「市場原理主義を徹底してコミュニズムに至る」ラディカルマーケットの設計

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

今回は2021年5月6日公開の「「市場原理主義を徹底するとコミュニズムに至る」 私有財産に定率の税(富のCOST)を課すと効率的な市場が生まれる」です(一部改変)。

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「市場原理主義を徹底するとコミュニズムに至る」などというと、なにを血迷ったことをと思われるだろうが、エリック・A・ポズナーとE・グレン・ワイルは『ラディカル・マーケット 脱・私有財産の世紀』( 安田洋祐、遠藤真美訳、東洋経済新報社)でそう主張している。それもポズナーは著名な法学者、ワイルは未来を嘱望される経済学者だ。原題は“RADICAL MARKET: Uprooting Capitalism and Democracy for a Just Society(公正な社会のために、資本主義と民主政を根底から覆す)”

この大胆(ラディカル)な理論を紹介する前に、著者たちのバックグラウンドについて触れておこう。

エリック・ポズナーは55歳で、シカゴ大学ロースクールの特別功労教授。法や慣習(社会規範)をゲーム理論を用いて分析する「法と経済学」を専門にしている。名前に見覚えがあると思ったら、保守系リバタリアンの法学者で、共和党を支持しながら、ドラッグ合法化や同性婚、中絶の権利を認めるリチャード・ポズナー(連邦巡回区控訴裁判所判事)の息子だった。

リチャード・ポズナーには、『ベッカー教授、ポズナー判事のブログで学ぶ経済学』( 鞍谷雅敏、遠藤幸彦訳、東洋経済新報社)など、経済学者ゲイリー・ベッカーとの多数の共著がある(もともとは2人でブログを書いていた)。ノーベル経済学賞を受賞したベッカーは「20世紀後半でもっとも重要な社会科学者」とされ、ミルトン・フリードマンらとともにシカゴ経済学派(新自由主義経済学)を牽引し、レーガン政権の政策に大きな影響を与えた。

もう一人の著者であるグレン・ワイルは1985年生まれの若干36歳で、プリンストン大学で博士号を取得、ハーバード大学、シカゴ大学での教職を経て、現在はマイクロソフト・リサーチ社の首席研究員だ(マイクロソフトCEOのサティア・ナデラが本書の推薦文を書いている)。イェール大学で「デジタルエコノミーをデザインする」というコースを教えてもいる。

Wikipediaのワイルの人物紹介では、「両親は民主党支持のリベラルだったが、アイン・ランドとミルトン・フリードマンの著作に触れてから市場原理主義(free market principles)に傾倒していく」とされている。

本書の謝辞には、「グレン(・ワイル)にとっては、この非常に大胆なアイデアを追求すれば、研究者としてのキャリアを犠牲にするリスクがあり、出版するのも困難だったのだが、そんな状況の中でゲイリー・ベッカー(略)が強く背中を押してくれた」とある。ベッカーは2014年に世を去っているから、シカゴ大学で最晩年のリバタリアン経済学者の知己を得たのだろう。リチャード・ポズナーの息子エリックとも、ベッカーの縁で知り合ったのかもしれない。

このようなことをわざわざ書いたのは、グレン・ワイルが考案した「ラディカル・マーケット」のデザイン(設計)が、一見、リバタリアニズムの対極にあるからだ。なんといっても、ワイルは私有財産を否定しており、それによって「共同体(コミュニティ)」を再生しようとしている。孫のような若者のそんなラディカルなアイデアを、新自由主義経済学の大御所ベッカーが後押ししたというのはなんとも興味深い。

「真の市場ルール」を阻む「私有財産」という障害

ポズナーとワイルは、現代の先進国が抱える問題は「スタグネクオリティ(stagnequality)」だという。スタグネーションstagnationは「景気停滞」のことで、これにインフレ(inflation)を組み合わせると、経済活動の停滞と物価の持続的上昇が併存する「スタグフレーション(stagflation)」になる。

