【アクセス10位】富裕層とファッションモデル ニューヨークの有名クラブの生態学

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなってしまったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

アクセス10位は2022年2月10日公開の「ニューヨークの有名クラブで日々繰り広げられているアメリカの富裕層とエロス資本との深淵な関係とは?」です(一部改変)。

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私はクラブカルチャーにはなんの知識もないが、そんな人間でもアシュリー・ミアーズの『VIP グローバル・パーティーサーキットの社会学』( 松本裕訳、みすず書房)はとても面白く読んだ。ニューヨークの有名クラブや、映画に出てくるようなアメリカの富裕層のパーティで、いったい何が行なわれているのかようやくわかったからだ。ここではその驚き(の一部)を紹介してみたい。

著者のミアーズはボストン大学の社会学者(准教授)だが、16歳からモデルの仕事を始め、ジョージア大学を経てニューヨーク大学で博士号を取得するまでパートタイムのモデルとして働き、2011年にその体験を“Pricing Beauty: The Making of a Fashion Model(価格表示された美 ファッションモデルをつくる)”という本にまとめた。ミアーズが行なったのは社会学でエスノグラフィーと呼ばれる行動観察調査で、研究者が調査対象と行動を共にし、同じ立場でさまざまな経験を記録する手法だ(フィールドワークの一種で、文化人類学者が先行して行なったので「民族誌調査」とも訳される)。

ミアーズは自分自身がファッションモデルだったので、「美の世界」の観察者としてうってつけだった。自身の体験や多くの取材をもとに、一見、華やかなファッションモデルが低賃金の労働で、モデルの多くがエージェントに借金しているなどの内幕を描き、高い評価を得た。

『VIP』はその続編で、ニューヨークやマイアミなどの有名クラブや、ハンプトンズ(ニューヨーク郊外)、コート・ダジュール(フランス)、イビサ島(スペイン)、サン・バルテルミー島(カリブ)などのリゾートで開かれるパーティ文化のエスノグラフィーだ。こうしたパーティには「girls(女の子たち)」と呼ばれるファッションモデルが集められるため、ミアーズは31歳にもかかわらずなんとか潜入に成功し、この興味深い文化を調査することができた。原題は“Very Important People: Status and Beauty in the Global Party Circuit(VIP グローバル・パーティーサーキットのステイタスと美)”。

ニューヨークのクラブにいる「ガールズ」とは?

イギリスの社会学者のキャサリン・ハキムは、(主に)若い女性はエロティック・キャピタル(エロス資本)ともいうべき大きな資本をもっていると述べた(『エロティック・キャピタル すべてが手に入る自分磨き』田口未和訳、共同通信社)。だが富裕層たちのパーティ文化では、売買春にならないように、金銭とエロス資本の交換は慎重に隠されている。――そのためミアーズは「エロティック・キャピタル」を使わず「美的資本」「身体資本」などとしているが、これはたんなるレトリックのちがいだろう。

パーティ文化の最大の特徴は、富と美の交換から利益が生じているにもかかわらず、関係者が並々ならぬ努力をして、「友だち同士で楽しく遊んでいる」という虚構をつくっていることだ。ミアーズは、(馬鹿馬鹿しいとも思える)その仕組みを見事に解き明かした。

ニューヨークなどのクラブには、DJブースとフロアのほかにVIP用のテーブル席が用意されている。フロアには座る場所がなく、バーカウンターでアルコールを買い、音楽に合わせて立ちっぱなしで踊るしかない。

壁際につくられたテーブル席はフロアから一段高くなっていて、そこにプラスチック製のソファーとテーブルが置かれている。ソファーの背の上側も平らになっていて、そこでも踊れるようになっている。ミアーズによれば、クラブの収益の大半はこのテーブル席から生み出される。

テーブル席を確保するのは「クライアント」と呼ばれる富裕層で、アラブの富豪などもいるが、その多くはウォール街などで働く「ワーキング・リッチ」だ。席料は1000ドル(約10万円)程度だが、彼らは一晩で1万ドルから1万5000ドル(約100万~150万円)を散財する。

それぞれのテーブルには5~10人ほどの「ガールズ(girls)」がつくが、彼女たちはホステスではなく、扱いはクラブの客だ。ガールズを連れてくるのは「イメージプロモーター」と呼ばれる男(わずかだが女もいる)だが、プロモーターは「手配師」ではなくクライアントの「友人」ということになっている。クライアントが直接、プロモーターにお金を払うと風俗業(ポン引き)になってしまうのだ。

では、どうやってプロモーターは収入を得ているのだろうか。それは、クライアントが注文するシャンパンなどのキックバックだ。ニューヨークのクラブでは1本200ドル(約2万円)程度のシャンパンを1000ドル(約10万円)で出している。「ガールズ」の分を含めて10本のシャンパンを入れれば100万円で、プロモーターはその2割(約20万円)を受け取る。これを週4日やれば月収300万円、年収3000万円ほどになる計算で、これが基本的なビジネスモデルだ。

