リベラル化する世界の分断(「生物地理学会市民シンポジウム」講演要旨)

4月13日(土)に予定されている「生物地理学会市民シンポジウム」の講演要旨をアップします。キャンセルが出て残席が若干あるそうなので、ご興味のある方は下記までお問い合わせください。

日時:2019年4月13日(土)13:00~(12:30開場)

場所:東京大学伊藤国際学術研究センター 伊藤謝恩ホール

参加希望の方は、生物地理学会長の森中さん宛てにメールを送ってください。

森中定治 delias@kjd.biglobe.ne.jp

参加費は1000円(資料代 別途500円)、講演後の懇親会にも参加する場合は会費3500円です。

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私たちをとりまく世界は排外主義によって右傾化し、格差の拡大で社会が分断され、ひとびとは互いに憎み合うようになっている……とされているが、これは事実(ファクト)なのだろうか。

1988 ~ 2008 年の 20 年間では、たしかにアメリカでは上位 1% の富裕層の実質所得が大幅に伸びる一方で、中間層の所得はほとんど増えておらず、「1%」と「99%」で格差が拡大している。だが視点をグローバルに拡張すると、中国やインドなど多くの人口を抱える新興国が経済成長を実現し、膨大な数の中間層が誕生した。

その結果、グローバルなジニ係数は 1988 年の 72.2 から 2008 年の 70.5、さらに 2011 年には約 67 まで低下している(完全平等社会なら0、所得を1人が独占する完全不平等社会なら100)。各国間の不平等のギャップが最高点に達したのは 1970 年頃で、1 人あたり GDP ではアメリカ人は中国人の 20 倍もゆたかだったが、2010 年にはこの比率は 4 倍未満に縮まって 1870 年の水準と同じになった。産業革命以降でははじめて、グローバルな不平等は拡大を停止したのだ。

世界が全体としてゆたかになると同時に、ひとびとの価値観はリベラル化していった。

1994 年に南アフリカでアパルトヘイトが廃止されたことで、人種隔離政策を採用する国はなくなった。キリスト教では同性愛は神への冒瀆とされていたが、2001 年 4 月のオランダを皮切りに同性婚を法制化する国が増え、ルクセンブルク首相(ゲイ)やアイスランド首相(レズビアン)など LGBT であることをカミングアウトする政治指導者が珍しくなくなった。厳格なカトリック国だったアイルランドでは憲法に中絶禁止が明記されていたが、2018 年 5 月の国民投票で中絶の合法化が決まった。

それ以外でも子どもへの体罰や狩猟・動物実験など、半世紀前は当然のこととして誰も気に留めなかったことが強く嫌悪され、きびしい批判にさらされている。この巨大なリベラル化の潮流を、進化心理学者のスティーヴン・ピンカーは「権利革命」と名づけた。

私たちを取り巻く世界では、インターネットなどテクノロジーの急速な発達と、新興国を中心とする経済発展を背景に、「知識社会化・グローバル化・リベラル化」が三位一体となって進行する巨大な潮流が起きている。だが残念なことに、すべてのひとがこの大きな変化に適応できるわけではない。「反知性主義・排外主義・右傾化」は、時代から脱落しつつあるひとびとのバックラッシュなのだ。

テクノロジーの性能が指数関数的に向上した結果、AI(人工知能)、ブロックチェーン(ビットコイン)、ゲノム編集(CRISPR-Cas9)など、さまざまな領域でこれまでの常識を覆すブレイクスルーが起き、不妊から高齢者の認知症にいたるまで、あるいはがんなど難病の遺伝子治療など、ひとびとの苦しみの多くが 10 年単位の期間で解決すると期待されている。世界は「全体として」ゆたかになり、ひとびとは「全体として」幸福になっているのだ。

だとしたら、どこにも問題はないのだろうか。もちろんそんなことはない。
アフリカを中心に、ゆたかさから取り残され、1 日 2 ドル未満で暮らさざるを得ない最貧困層がいまだに 20 億人以上もいる。このひとたちはじゅうぶんな栄養を摂ることがでず、劣悪な衛生状態で感染症が蔓延し、病気になってもまともな医療を受けられず、平均寿命は 50 歳をすこし超えた程度でしかない。

最貧国で苦しむひとびとに比べ、先進国に生まれた私たちはものすごく恵まれている。だがそれでも、アメリカではラストベルト(錆びついた地域)に吹きだまる白人のブルーワーカーたちがドラッグ・アルコール・自殺で「絶望死」している。そんな彼らの怒りがトランプという異形の大統領を生み出した原動力であり、ヨーロッパでは排外主義的な極右政党のゆたかな土壌になっている。

それに比べれば日本は政治的に安定しているものの、大卒(正社員)と非大卒(非正規)のあいだで社会が分断され、巨大な貧困層が生まれつつあることが社会学者によって報告されている。

私たちの世界が抱える問題はグローバルな格差と先進国内での格差の二重の拡大で、その背景にはますます高度化する知識社会がある。端的にいうならば、仕事に必要とされる「知能」のハードルが上がった結果、貧困層へと脱落するひとたちが増えているのだ。

とはいえ、貧困を解決するためにお金をばら撒くことは、おうおうにして事態をさらに悪化させる。開発経済学のスターだったジェフリー・サックスは、「いちどの大規模な援助によって貧困は終焉する」という「ビッグプッシュ」を唱えたが、アフリカの貧しい地域にある 10 の村(ミレニアム・ヴィレッジ)で 2006 年から行なわれた実験はすべて無残な失敗に終わった。

人道援助や慈善活動の「業界」は「善意さえあればすべて解決できる」というドグマに支配され、経済学の費用対効果や科学のランダム化対照実験を持ち込むことを徹底して拒絶してきた。こうして莫大な資金がドブに捨てられたあげく、ようやく「あるプロジェクトに資金を投じるのなら、それによってどのような効果があるかを実証的に評価しなければならない」という当たり前のことが(一部で)受け入れられるようになってきた。

高度化する知識社会が引き起こす問題は、知識を否定することではなく、テクノロジーによってしか解決できない。より自由で公正な社会をつくっていこうとすれば、無意識の偏見を無効化できるような社会を設計したり、行動経済学や脳科学の知見を活用してひとびとを合理的な選択に誘導(ナッジ)していくことが必要になるだろう。

私たちが次世代に贈るものがあるとしたら、よりより世界・よりよい未来をすこしずつでも実現していくために、感情に振り回されることなく、証拠(エビデンス)に基づいて政策を評価し実行していく社会のフレーム(枠組み)をつくっていくことではないだろうか。

もちろんこれだけで、中流から脱落していくすべてのひとたちを救えるわけではない。貧困層が社会を維持していくのが困難なほど拡大すれば、世界は否応なく新たなパラダイムに移行していくだろうが、その姿はいまだ見えない。