで2002年、社会学者のリチャード・フロリダが『クリエイティブ資本論 新たな経済階級の台頭』( 井口 典訳、ダイヤモンド社)などの一連の著作で、知識社会の中心はクリエイティブな仕事をするひとたち(クリエイティブクラス)であるとして、同性愛者が多く暮らす都市はキリスト教原理主義的な南部の都市よりも際立って経済成長率が高いことを示した。知識層(BOBO)は自由闊達なボヘミアン的文化に引き寄せられるため、同性愛者を差別しない寛容な都市にクリエイティブな才能が集まり、それを目当てにクリエイティブな企業が進出してくるのだ(ニューヨークやサンフランシスコ郊外のシリコンバレーが典型)。
それと同時に、2000年に政治学者のロバート・パットナムが共同体論の記念碑的作品となる『孤独なボウリング 米国コミュニティの崩壊と再生』(柴内康文訳、柏書房)を刊行し大きな反響を呼んだ。アメリカのボウリング人口は増えているものの、かつて隆盛を誇ったボウリングクラブはほとんど消滅してしまった。パットナムは膨大な統計と社会調査を駆使して、ひとびとがコミュニティに所属するよりも自分ひとりで孤独なボウリングをするようになった現実を示した。
パットナムは、アメリカ社会が全体としてコミュニティ文化を失いつつあると論じた。しかしマレーは『階級「断絶」社会アメリカ』で、アメリカ社会を新上流階級と労働者階級に分けたうえで、労働者階級のあいだではたしかにコミュニティが崩壊しているが、新上流階級のなかでは「古きよきアメリカ」の価値観がまだ健在であることを発見したのだ。
これが本書のもっとも大きな意義で、かつ論争の焦点だろう。
格差社会の「強欲な1%」に美徳がある
マレーは、アメリカ社会の建国の美徳として「結婚」「勤勉」「正直」「信仰」の4つを挙げる。これについては異論もあるだろうが、円満な家庭を営み、日々仕事をし、地域のひとたちを信頼し、日曜には教会に通うひとは、孤独な1人暮らしをし、仕事がなく失業中で、犯罪に怯えて誰も信用せず、教会の活動からも足が遠のいているひとよりも幸福である可能性が高いことは間違いないだろう。
そのうえでマレーは、認知能力において上位20%の新上流階級が暮らす「ベルモント」と、下位30%の労働者階級が住む「フィッシュタウン」という架空の町を設定し、いずれの基準でもベルモントにはフィッシュタウンよりも圧倒的に高い割合で「幸福の条件」が揃っていることを示す。
もちろんマレーは、一人ひとりを取り上げて「知能が低いから幸福になれない」などといっているわけではない。彼が指摘するのは、フィッシュタウンでは働く気がなかったり、薬物やアルコールに溺れたり、赤ん坊を置いて遊びに行くような問題行動をとるひとたちが急速に増えているという事実だ。その割合が限界を超えると地域社会は重荷を背負えなくなり、コミュニティは崩壊して町全体が「新下流階級」へと落ちてしまう。
それに対して新上流階級ではこうした問題行動はごく少ない(あるいは排除されてしまう)ため、アレクス・ド・トクヴィルが『アメリカのデモクラシー』で描いたような健全なコミュニティを維持することが可能なのだ。
こうしてマレーは、格差社会における「強欲な1%」と「善良な99%」という構図を完膚なきまでに反転する。アメリカが分断された格差社会なのは事実だが、美徳は“善良”な99%ではなく“強欲”な1%のなかにかろうじて残されているのだ。
このように書いてもイメージできないだろうから、本書に登場する現実のフィッシュタウン(善良な99%)を紹介しよう。ペンシルバニア州フィラデルフィアにある低所得地域で、住民のほとんどは白人だ。
最初は、1980年代半ばに20歳だったジェニーの体験談。ジェニーは7人兄弟の一人で、父親の暴力のため両親は子どもの頃に離婚していた。
「息子を産んだのは20歳のときです。19歳で妊娠して、20歳で生みました。早くに結婚した姉もちょうど妊娠していました。わたしは当時つき合っていた男性と結婚したくて、これで結婚できる、そして姉みたいになれると思ったのですが、うまくいきませんでした。そうしたら妹も妊娠して、姉妹3人がそろって妊婦になってしまって、それ自体は悪いことじゃありませんが、母は驚いてました(後略)」
次は、地元のカトリックの中学校に通う16歳の娘を持つ母親の話。
「この4カ月で娘は6回もベビー・シャワー(妊娠した人のためのパーティー)に招かれました(略)(娘が通っている学校には)52人も妊娠している女子生徒がいるんです。52人ですよ。ひどい話です。しかもそれ以外に、すでに子供を産んだ生徒もいるんですから。(略)誰もがみんなこうだから、もう誰が悪いともいえないし、いったいどうなってしまったんでしょう? なぜこんなにたくさんの子供たちが妊娠するんでしょう? わたしが学校に通っていたころも少しはいましたけど、でも1年にせいぜい4人でした」
マレーはこうした新下流階級の規模を、「生計を立てていない男性」「一人で子供を育てている母親たち」「孤立している人々」という3つの基準から、(控えめに見積もっても)30歳以上50歳未満の全白人の2割に達すると推測している。
マレーは分析の対象を白人に限ることで、アメリカ社会は人種ではなく“知能”によって分断されている事実を示した。
もちろんマレーは本書で、こうした分断社会を無条件に肯定すべきだといっているのではない。ただ、グローバルな知識社会の現実を直視しなければ、いかなるきれいごとの「対策」も無意味だと述べているだけだ。
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