プロモーターとガールズの間にも金銭関係はなく、あくまでも「男友だち」に誘われてクラブに遊びに来たことになっている。ただしプロモーターは女の子たちに高級レストランでディナーをおごり(ディナー代はクラブ持ちだがウェイターなどにチップをはずまなくてはならない)、クラブから自宅までの送迎も必要になる。女の子たちにアパートを提供することもあり、全体ではかなりの出費になるようだ。

「ガールズ」は現金を受け取らない(お金が介在すると「高級コールガール」になってしまう)が、豪華な食事からパーティまですべて無料で楽しめるばかりか、リゾート地への往復の旅費や宿泊費もプロモーター持ちだ。無一文でも「スーパーリッチの夢の世界」を体験できるのだ。

ここからわかるように、ニューヨークのクラブで行なわれていることは、日本なら銀座のクラブやキャバクラ、ホストクラブ、”ギャラ飲み”とほぼ同じだ。ピューリタン文化の名残のあるアメリカでは、風俗の女性と素人を厳密に分ける必要があり、日本ではお金ですませてしまうことにこのような複雑な仕組みをつくったのでないだろうか。

「クライアント」から「ボトルガール」まで、クラブの登場人物たち

クラブでは、「ガール(girl)」と「ウーマン(woman)」の間にはっきりとした境界線がある。「ガール」の第一条件は若さで(16歳から25歳までで、30歳を超えると「ウーマン」になる)、それに加えて背が高くやせていなければならない。身長はヒールなしで最低175センチ以上、ドレスサイズは4(ウエスト63センチ)以下。このような体形の女性はめったにいないから、必然的に「ガールズ」のほとんどがファッションモデルになる。人種のちがいも顕著で、ほとんどが白人で構成され、黒人やヒスパニック、アジア系はグループのごく少数であれば許される。

身長が重要なのはクラブで目立つためだ。「ガールズ」は10センチのハイヒールを履くので、背の高さは185センチを超える。それがテーブル席のソファーや、あるいはソファーの背の上で踊るのだから、派手な照明が明滅するなかでもフロア中の注目の的になる。逆にいうと、背が低かったり、太っていたりするとクライアントに恥をかかせることになってしまうのだ。

「ウーマン」にも序列があって、“good civilian(マシな一般人)”は、モデルほどではないもののそれに匹敵する女の子で、やはり背が高くやせている。ニューヨークの女子大生や広報関係で働いている女性が多く、プロモーターにとってはモデルが手配できないときの「予備」になる。“civilian(一般人)”はそれ以外のすべての女性で、“pedestrians(歩行者)”とも呼ばれ、テーブル席に招かれることはない。

「バウンサー(用心棒)」と呼ばれるクラブの警備員は体格のいい黒人で、誰を入場させ、誰を断るかを決める。クラブが気にするのは男女比で、できるだけフロアの女性比率を高くしたい(その方が見栄えがいい)。女同士なら入れるが、男だけのグループは門前払いだ。有名なクラブに行こうと思ったら、何人かの女友だちを連れて行かなくてはならない。

たとえ「歩行者」であっても、フロアが若者たち(理想的な男女比率は1:2)で埋まっていないとクラブは盛り上がらない。(ガールズを調達する)イメージプロモーターとはちがい、「マスプロモーター」はお洒落な女の子たち(一般人)をフロアに送り込む業者で、バーでドリンクを注文する彼女たちは「充填材(フィラー)」と呼ばれる。

それでもフロアが埋まらないと、やむなく「見た目がふさわしくない」客を入店させなければならない。ニューヨークのクラブでは、彼ら/彼女たちは「橋とトンネル」と呼ばれる。クイーンズやスタテン島のような野暮ったい地域から、橋かトンネルを使ってマンハッタン島までやってくるからだ。

クラブの従業員の最底辺は、空のボトルやグラスを運ぶ下っ端のウェイターで、大半が身長の低いヒスパニックだ。テーブル席にシャンパンを運ぶのが「ボトルガール」で、背が高く、露出度の高いドレスを着て、比較的多様な人種で構成されている。ボトルガールは、運んでいるボトルと同様に「購入可能」とされている。

テーブル席からボトルを注文するのが「ボトルクライアント」だが、そこにも序列があり、ひと晩で数千万円の散財をする者が“whale(クジラ)”だ。クラブはなんとかして「クジラ」を呼びたいが、彼らは最高の「ガールズ」がいるところにしか興味がない。「ガールズ」の質がクラブの売上に直結し、イメージプロモーターはクラブのためにモデルを集めることで、シャンパン代のキックバックを受け取る。この関係は「モデルとボトル」と呼ばれる。

プロモーターには質の高い「ガールズ」を安定して「供給」することが求められ、その成果で序列が決まる。「友人」のスーパーリッチが主催するパーティに「ガールズ」を「派遣」するのも彼らの役割だ。ニューヨークのクラブカルチャーの登場人物は、おおよそこのような配置になっている。

クライアントにとって「ガールズ」は「女性の形をした家具」

スーパーリッチはなぜ「ガールズ」を必要とするのか。それは1世紀前の経済学者ソースティン・ヴェブレンが唱えた「顕示的消費」で説明できる。クラブのフロアで一般人(歩行者)と同列に扱われるのは、彼らにとって屈辱以外のなにものでもない。フロアの注目と羨望を一身に浴びるためには、DJブースに近いテーブル席を確保し、見上げるような「ガールズ」を躍らせて思い切り目立たなくてはならないのだ。