それに対して景気停滞に「不平等inequality」を組み合わせた造語がstagnequalityで、「経済成長の減速と格差の拡大が同時に進行すること」だ。その結果、アメリカではリベラル(民主党支持)と保守(共和党支持)が2つの部族(党派)に分かれ、互いに憎悪をぶつけあっている。

この混乱を目の当たりにして、近年では右も左も「グローバル資本主義」を諸悪の根源として、資本主義以前の人間らしい共同体(コミューン、コモンズ、共通善)をよみがえらせるべく「共同体主義(コミュニタリアニズム)」を唱えている。

だが著者たちは、こうした「道徳と互酬性、個人的評判による統治(モラル・エコノミー)」は、狩猟採集社会や中世の身分制社会ではそれなりに機能したかもしれないが、現代の巨大化・複雑化した資本主義+自由市場経済では役に立たないという。「取引の範囲が広がり、規模が大きくなると、モラル・エコノミーは崩れてしまう」からで、「大規模な経済を組織するアプローチとして、市場経済に対抗する選択肢はない」のだ。

「脱資本主義」の代わりに提案されるのが「メカニカル・デザイン」で、「オークションを生活に取り込む」よう市場を再設計することだ。なぜならオークションこそが、市場を通した資源配分の機能をもっとも効果的にはたらかせる方法だから。これはオークションをデザインした経済学者ウィリアム・ヴィックリーの思想を現代によみがえらせることでもある。

著者たちは、「真に競争的で、開かれた、自由な市場を創造すれば、劇的に格差を減らすことができて、繁栄を高められるし、社会を分断しているイデオロギーと社会の対立も解消できる」として、これを「市場原理主義」ではなく「市場急進主義」と呼ぶ。真の市場ルールは「自由」「競争」「開放性」で、次のように定義される。

・自由:自由市場では、個人がほしいと思う商品があるとき、その商品の売り手が手放す代償として十分な金額を支払う限り、それを購入することができる。また、個人が仕事をしたり、商品を売り出したりするときには、こうしたサービスが他の市民に生み出す価値どおりの対価を受け取らなければいけない。そのような市場では、他者の自由を侵害しない限りにおいて、あらゆる個人に最大限の自由が与えられる。

・競争:競争市場では、個人は自分が支払う価格や受け取る価格を与えられたものとして受け入れなければいけない。経済学者のいう「市場支配力」を行使して価格を操作することはできない。

・開放性:開かれた市場では、すべての人が、国籍、ジェンダー・アイデンティティ、肌の色、信条に関係なく、市場交換のプロセスに加わることができて、お互いが利益を得る機会を最大化できる。

そんなことは当たり前だと思うだろうが、じつは「真の市場ルール」を阻む重大な障害がある。それが「私有財産」だ。

私的所有権こそが自由な市場取引の基礎だとされているが、「再開発や道路の拡張を阻む頑迷な地権者」を考えれば、いちがいにそうともいえないことがわかる。この地権者は、開発業者が「十分な金額」を払うといっても拒否し、「市場支配力」を行使して適正な取引を妨害し、「お互いが利益を得る」機会をつぶしているのだ。

これはけっして奇矯な主張ではなく、アダム・スミスやジェレミー・ベンサム、ジェーミズ・ミルなどは封建領主の特権と慣習が財産の効率的な利用の障害だと考えていた。「限界革命」を主導した「近代経済学の3人の父」のうち、ウィリアム・スタンレー・ジェヴォンズは「財産とは、独占の別名にすぎない」と述べ、私有財産制を深く疑っていた。レオン・ワルラスも「土地は個人の所有物であると断じることは、土地が社会にとって最も有益な形で使われなくなり、自由競争の恩恵を受けられなくなることだ」と書いている。

ワルラスは、「土地は国家が所有して、その土地が生み出す超過利潤は「社会的配当」として、直接、あるいは公共財の提供を通じた形のいずれかの方法で公共に還元するべきだ」と述べ、これを「総合的社会主義」と呼んだ。マルキシズムとのちがいは、ワルラスが中央計画を「計画者自身が独占的な封建領主になるおそれがある」として敵視し、「土地は競争を通じて社会が管理するようにし、その土地が生み出す収益は社会が享受したい」と考えていたことだ。

