ベーカムは「愚者の楽園」追記

前回のエントリーで、ベーシックインカム(ベーカム)と同様の試みとして、産業革命勃興期(1795~1834年)にイギリスで実施されたスピーナムランド法を紹介した。1200字のコラムでは細かなことまで説明できないので、すこし追記しておきたい。

市場の拡大とともにイギリス社会がはじめて体験した「貧困」という問題に対処するため、「貧困者一人ひとりの所得に関係なく最低所得を保障する」という制度が導入された。スピーナムランド法は、自由経済のもとで、現金給付によって貧困問題を“最終解決”しようとするとなにが起きるのかの壮大な社会実験だった。

この所得保障制度は厳密にはベーカムとは異なるが、ひとは同じような経済的インセンティヴ(働かなくても食べていける)に対して同じような反応をするとすれば、結果もおそらく似たようなものだろう。「スピーナムランド法は大失敗したが、ベーカムならうまくいく」という説得力のある説明は、(すくなくとも私は)聞いたことがない。

「生存権による貧困の解消」を目指すスピーナムランド法は、当初は緊急措置とされていたが、イギリス全土に広がるにつれて既得権化していった。それがどのような結果を招いたかを詳述したのが、異端の経済学者カール・ポラニーの大著『大転換』だ。ポラニーは、ファシズムやスターリニズムの台頭と第二次世界大戦の惨状を目にして、資本主義(自由経済)は原理的に破綻する運命にあることを証明すべくこの本を書いた。

ポラニーは、自由経済(商品経済)は、労働(人間)、土地(環境)、貨幣という、本来「商品」ではないものを商品として扱う自己矛盾から自壊すると論じた。長らく見捨てられていた彼の仕事がふたたび注目を集めるようになったのは、アジア経済危機(1997年)や世界金融危機(2007年)などのグローバル経済危機を予見していた、とされたからだ。ポラニーはいまや、「市場原理主義」に反対するひとたちの理論的な支柱となっている。

ポラニーの主張の当否は別として、ここで興味深いのは、自由経済の不可能性を論じたポラニーが、“元祖ベーカム”であるスピーナムランド法を全否定していることだ。以下、『大転換』からポラニー自身の論評を抜粋してみよう。

これ(スピーナムランド法)ほど人気のある措置は、これまで存在しなかった。親は子どもの養育から解放され、そして子どもはもはや親に頼らなくなった。雇用主は思うように賃金を減額することができたし、労働者は忙しかろうが暇だろうが飢餓の心配はなかった。人道主義者はこの措置を、公正ではないにしても慈悲深い立法だとして称賛し、利己主義者は、それを慈愛に満ちた措置ではあるが少なくともけっして気前のよいものではないと考えて、進んで自らを慰めていた。成年男子なら、生活を何とか維持できる程度の賃金をもらっていようといまいと一般的に「生存権」ありとするシステムのもとで、いったい税にどのような事態が生ずるのか、救貧税納税者でさえ容易に気づかなかった。

長期的には、結果は恐ろしいものとなった。一般の人々の自尊心が賃金より救貧を好むような低水準にまで落ち込むには、若干の時を要したものの、賃金が公共の基金から助成されることによって結局は底なしに低下することになり、人々は税に頼るよう駆り立てられることになった。しだいに、地方の人々は貧民化した。「乞食は三日やったらやめられない」という金言はまさしく真理であった。給付金制度の長期的影響を抜きにして初期資本主義の人間的・社会的退廃を説明することはできないだろう。

こうしてポラニーは、“貧困のないユートピア”を目指す社会的冒険の本質を「愚者の楽園」と呼ぶ。

みずからの労働によって生計を立てることができないとすれば、彼は労働者ではなく貧民である。労働者を人為的にそうした状態に陥れてしまったことが、スピーナムランド法のもっとも忌まわしい面であった。この法律のあいまいな人道主義は、労働者が一つの階級へと成長していくことを妨げ、それゆえに経済のひき臼の中で定められた破滅の運命から逃れうる唯一の手段を、労働者から奪ってしまったのである。

18世紀末のイギリスにこのような極端な貧困救済策が登場したのは、ひとびとが時代の変化を受け入れられなかったからだ。

産業革命によって工業の生産性は大幅に上昇し、貿易量の増加によって経済は拡大した。だがこうした好ましい変化には、多くの負の影響がともなっていた。

産業革命に先行する農業革命によって農村共同体は解体し、都市部への人口流出によって地方は貧困化した。貿易量の変動によって工場労働者はかんたんに解雇され、「今日の労働者が明日は乞食」というのが当たり前になった。当時、農村にも都市にも「不安」が満ちていた。

ポラニーの指摘するように、貧困問題を解決する最良の方法は、市場の変化に合わせて社会を改革し、連帯する労働者階級を育てていくことだった。だがすべての労働者に、働きの如何にかかわらず最低賃金を保証するスピーナムランド法は、労働者の連帯を逆に破壊し、一人ひとりをばらばらにしてしまったのだ。

当時の為政者も民衆も「変わる」ことに怯え、現状を維持する簡便な方法として救貧税を求めた。この“善意の法”がイギリス社会に与えた影響について、ある女流文学者は次のように書いている。

救貧税は民衆を駄目にしてしまった。……給付金を手に入れるために、乱暴な連中は監督官を脅しつけ、放蕩人は養わねばならない自分の私生児をこれ見よがしに見せつけ、怠け者は給付金をもらうまでじっと待ちつづけた。無知な少年や少女は給付金を当て込んで結婚した。密猟者、こそ泥、売春婦は脅迫して給付金をゆすり取った。地方判事は人気取りのために、救貧委員会はご都合主義から、給付金を惜しげもなくばらまいた。これが救貧資金の行きつく先であった……

農業経営者は、土地の耕作のために自分自身の資金を支払って適正な数の労働者を雇うという真っ当な方法ではなく、その二倍の人数の労働者を雇うよう強いられ、その賃金の一部が救貧税で支払われることになった。農業経営者がやむをえず雇ったこれらの労働者は、働こうが働くまいが好きなようにできたから、その管理は農業経営者の手に負えず、土地は荒れていった。そうした労働者がいるおかげで、農業経営者は自活のために一生懸命に働いたと思われる真面目な働き手を雇えなくなった。やがて真面目な働き手も、最低の人たちの中へと落ち込んでしまった。救貧税を支払っていた小屋住み農も、生活苦との闘いに敗れ、救済を求めて救貧税の支払い窓口に向かったのである……

そしてついに、「どんなものでもスピーナムランド法よりはましであるというのが、広く一般に抱かれた確信」となって、この壮大な社会実験は40年弱で終了したのだ。