クラブもスーパーリッチの虚栄心を満足させる演出を心得ている。屈強なバウンサー(用心棒)がスパークラー(電子花火)で飾られたシャンパンのバケットを頭上高く掲げてフロアを横切り、その後ろに、やはりスパークラー付きのボトルを掲げたボトルガールたちが続く。

どこかのテーブルがシャンパンを注文すると、それに対抗して別のテーブルのクライアントがより豪勢な注文をする。こうしてシャンパンのボトルはどんどん大きくなり、ついには6リットル瓶が4万ドル(約400万円)で提供されるようになった。

クライアントにとって、「ガールズ」は装飾品あるいは「女性の形をした家具」にすぎない。性的な関係になることはあるが、大音響のクラブでは話もできないので、恋愛関係はもちろん個人的なつき合いをすることもない。

ミアーズは、クライアントの依頼でプロモーターが高級レストランに「ガールズ」を連れて行ったときのことを書いている。最高級の料理は出されたものの、クライアントたちは「ガールズ」に話しかけようともせず、ずっと内輪のビジネスの話をしていて、なんとも気まずい会食になった。

これも、クライアントが「ガールズ」を装飾品と見なしているとすれば理解できる。男だけのグループで高級レストランに行けば、女性連れの客よりも格下になってしまう。モデルを何人も引き連れていれば、店内の視線のすべてが自分たちに集まるだろう。それが目的なので、女の子一人ひとりの個性や人間性はどうでもいいのだ。

ミアーズが話を聞いたクライアントの一人(23歳のヘッジファンドのアソシエイト)はこういった。

「あそこにいる女の子のほとんどは、尻軽女かバカな売女だと思ってるよ……話をしてみたらわかるさ、あの子たちはとにかくからっぽなんだ。[ほかに]説明する言葉は見つからないよ。ただからっぽなのさ……一発ヤルくらいはするけど、つきあったりはしないね。だって、飯に連れて行っても、スシがなんなのか知らないんだぜ。「うわあ、これ何? 食べたことない!」なんてさ。無理無理、耐えられないよ」

これは偏見で、未成年で学歴のないモデルもたくさんいる一方で、大学で法律やビジネス、国際関係論などを学んでいる「ガールズ」もいたとミアーズはいう。だがそうだとしても、彼女たちはなぜ、自ら進んでこのような「性差別的」な関係を受け入れるのだろうか。

その理由を端的にいえば、「金持ち男性の欲望の対象になるよう誘われるのは、信じられないほど魅惑的なものがある」からだ。ポルシェでの送り迎え、高級レストランでのワインと食事、スーパーリッチの豪邸でのパーティ、有名なイベントでセレブに会うこと……、いずれも「通常、社会・経済的権力から排除されている女性が自力では手に入れられないもの」ばかりだ。

「ガールズ」は大きなエロティック・キャピタルを持ってはいるものの、モデルとしては底辺で(一流モデルはこんなことはしない)、だからこそ、ほかの女性がアクセスできない世界に自分だけは入れてもらえるという優越感を求めるのだろう。

プロモーターの夢と現実

プロモーターになるのはどのような男だろうか。ミアーズによると、黒人やヒスパニックのプロモーターも一定数いるし、貧しい家庭で育った移民からヨーロッパの上流階級出身者まで経歴もさまざまだ。共通するのは、ハイヒールをはいた「ガールズ」よりも背が高く、引き締まった身体をしたハンサムで、「白人の女にモテる」ことだ。女友だちを連れてクラブで遊んでいたら、オーナーから、「キックバックを払うからプロモーターにならないか」と誘われたというのがこの世界に入る典型的なケースだ。

とはいえ、プロモーターの仕事はけっして楽ではない。「ガールズ」とは雇用関係にあるわけではなく、たんなる「友だち」なのだから、拘束することはできない。クラブへの誘いに乗るかどうかは彼女の自由だし、途中で帰ってしまっても、あるいはレストランの食事だけでクラブに行くことを断られても罰則を科せない(次から呼ばなくなるだけだ)。

それにもかかわらずクラブからは、クライアントが満足する「高品質」の「ガールズ」を確実に連れてくるよう求められる。そのためプロモーターは、100~200人の女の子のアドレスを管理し、メールやSNS、電話でパーティやイベントに誘っている。

さらに問題なのは、「ガールズ」がすぐに「劣化」してしまうことだ。クラブやクライアントを満足させるには、つねに新しい「ガール」を補充しなければならない。ニューヨークではソーホーにモデルエージェントが集まっていて、そこでは毎日のようにプロモーターが新人モデルをナンパしようとしている。