「私有財産否定」はマルクス経済学の専売特許ではなく、近代経済学のなかにもその思想は脈々と流れているのだ。

私有財産に定率の税(富のCOST)を課す「COSTの世界」

19世紀の独学の政治経済学者ヘンリー・ジョージは、土地を共同所有するうえで、国有化より「もっと単純で、もっと容易で、もっと穏やかな方法」として、「公共の用途のために地代を租税として徴収すること」を説いた。その税率は「地代の100%」で、これによって所有者は、「土地の上に建てたものの価値はすべて享受できるが、土地そのものの価値については、その全額を政府に払わなければならなくなり、土地を借りた人とまったく同じことになる」。

著者たちが提唱する「共同自己所有申告税COST/common ownership self-assessed tax」は、ジョージのアイデアをより洗練させたもので、私有財産に定率の税(富のCOST)を課す。その税率は7%とされているので、それをもとに「COSTの世界」を想像してみよう。

現代美術でもっとも人気のあるバンクシーは、商業主義を批判しながら、その作品はとてつもない値段で取引されている(2021年3月にクリスティーズに出品された「Game Changer」の落札額は16億7580万ポンド(約25億円)だった)。これについては、「それだけの価値がある」というひとも、「たんなる偽善者」と見なすひともいるだろう。

だがCOSTでは所有物に7%の税がかかるのだから、この作品を落札した美術収集家は、毎年1億7500万円を国庫に納めなくてはならない。逆にいえば、バンクシーの絵を自宅の居間に飾るのに、これだけのコストを払う価値があると思うひとだけが、この値段で落札するのだ。

こうして、「バンクシーの作品に価値があるのか、ないのか」という論争は意味を失う。毎年2億円ちかくを支払うのなら、それだけの価値があるのは間違いないのだ。

これは、私的に所有されるすべての美術品・工芸品にあてはまる。もちろん、そんなCOSTは払えないという所有者はたくさんいるだろうが、その場合は美術館・博物館に寄贈すればいい。

ボルドーやブルゴーニュのワインには1本数百万円するものもある。だがCOSTの世界では、ワインコレクターはその価値の7%を毎年支払わなければならない。この場合、税を逃れるもっともかんたんな方法は、その年度内に飲んでしまうことだ。

この単純な例からわかるように、私的所有物にCOSTが課されると富の概念が変わり、コレクションは意味を失う。あらゆるモノは「保有する価値」ではなく「使用する価値」だけで判断されることになるのだ。

著者たちの構想では、すべての個人と企業が、所有物を一つずつオンラインアプリの台帳に記載し、それぞれの評価額を自分で決めて入力する。だったら、課税を避けるには低い評価額にすればいいと思うだろうが、この巧妙なメカニカル・デザインでは、評価額は市場に公開されており、それを上回る価格を提示する者がいれば所有権は無条件で売り渡される(拒否権はない)。25億円で落札したバンクシーの絵にCOSTを払うのがバカらしいと思って10万円の評価額を入力すれば、たちまち購入希望が殺到し、そのなかでもっとも高額を呈示した者が手に入れるのだ。

逆に、その絵をぜったいに手放したくないと思えば、購入希望者が応じられないような高額の評価にすればいいが、そうなると多額のCOSTを国に納めなくてはならなくなる。このようにして、すべてのモノは自由で開放的な競争市場が評価する最適価格で取引され、もっとも効率的に活用されることになるのだ。

COSTの世界では、都心の真ん中で空き地を駐車場にしておくようなムダなことはできなくなる。その土地の活用にもっとも高い値段をつけた業者が購入し、一定の規制の下で、COSTを上回る利益が出るように開発することになるだろう。

「富の所有」から「使用価値による賃貸」へ

COSTは私有財産制を否定するわけではないが、富の保有にコストがかかることで、その実態は「所有」から「レンタル」へと変わっていく。不動産取引では、ひとびとは所有権を購入するというよりも、所有によっていくらのCOSTを支払うかを基準にするようになるだろう。

