国家に母性愛を求めるのは気持ち悪い 週刊プレイボーイ連載(184)

以前のコラムで「自己責任は自由の原理」だと書きました。自己責任論を否定するあまり、「国家には国民の生命を守る義務がある」といいたてると、国家は国民の自由を制限するにちがいない、と述べたのですが、案の定、シリアへの渡航を計画していたフリーカメラマンに対し外務省がパスポートの返納命令を出す事態になりました。

この問題で不思議なのは、日ごろは「報道の自由」という錦の御旗を振りかざすマスメディアが妙に腰が引けていて、「国家権力の弾圧」を半ば容認していることです。

その理由のひとつは、マスメディアの“フリー”に対する蔑視でしょう。大企業の正社員である新聞やテレビの“ジャーナリスト”は、自分たちの権利が侵されるときには大騒ぎしますが、有象無象のフリーランスの「報道の自由」などどうなっても構わないと思っているのかもしれません。「報道」を独占するには、ヘンな人間が横からしゃしゃり出てくるのは邪魔なだけなのです。

もうひとつの理由は、憲法に定められた「言論・出版の自由」の侵害だと外務省を批判すると、「カメラマンがテロリストに拘束されたらどうするのか」という疑問にこたえなければならないからでしょう。いくら本人が「自己責任」だといったとしても、国家はどんなことをしても国民の生命を守らなければならないのですから、日本政府はまたテロリストとのあいだで右往左往しなければなりません。

17世紀の啓蒙思想家ジョン・ロックは、市民社会の基礎は国家と市民とのあいだの社会契約であるとしました。契約である以上、そこに「無条件」はあり得ません。国家というリヴァイアサンに無限の責任を求めれば、国民は国家に対して無限の義務を負うことになるとロックは気づいていました。

戦前の日本人は国家(天皇)に生命を捧げることを求められましたが、敗戦から70年たっても日本人はいまだにその失敗を理解できず、国家に対してマターナル(母性愛的)な庇護と愛情を求めているようです。首相もそれにこたえて、「日本人にはこれから先、指一本触れさせない」と大見得を切ってしまいます。これでは、「国家という母親」の愛情を受け入れない人間が非国民として断罪され、自由に対する配慮が放棄されるのも当然です。

この不毛な議論から抜け出すには、「国家の市民に対する義務は契約の範囲でしか履行されない」と認めることが必要です。シリアで取材することはいかなる国内法にも抵触しないのですから、本人の自由です。万が一テロリストに拘束されても、政府にできることはほとんどないと国民が了解していれば、国家も過剰な期待に振り回されることはなく「報道の自由」も守られるでしょう。

外務省の強硬な措置に対し、「アメリカでは旅券返納の議論はない」との指摘もありましたが、米国政府はテロリストと交渉せず、ジャーナリストは人質になれば見捨てられる(武力による救出以外の選択肢はない)ことを知ったうえで取材に行くのですから、これは当たり前です。

それとも日本のジャーナリズムは、国家の母性愛によって自分たちが守られるのが当然だと思っているのでしょうか――そんな気がしないでもないところが不気味です。

『週刊プレイボーイ』2015年2月23日発売号
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