こうしたナンパがある程度成功するのは、モデルの多くが高校を卒業して地方からニューヨークに出てきたり、北欧や東ヨーロッパ、ロシア、ブラジルなどから「夢を求めて」アメリカにやってきているからだ。彼女たちはお金もコネも友人もなく、場合によっては住むところすらない。プロモーターと知りあえば、共同アパートを無料で提供され、高級レストランでおごってもらい、ほかのモデル(ガールズ)と友だちになれる。なによりも、田舎や貧しい国では想像もできなかったようなスーパーリッチの世界を体験できるのだ。そう考えれば、これはけっして悪い取引ではない。

プロモーターはその日の参加者が決まると、午後10時くらいに車で迎えに行き、レストランで食事をする(いわゆる”同伴”だ)。その後、午前零時頃にクラブに到着すると、所定のテーブルに行って午前3時頃までクライアントを楽しませる。プロモーターはたんに女の子たちを管理するだけでなく、一緒に踊って場を盛り上げなくてはならない。

シャンパングラス片手に、ときにはシャンパンのボトルを持って「ガールズ」が踊るのは、ボトルを空にすれば追加の注文をせざるを得なくなり、その分、プロモーターの取り分が増えるからだ(飲む振りをして、グラスの中身をバケットに空けたりする)。彼女たちにとっても、どうせ他人のカネで遊ぶのなら、プロモーターが儲けた方がいいのだ。

クライアントが自宅などで二次会をすることもあり、その場合はパーティが終わるのが午前5時(あるいは午前7時)頃になる。プロモーターはこれを週4日、「ガールズ」をリゾートに連れて行ったときは毎日続けなくてはならない。体力はもちろん、クラブカルチャーや女の子、刺激的なことがほんとうに好きでないとできない仕事だ。

貧しい家庭に育った若者がニューヨークの有名クラブのプロモーターになれば、美女たちに囲まれた年収数千万円の暮らしができる。こんな成功を手にしたらほかに望むものなどないと思うだろうが、じつは彼らはみな「成功」を渇望している。なぜなら、プロモーターが「友人」としてつき合うクライアントは、資産数百億、数千億円というスーパーリッチばかりだからだ。

クライアントは自分のパーティに「ガールズ」を呼ぶようプロモーターに依頼するが、「女をカネで買った」のではなく、あくまでも「友人たちを招待した」ことになっている。クライアントとプロモーターは建前の上では対等で、プロモーターは「友人」であるクライアントと大きなビジネスをして、自分もスーパーリッチに成り上がることを夢見るようになる。プロモーターの年齢の上限は30代半ばとされており、それまでに大きな「成功」を手にしなければならないのだ。

ミアーズはプロモーターからさまざまなビジネスの計画を聞かされたが、そのうちひとつとして実現したものはなかった。クライアントにとってプロモーターは、「女の形をした家具」の調達係にすぎないのだから、彼らとビジネスする理由などどこにもないのだ。

ミアーズは「夢の世界」で奮闘するプロモーターたちの生態を活き活きと描いており、本書にはこれ以外にも興味深い話がたくさん出てくる。「人間の性(さが)」を知りたいひとには格好の読書体験になるだろう。

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第106回 年金持続へ「1億生涯現役社会」(橘玲の世界は損得勘定)

厚生労働省が、年金保険料の納付期間を5年間延長し、20歳から64歳までの45年間にすることを検討していると報じられた。背景にあるのはもちろん少子高齢化で、社会保障制度を支える現役世代の数が減り、受益者である高齢者の数が増えていく。コロナ禍で出生数がさらに減ったことで、このままでは年金制度が持続不可能になると判断したのだろう。
現在の国民年金の保険料は月額1万6590円(年額19万9080円)で、これを40年間納めると、65歳以降、終身で月額6万4816円(年額77万7792円)の年金を受け取ることができる。
2021年の簡易生命表では、65歳時点の平均余命は男で19.85年(84歳)、女で24.73年(89歳)だ。この条件が今後も変わらないとするならば、20歳の国民年金加入者は、これから40年で796万3200円を納め、平均的には、男で1543万9171円、女で1923万4796円を受け取ることが期待できる。
必要な数字がすべて揃っているので、年金の運用利回りをExcelで計算してみると、男が年率2.16%、女が年率2.67%になる。年金受給額はインフレ率に応じて増えていくので、物価の上昇を完全にヘッジできるなら、国民年金は男で2%、女で2.5%のプレミアムを加えた(国家が支払いを保証した)無リスクのインフレ連動債ということになる。
このように、国民年金はけっして損な投資商品ではない。といいうよりも、加入者はかなり得をするようにできている。国民年金に多額の税が投入され、さらには厚生年金の基礎年金部分が「流用」されているからだが、問題は、この好条件がサスティナブル(持続可能)でなくなってきたことだ。
2015年から完全実施されたマクロ経済スライドで、人口動態に合わせて年金受給額は減額されていく。19年の財政検証では、約30年後の国民年金受給額が現在より約3割減ることが示された。毎月の年金が2万円も少なくなれば、生活できなくなったひとたちが大挙して生活保護に移行しかねない(当然、生活保護制度は破綻するだろう)。
こうした事態を避けるために納付期間を延長するのだろうが、積立額(負担)が増えれば当然、運用利回りは下がる。これも試算してみると、納付期間45年、受給額2割減のケースでは、利回りは男で年0.98%、女で年1.52%まで下がる。
だが、これで年金制度が安定する保証はない。納付期間を延長しても受給額が3割減るとすると、運用利回りは男で年0.57%、女で年1.15%になる。男の場合、45年間で約900万円の保険料を納め、年金として1100万円あまりを受け取ることになるが、20歳の若者がこの計算を見せられて、年金制度に魅力を感じるだろうか。
このようにして不可避的に、年金の受給開始年齢が引き上げられることになるだろう。将来は、20歳から69歳まで50年間保険料を納め、70歳あるいは75歳から年金を受給する「1億生涯現役社会」が到来すると予想しておこう。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.106『日経ヴェリタス』2022年11月26日号掲載
禁・無断転載