これは自由市場を維持したまま、不動産が国家(共同)所有になって、借主が賃料を支払うのと同じだ。そこではどのようなことが起こるのか、あくまでも私の理解だが、ちょっと想像してみよう。

子どもが私立中学校に受かって、学校の近くに住み替えたいとする。パソコンの画面に希望する地区や賃料、間取りなどの基本情報を入力すると、AIがあなたに合ったマンションや一戸建てのリストを抽出して表示する。そのCOSTが月額5万円だとして、あなたが「OK」のボタンをクリックすると、そこに住んでいたひとは無条件でその家をあなたに売り渡して出て行くことになる(実際には1カ月程度の転居期間が必要だろう)。

こうしてあなたは、希望の物件に引っ越すことができた。ここで当然、次のようは疑問が出るだろう。「引っ越してすぐに、他の希望者から購入申請されたらどうなるのか?」だが、そんなことは起こらない。

新しい住居が気に入って、すぐに転居したくないと思えば、AIでそのためのCOST(家の評価額)を算出してもらえばいい。それが月額5万5000円であれば、そのCOSTを支払っているかぎり、同じ条件の検索結果にあなたの家が表示されることはない。こうして、相場よりすこし割高のCOSTを支払うことで、あなたはずっといまのところに住みつづけることができる。

子どもが中学を卒業し、転居してもかまわなくなれば、AIに最安値のCOSTを算出してもらえばいい。これによってCOSTを(たとえば月額5000円)引き下げることができるが、購入希望者がいれば他の物件に転居しなければならない。

このように考えれば、COSTが不動産市場を劇的に効率化させることがわかるだろう。すべてのひとが、予算に応じて、もっとも便利なところに気軽に住み替えることができるのだ。

「富の所有」から「使用価値による賃貸」に変わると、不動産価格は大幅に下がるはずだ。著者たちの試算では、これによって不動産価格は3分の2から3分の1になるという。現在2000万円台のファミリータイプのマンションは700万円程度になり、COST(月額家賃)は4万円、1億円のマンションも3000万円台まで下がり、月額20万円以下のCOSTで住めるようになる。一部の富裕層が使いもしない不動産を買いあさるのではなく、土地は共有され、必要なひとたちに公正に配分されるのだ。

だがこれは、国家による土地の「中央管理」ではない。それとは逆に、管理はラディカルに分散される。COSTは「社会と保有者で所有権を共有すること」であり、「柔軟性の高い使用市場という新しい種類の市場をつくりだして、恒久的な所有権に基づく古い市場に取って代わるものとなる」のだ。

COSTの特徴は、課税されるのがモノであり、「人と人のつながりには課税されない」ことだ。「モノに過剰な愛着を持つことにペナルティが課されると同時に、モノの価格も下がるので、特に低所得層では、いまよりもずっと多様なものを手に入れられるようになる」。

それに加えて、COSTを全面的に導入すれば、社会の富を毎年何兆ドルも増やすことができる。それを国民に分配すると、UBI(ユニバーサル・ベーシック・インカム)に似た制度になる。経済が成長すると、COSTが生み出す歳入が再分配される。他人の繁栄から全員が恩恵を受ける世界では社会的信頼が育まれ、共同体への愛着が生まれ、市民的関与が促されると著者たちはいう。

すなわち、「自由」「競争」「開放性」という市場の機能を徹底することで、新しい「ラディカルなコミュニティ」が誕生するのだ。

「熱心な少数者が無関心な多数者に勝てる」投票方式QV

COSTによる「ラディカル・マーケット」に続く著者たちのアイデアは「ラディカル・デモクラシー」だ。これは「平方根(radical)による投票システム」でもある。

オークションの背後にある思想は、「自分の行動が他人に課すコストに等しい金額を個々人が支払わなければならない」だ。これを投票にあてはめると、「集合的決定が行われる国民投票(あるいは他の種類の選挙)で負けた人にあなたが与えた損害を補償しなければならない。あなたが支払う金額は、あなたの投票によって負けた市民が選好していた別の結果になっていたら、その人たちが獲得していたであろう価値に等しくなる」とされる。

