第5回 善意か、カネ目当ての行為か(橘玲の世界は損得勘定)

道を歩いていて、ふとなにかが気になって、戻って見直したら財布だった。私はいつもぼーっと歩いているので、財布を拾ったのはこれが人生はじめての経験だ。

近くに派出所がなかったので、駅前の交番まで届けにいった。

交番にいたのは気のいいお巡りさんで、すまなさそうに、落し物の届出にはいくつか手続きがあるのだといった。

まず、私の見ている前で財布の中身を確認する。現金はそれほど入っていなかったが、運転免許証と数枚のキャッシュカード、なにかの資格の証明カードがあった。

次に、持ち主が現われなかった場合に所有権を主張するかを訊かれた。この権利は放棄することもできるということなので、その欄にチェックしてサインした。

驚いたのは、その後に、謝礼を受け取りたいかどうかを訊かれたことだ。そんなのは本人の気持ち次第で、警察が関与する必要はないと思ったからだ。

「それが最近、いろいろ大変なんですよ」

お巡りさんが、困ったような顔でいった。

「落とし物を届けたのに礼がない、という苦情が警察にたくさん来るんですよ」

そこで、警察署ではあらかじめ拾ったひとの意向を聞いておくことにした。それによっては、電話などで礼を伝えたことを確認してからでないと、落し物を引き渡さないのだという。

「拾ったひとが謝礼を求めているときは、そのことをくどいほど本人に説明するんですよ。さすがに、謝礼を払った証明書を持って来い、とはいえないですけどね」

お巡りさんはそういって、ため息をついた。

「市場原理主義」が日本社会の美質を壊したと、声高に非難するひとたちがいる。私はこれまで彼らの主張がよく理解できなかったのだが、この話を聞いて、その憤りがなんとなくわかる気がした。謝礼がもらえないと警察に文句をいうのは、病院に行くのにタクシー代が足りないからと救急車を呼ぶのと同じくらい理不尽だ。

でもこれは「市場原理」が悪いのではなく、それが貫徹していないことが問題なのだ。

当たり前の話だけれど、市場取引は「市場」でしか行なわれない。フェアな条件で、売り手と買い手が納得する価格で合意するのが「市場原理」だ。

拾った財布を持ち主に届けるのは、市場取引でもなんでもない。だからホンモノの「市場原理」主義者は、その行為に損得を持ち込むことを断固拒否するだろう。

「“届けてくれた方に謝礼を払ってほしい”とお願いすると、こんどは、『お前なんかにそんなことをいわれる筋合いはない』と怒り出すひとがいるんです。こっちは針のムシロですよ」

私が、謝礼もお礼の電話も必要ないといって席を立つと、世間話の好きなお巡りさんは、ほっとしたような笑顔を見せた。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.5:『日経ヴェリタス』2011年8月7日号掲載
禁・無断転載