【アクセス9位】BLM(ブラック・ライヴズ・マター)の背景にある「批判的人種理論(CRT)」とは何か?

ダイヤモンド社と共同で行なっていた「海外投資の歩き方」のサイトが終了し、過去記事が読めなくなってしまったので、閲覧数の多いものや、時世に適ったものを随時、このブログで再掲載していくことにします。

アクセス9位は2020年9月10日 公開の「アメリカ白人は「生まれる前から」レイシストであり、死ぬまでレイシズムの原罪から逃れることはできない」です(一部改変)。

なお、この本は原書で読んだので、本文の引用は私訳で翻訳とは異なります。

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アメリカでBLM(ブラック・ライヴズ・マター/黒人の生命も大切だ)の反人種差別デモが過激化の度合いを増している。その背景には、奴隷制廃止から150年、公民権運動から半世紀以上たっても、依然として黒人の地位が向上していない現実がある。

その結果、「人種問題」をめぐってアメリカの白人は2つのグループ(部族)に分断されることになった。ひとつは保守派で、「法律上は平等な権利を保証され、そのうえアファーマティブアクション(積極的差別是正措置)で優先枠までつくったのだから、現在の苦境は自己責任だ」とする。

それに対して、アメリカ社会の「構造的な人種差別」を批判する左翼(レフト)はどのように考えているのだろうか。それを知りたくて、BLM運動以降、アメリカでベストセラーとなったロビン・ディアンジェロの“White Fragility: Why It’s So Hard for White People to Talk About Racism(白人の脆弱性:白人にとって人種主義について話すのはなぜこれほど難しいのか)”を読んでみた(その後、『ホワイト・フラジリティ 私たちはなぜレイシズムに向き合えないのか?』〈貴堂嘉之監訳、上田勢子翻訳、明石書店〉として翻訳された)。

著者のディアンジェロは1956年生まれの「白人女性」かつ「シスジェンダー」で、「ホワイトネス(白人性)」の研究で博士号を取得し、大学で多文化教育を講じるかたわら、企業などにダイバーシティ・トレーニングを提供する活動を続けている。“White Fragility(白人の脆弱性)”はディアンジェロの造語で、これがなにを意味するかはおいおい説明しよう。

アメリカ白人は、「生まれる前から」レイシスト

“White Fragility”でディアンジェロは、批判的人種理論(CRT:Critical Race Theory)にもとづいてきわめて明快な主張をしているが、それは日本人(とりわけ「リベラル」)にとって容易には理解しがたいものだ。ここではできるだけ客観的に説明し、私の感想は最後に述べることにしよう。

ディアンジェロによれば、アメリカ社会は人種・性別・性的志向などによって階層化されており、その頂点に君臨するのは「白人、男性、異性愛者・健常者・中上流階級」という属性をもつグループだ。だが「白人女性」や「白人のLGBTQI(レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー、クィア、インターセックス)」だからといって「人種主義Racism」から逃れることはできない。

なぜならアメリカ社会の根底には、「white」と「people of color」の構造的な差別があるから。whiteは「白人」、people of colorは「有色人種」のことだが、意図的にraceを避けている用語に「人種」の訳語をあてるのは適切ではないだろう。直訳では「(肌の)色のあるひとたち」だが、これは日本語として違和感があるので、ここでは「ピープル・オブ・カラー」とカタカナで表記する。

この訳語にこだわるのは、ディアンジェロの世界観が「白人」と「ピープル・オブ・カラー」の二元論だからだ。「奴隷制」と「植民地主義」という負の歴史の上につくられたアメリカ社会では、この2つの集団間の「差別のシステム」があらゆるところに埋め込まれているのだ。

ピープル・オブ・カラーには黒人(アフリカ系)、ラティンクス/Latinx(ラテンアメリカ系)、アジア系、ネイティブアメリカンなどがいるし、人種間の結婚で生まれたひとたちもいるだろう。――中南米(ラテンアメリカ)に文化的・民族的アイデンティティをもつアメリカ人は「ヒスパニック」と呼ばれていたが、彼らは「スペイン語話者」「スペイン出身」をアイデンティティとしているわけではないため、「Latino(ラティーノ:ラテン系男性)」や「Latina(ラティーナ:ラテン系女性)」が好まれるようになった。だがそうなると、今度は総称として(男性形の)「ラティーノ」を使うことが批判され、ジェンダーフリーの「Latinx(ラティンクス:ラテン系)」という新語が登場した。とはいえ、この新奇な用語にはラテン系から反発もあり、定着したとは言い難い。