これを実現する方法がQV(Quadratic Voting)で「二次の投票」のことだ。そのルールは「公共財に影響を与える個人が支払うべき金額は、その人が持つ影響力の強さの度合いに比例するのではなく、その2乗に比例するべきだ」で、詳しい説明は本書を読んでもらうとして(それほど難しくはない)、この投票方式は以下の点で1人1票とは異なる。

  1. すべての有権者に一定数のボイスクレジット(投票権)が割り当てられる
  2.  投票する際は、投票数の二乗のボイスクレジットが必要になる
  3. 投票は支持する候補だけでなく、支持しない候補へのマイナス票に使える

あなたが36ボイスクレジットもっているとして、1票=1クレジットなら、36人の候補にプラスあるいはマイナスの投票ができる。これがもっとも投票の「費用対効果(コスパ)」が高い。

だが誰かに(プラスあるいはマイナスの)2票を投じようとすると4クレジット、3票なら9クレジット、6票だと36クレジットが必要になる。特定の候補に6票を投じるときは、36人の候補に1クレジットずつ投票するのに比べて、投票の影響力は6分の1になってしまうのだ。

このQVには、「熱心な少数者が、無関心な多数者に勝てる」という特徴がある。これを夫婦別姓や同性婚で考えてみよう。

世論調査によれば、いずれも国民の大多数が賛成するか、どちらでもいい(あえて反対しない)と思っている。それにもかかわらずなかなか進まないのは、一部の保守政治家が「日本の伝統を破壊するな」と頑強に反対しているからだ。

このとき、夫婦別姓や同性婚を望む「当事者」は少数派(マイノリティ)だが、この政策に大きな利害をもっている。QVであれば、このひとたちは強力なグループを形成して、自分たちの希望を阻む政治家に全員がマイナス6票を投じることができる。

そうなると伝統主義者の保守政治家は、このマイナスを挽回するのに6票を集めなくてはならないが、ほとんどの有権者はこの問題に無関心なので、「イエ制度を守れ」と叫んでも、貴重なボイスクレジットをすべて投じてもらうことは期待できない。マイノリティが「1人=マイナス6票」なのに対し、マジョリティからは「6人×(1人=プラス1票)」を獲得しなければならないのだ。

このようにしてQVは、有権者の「平均的な民意」に反して(特定の団体や主義者のために)極端な主張をする政治家を排除する効果がある。

だがこれは、マイノリティの主張がなんでも通るということではない。

死刑制度については日本でも熱心な廃止運動があるが、国民の多くは死刑存続を求めている。このような場合は、廃止派が存続派の有力政治家に「1人=マイナス6票」を投じても、その政治家は容易に、6人以上の「1人=プラス1票」を集めることができるだろう。

これが「投票数を増やそうとするとコストがかかる」という意味で、マイノリティの極端な主張も抑制され、多数派の有権者の意思に反するような結果にはならない。死刑廃止論者のすべきことは、選挙で気に入らない政治家を落選させることではなく、夫婦別姓や同性婚のように、有権者の大半が「死刑廃止」か「どちらでもいい」と思うように価値観を変えていく努力になるだろう。

著者たちは、2016年の共和党大統領予備選でQVを導入しうたらどうなったかをシミュレーションしている。それによると、極端な政治的見解を排除する効果によって、中道派が大統領選の候補者に選ばれ、トランプは最下位になったはずだという。トランプを拒絶する有権者がマイナス票を集中させる一方で、積極的にトランプを支持する共和党員はそれほど多くなかったからだ。

それにもかかわらず「1人=1票」でトランプが勝ったのは、共和党員の多くが「ヒラリーだけは嫌だ」と思っていたからだ。同様にヒラリー・クリントンは民主党支持者のあいだでも好かれてはいなかったが、「トランプだけは嫌だ」という圧力によって予備選を勝ち上がった。このようにして「嫌われ者同士」で大統領の座を争うことになったのがトランプ大統領誕生につながったのだという。

そのように考えれば、アメリカ社会は党派によって分断されているのではなく(有権者の大半は中道路線を支持している)、極端な候補が勝者になる選挙制度が社会を分断していることになる。