白人にも同様に、アメリカ社会の主流派であるWASP(イギリス系プロテスタント)だけでなく、かつては黒人同様に扱われていたアイルランド系やイタリア系、ナチスの弾圧を逃れてアメリカに渡ったユダヤ系(アシュケナージ)や、新興移民として奴隷制も公民権運動も知らないロシア・東欧系などさまざまなグループがあるし、白人とピープル・オブ・カラーの結婚も珍しくなくなった。

だがディアンジェロは、このように人種の多様性を強調することを否定する。「人種多様性」はピープル・オブ・カラーを分断し、白人に免罪符を与え、「白人VSピープル・オブ・カラー」という構図を曖昧にするだけだからだ。

この二元論からディアンジェロは、「アメリカでは人種主義(レイシズム)は白人だけのものである」というかなり思い切った主張をする。ピープル・オブ・カラーのなかにももちろん、他の人種に対して偏見をもつ人間はいくらでもいるだろう。だがそれは、定義上、(アメリカ社会では)レイシズムとはなり得ない。その一方で白人は、祖先の国籍や家系の歴史に関係なく、存在そのものが「レイシズム」だ。

これは、「白人は生まれながらにしてレイシスト」というだけではない。アメリカ白人は、「生まれる前から」レイシストなのだ。なぜなら白人というだけで、妊娠から出産までのあいだに、病院や保健センターなどでピープル・オブ・カラー(とりわけ黒人)とまったく異なる扱いを受けるのだから……。

ディアンジェロは次のように述べる。

「私はアメリカで育った白人アメリカ人だ。私は白人の考える枠組みと白人の世界観をもち、白人の経験する世界を生きてきた。私の経験は普遍的な人類の経験ではない。それは人種が重要な意味をもつ社会、人種によって深く分断された不公平な社会のなかで、とりわけ白人が経験するものだ」

アメリカで、あるいは西欧による植民地の歴史をもつすべての文化で、白人がレイシズムと無関係に生きることは原理的に不可能なのだ。

「進歩的」で「寛容」なリベラル白人の「不可視のレイシズム」

「すべての白人はレイシストである」という前提に立つ以上、当然のことだが、ディアンジェロはトランプ支持の「白人至上主義者」だけを批判したりはしない。こうした「可視化された人種主義」はこれまでさんざん俎上にあげられてきており、それにもかかわらず人種主義はなくならないばかりか、黒人の苦境はますます強まっている。

ここで白人のリベラルは、「それはレイシズムへの批判が足りないからだ」としてBLM運動への支持を表明するかもしれない。だがディアンジェロは、こうした態度自体が「レイシズム」だとする。“White Fragility”は、「進歩的」で「寛容」なリベラル白人の「不可視のレイシズム」への糾弾の書だ。

従来のリベラリズムは、個人を「黒人」や「女性」などのマイノリティにグループ分けし、ステレオタイプを押しつけることを「差別」だとしてきた。それを乗り越える方策が「カラーブラインド」や「ジェンダーブラインド」で、差別をなくすためのもっとも重要な心構えだとされている。――colorblindは色盲のことで、そこから「肌の色のちがいを見えなくする」の意味に使われるようになった。

だがディアンジェロは、アメリカ社会でポリティカルコレクトネス(政治的正しさ)の中核にあるカラーブラインドを否定する。

アメリカ社会はずっと、カラーブラインドによって人種差別を克服しようとしてきたが、ディアンジェロからすればこれは「人種のちがいがないように振る舞えばレイシズムはなくなる」という虚偽以外のなにものでもない。「人種」を見えなくするカラーブラインドによって、誰ひとり自分をレイシストだといわなくなったとしても、レイシズムは厳然と存在するのだ。

日本でも「女だから」とか「国籍がちがうから」などの理由で個人を評価することは差別と見なされるようになってきた。「個人をグループとしてではなく、一人ひとりの個性や能力で評価する」というIndividualism(個人主義)はリベラルの大原則で、ほとんどのひとが当然だと思うだろうが、ディアンジェロはこれも否定する。

「彼/彼女が黒人であることは採用・昇進になんの関係もない。なぜなら人種ではなく“個人”を評価しているから」というのは、リベラルな白人が自らのレイシズムを隠蔽・正当化するときの典型的な手段にすぎない。――さらには、「客観的な評価によってバイアスから自由になれる」という「客観主義」も否定される。バイアス(偏見)は人間の本性で、どのようなことをしてもそこからフリー(自由)になることはできないのだ。

リベラルの常識を全否定する

この「カラーブラインド」と「個人主義」の全否定は、「リベラル」にとっては驚天動地の話だろう。だがこれは、考えてみれば当然でもある。

アファーマティブアクションは「人種」というグループで優遇するかどうか決めているのだから(ディアンジェロは「資格のある特定のマイノリティに白人と同等の機会を与えること」と定義する)、カラーブラインドと個人主義を徹底すればその根拠はなくなってしまう。「差別されたマイノリティ」を制度によって救済しようとするなら、「人種」という概念を認めるほかない。その意味では、ディアンジェロの一見過激な主張の方が筋が通っているともいえる。

ディアンジェロはもちろん、生物学的な人種概念を否定する。近年の遺伝人類学や行動遺伝学では「ヒト集団」のちがいが大きな論争になっており、イギリスのリベラルな科学ジャーナリスト、アンジェラ・サイニーは『科学の人種主義とたたかう 人種概念の起源から最新のゲノム科学まで』(作品社)でこのテーマと格闘しているが、ディアンジェロは論文1本を根拠に「肌の下に真の生物学的な人種はない」と一蹴している。

生物学的な「人種」は虚構で、「人種」概念は社会的につくられたというのが「社会構築主義」だが、その立場からすると、リベラルのカラーブラインドや個人主義は、社会的な構築物である「人種」を否定し、アメリカ社会の根底にある「構造的レイシズム」を容認することなのだ。

ここまでくれば、ディアンジェロが「リベラル」ではなく「左翼(レフト)」である理由がわかるだろう。その批判の刃は、頑迷なトランプ支持の「白人至上主義者」よりも、彼らを口先だけで批判する「エリートの白人リベラル」に向けられているのだ。

だがこの論理を、自分のことを「レイシズムとは無縁なリベラル」だと思っている白人は容易に理解することができない。そこでディアンジェロは、企業のダイバーシティ・トレーニングで(黒人のコーディネーターといっしょに)、白人の従業員に対して「レイシストとはあなた自身のことだ」という“事実”を伝える。すると白人たちはこの“攻撃”に驚き狼狽し、怒ったり、言い訳したり、無言になったり、席を立ったりする。こうした反応が“White Fragility(白人の脆弱性)”なのだ。

「よい白人」と「悪い白人」という虚構

左翼(レフト)であるディアンジェロは、「リベラル」な白人の偽善を徹底的に批判する。それが、「よい白人」と「悪い白人」の二元論だ。

リベラルを自称する白人にとって、「悪い白人」のステレオタイプは「無知、田舎者、偏見、意地悪、年寄り、南部人」で、「よい白人」のステレオタイプは「進歩的、高学歴、寛容、良心的、若者、北部人」だ。そして、トランプ支持の白人至上主義者に「悪い白人」のレッテルを押しつけることで、自らを「よい白人」に分類して安全圏に逃げ込んでいるとされる。

ディアンジェロが述べているわけではないものの、こうした視点は映画『スキン』を見たときの違和感をうまく説明する。

ガイ・ナティーヴ(イスラエル出身のユダヤ人)監督のこの映画では、カルト的な白人至上主義団体で育ち、顔面を含め全身に無数の刺青(タトゥー)をしたレイシストの若者が、シングルマザーとその子どもたちに出会ったことで人生をやり直したいと願い、組織と対決する。

これは実話を元にしていて、映画としてもよくできているが(主役は『リトル・ダンサー』の少年)、ここまで白人至上主義者を悪魔化してしまうと、映画を見たほとんどの白人は、自分にはなんの関係もないことだと思うのではないか。白人至上主義のカルト団体に所属する全身刺青のレイシストなど、アメリカじゅうでせいぜい数百人しかいないだろうから。

ディアンジェロにとっては、リベラルが好む「頑迷固陋な白人至上主義者」は、白人エリートの自己正当化にすぎない。「悪い白人」を自分とまったくちがう異形の存在にしてしまえば、「よい白人である私」は人種差別とはなんの関係もなくなるのだ。

“White Fragility”では、会社のダイバーシティ・トレーニングで白人従業員が、自分はレイシズムとは無縁だと主張するときに使う科白がたくさん紹介されている。

・あなたがピンクだろうが、紫だろうか、水玉模様だろうが私は気にしない。
・あなたがたまたま黒人だったとしても、私があなたについて語ることとはなんの関係もない。
・人種を問題にすることはわたしたちを分断する。
・もしひとびとが私をリスペクトするのなら、人種にかかわらず、私もそのひとたちをリスペクトする。
・私はレイシストではない。なぜならカナダから来たから。
・私は貧しい家庭に育った(白人特権の恩恵など受けていない)。
・私はとても多様性のある職場で働いている。
・家族にピープル・オブ・カラーがいる(あるいは結婚している、子どもがいる)。
・60年代の公民権運動に参加した。
・中国から養子をもらった。
・日本に暮らしたことがあり、マイノリティがどういうものか知っている、などなど。

ダイバーシティ・トレーニングというのは、こうした「言い訳」を一つひとつつぶして、自らの「内なるレイシズム」に直面させることなのだ。

大企業で働く(恵まれた)白人が、白人特権(white privilege)をあっさり免責してしまうことを受け入れがたいマイノリティがいることは間違いないだろう。その意味で、ディアンジェロの主張に説得力を感じるところはあるものの、「白人女性の涙(White Women’s Tears)」という章を読むと複雑な気持ちにならざるを得ない。ここではダイバーシティ・トレーニングで、自らのレイシズムを指摘された白人女性が泣くことについて述べられている。