同様に、歴史家は「(1930年代の)ドイツ国民のうち極右を一度でも強く支持した人は10%に過ぎなかった」としている。それにもかかわらずヒトラーが選挙で選ばれたのは、有権者の多くが「共産党だけは嫌だ」と思っていたからだ。ワイマール憲法がQVだったら、ヒトラーが政権を握ることもなく、第二次世界大戦は起きなかったかもしれない。

著者たちは、選挙にQVが導入されると、「地域の共同体で、オンラインのソーシャルネットワークで、国の政府の下で、本当の意味で生活を共有し、協力し合う方向へと進む道が開かれる。豊かな公的生活が形成され、社会的関係が自然に発展していく」と述べる。ここでも、メカニカル・デザインによって「コミュニティ」が生まれるのだ。

ラディカル・マーケットでは資産格差はなくなる

それ以外でも本書では、移民労働力の市場を創造するビザ・オークション(個人間ビザ制度VIP)、機関投資家による支配を解く反トラスト規制、GAFAなどに「労働としてのデータ(個人情報)」の対価を払わせるデジタル労働市場など、さまざまな斬新なアイデアが展開されている。たとえばIT企業がデータの対価をユーザーに支払えば、「4人世帯の所得の中央値は2万ドル(約200万円)以上増える」という。

なかには実際に使われはじめているものもあり、暗号通貨のイーサリアムをベースとした「アカシャ」と呼ばれるSNSが、オンライン上のサービスをQVで評価しているという。ユーザーは自分が保有するボイスクレジットで「二次の投票」をするだけでなく、そのクレジットを使わずに貯めておくこともできる。

著者たちは、将来的には、QVに仮想のクレジットではなく現金を使うことまで構想している。この場合は、(例えば)1票を投じるのは1ドルだが、1000票なら100万ドル(1ドル×1000票×1000)が必要になる。これだと富裕層が政治を支配しそうだが、「公的な問題が私的な問題よりも重要である市民が、ボイスクレジットの限られた予算にしばられることなく、自由に意見を表明できるようになる」のはよいことかもしれない。すくなくとも、コストを支払う気もなく好き勝手なことをいうひとたちは退場していくだろう。

そのうえ投票で支払われたクレジットは、国庫に納められて国民に再分配される。現実の政治では、富裕層は寄付を通じて大きな影響力を行使し、その利益は一部の特権層が独占している。それに比べれば、「豊かな人が貧しい人にお金を払って、政治的な影響力を手に入れる」QVの方がよほど公正かもしれない。

ラディカル・マーケットの下では、すべてのモノが「使用価値」で評価されることになるので、資産による格差はなくなる。それにもかかわらず、わずかなCOSTしか支払えないひとと、多額のCOSTを払って優雅な生活をするひとがいるだろう。なぜなら、個人が生まれもった能力」にはちがいがあるから。COSTが実現する「自由で公正な市場」では、経済格差は「能力格差(メリトクラシー)」のみから生じるのだ。

その格差をなくしたいのなら、「COSTを人的資本に拡張する」ことが考えられるという。だが、大きな才能をもつひとに、才能に応じてCOST(税)を支払わせることができるのか、著者たちも懐疑的なようだ。

メカニカル・デザインでは、「市場は資源を最適に分配する並列処理のコンピュータ」だと考える。あまりにも巨大化・複雑化した現在の市場/社会をモラル(道徳)によって管理することはもはや不可能になっている。だとしたら、「市場というコンピュータ」を最適チューニングして(市場がより多くの富を生み、その富がより公正に分配されるようにして)、最大多数の最大幸福を達成するように「デザイン」するのが唯一の道になる。

著者たちは、「理論上では、市場はシリコンで複製できる」として、本書の最後でAI(アルゴリズム)が人間の欲求を学習する可能性を論じている。そうなれば、社会は「何らかの(ラディカルな)民主的手段や監査可能なアルゴリズム、準分権的な分散コンピューティングに基づいて統治する」未来が到来するかもしれない。これが、メカニカル・デザインによる「自由で公正なユートピア」になるだろう。

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