黒人などのマイノリティに共感していて、レイシズムに断固反対してきたと信じている白人女性が、「あなたのその態度がレイシズムだ」といわれて混乱し、泣き出すというのは想像できる光景だ。そんなとき、まずは同席していた白人女性や白人男性が泣いている女性をなぐさめようとし、ときにはそれに黒人男性が加わって、講師であるディアンジェロを批判するのだという。

これに対してディアンジェロは、「泣く」ということ自体が、自らの内なるレイシムズを直視することから逃げ、「女」を利用して周囲の同情を集めて自分を守ろうとする“White Fragility”の典型だとする。なぜなら「感情とは私たちのバイアスと信念、文化的なフレームワークによってつくられたもの」であり、「感情とは政治的なもの」だからだ。

そして、泣き出した白人女性をなぐさめることは、「交通事故が起きたとき、(犠牲者である)通行人が道に倒れているにもかかわらず、(事故を起こした)車の運転手に駆け寄るようなもの」だという。これを読んだときは、アメリカの白人はこんな仕打ちにも耐えなくてはならないのかと思わず同情した。

「レイシズムの原罪」という宗教運動

ディアンジェロのダイバーシティ・トレーニングは、白人従業員にとってはかなり過酷な体験だ。だったらなぜ、企業はこんなことをさせるのか。

それは大企業の経営者が、いつ「人種差別的」と批判されBLM運動の標的になるかわからないと戦々恐々としているからであり、白人の従業員(とりわけ中間管理職)が「人種差別的」と見なされずに、黒人の部下や同僚とどのように接すればいいかわからなくなっているからだろう。

そこで彼らは、藁にもすがる思いでダイバーシティ・トレーニングを受講する(自分たちはここまで努力しているという免罪符を手に入れたいというものあるのだろう)。ところがそうすると、「白人という存在そのものがレイシズムだ」といわれ、「脆弱性」をさらけ出すことになってしまうのだ。

私はアメリカで暮らしているわけでもないし、そもそも「ピープル・オブ・カラー(黄色人種)」の一人として、定義上、レイシストにはなり得ないのだから、複雑骨折したようなアメリカの「人種問題」についての論評は控えるべきかもしれない。

それでもひと言だけいわせてもらえば、ディアンジェロの論理は、キリスト教的な「原罪」とフロイト主義(精神分析)のグロテスクな組み合わせのように思える。アメリカの白人は「白さ(ホワイトネス)」という原罪を背負っているものの、それを無意識に抑圧し「白人特権」を守ろうとしている。とりわけリベラルな白人は、「悪い白人」を悪魔に見立てることで自分のなかの「悪」を外部化し、内なるレイシズムを否認・正当化しているのだ。

しかしそうなると、どのような説明・弁解・抗議をしても(あるいは謝罪しても)、すべてが「抑圧されたレイシズム」と見なされてしまう。このロジックは自己完結しているので、逃げ場はどこにもない。

ディアンジェロは、アメリカの(リベラルな)白人が求めているのは「status quo(現状維持)」だという。すべては、レイシズムを否認して「白人特権」という現状を守るための暗黙の策略なのだ。こうして、コリン・パウエル(ブッシュ政権の国務長官)やクラレンス・トーマス(最高裁判事)のような保守的な黒人の成功者はもちろん、バラク・オバマですら「現状維持を支え、(白人を)脅かすといういかなる意味でも、じゅうぶんにレイシズムに挑戦しなかった」と批判されることになる。

ここから、一部のBLM運動の常軌を逸した(ように見える)ラディカリズムが理解できるのではないだろうか。「現状維持」がレイシズムなら、「現状を破壊する」行為は、それがどんなものであれ反レイシズムなのだ。

ディアンジェロのような白人知識人がこうした極端な思想をもち、それが一定の支持を集める背景には、アメリカのアカデミズの実態があるのかもしれない。ディアンジェロが認めるように、アメリカの大学教員の84%は白人で、それはまさに「構造的レイシズム」そのものだ。この事実を否認し正当化する必要があるからこそ、アメリカの白人知識人は、ごくふつうに暮らし働いている市井の白人に「レイシスト」のレッテルを押しつけようとするのではないだろうか。

こうしたラディカリズムは、いったいどこに向かうのか? ダイバーシティ・トレーニングの目的をディアンジェロは、「白人が引き起こしたレイシズムを直視する痛みに耐えるスタミナをつけること」だという。そして、「レイシズムを(ピープル・オブ・カラーと同様に)生と死の問題だと考え、あなたの宿題をすること」が重要だとする。

もちろん、白人であるディアンジェロ自身もレイシズムから自由になることはなく、学びが終わることもない。アメリカの白人は「生まれる前から」レイシストであり、死ぬまでレイシズムの原罪から逃れることはできないのだ。――そう考えれば、これは一種の「宗教運動」にちかい。

自らが「原罪」を背負っていると考える白人がなにをしようと自由だが、民主的な市民社会で、なんら法を侵すことなく暮らしているひとたちにこうした「罪」を負わせるのは酷だし、ひとは自分が「悪」であることを受け入れることなどできない。このラディカルな人種理論は「人種問題」の解決に役立たないばかりか、状況をさらに悪化させるだけではないだろうか。

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