ジョージ・ソロスですら未来を知ることはできない

世界的に株価が大きく下落しています。

円高と株安についての個人的感想」で「誰も未来を知ることはできない」と書きましたが、それについて、ジョージ・ソロスを例に挙げて説明した未発表の原稿があったことを思い出したのでアップします。

*                   *                   *                   *                   *                   *                   *                   *

「ヘッジファンドの帝王」「イングランド銀行を打ち負かした男」として知られるジョージ・ソロスは、97年のアジア通貨危機で「市場原理主義者」として批判の矢面に立たされたが、サブプライム危機が勃発した直後に書かれた警世の書『ソロスは警告する』で次のように警告した。

市場は本来不完全なものであり、政府など外部からの介入がなければ正常に機能しないものであるにもかかわらず、「市場原理主義者」は市場がそれ自体で完全だと考え、野放図な規制緩和を行なってきた。サブプライム問題に端を発する世界金融危機はその典型であり、FRB(米連邦準備理事会)の低金利政策で不動産投機が過熱し、信用の過度の膨張がバブルを誘発し、それを最先端の金融工学が加速させ、ハイリスクな不動産担保証券を世界じゅうにばら撒くことになった。この「超バブル」が崩壊したいま、市場原理主義の時代は終焉を迎えた――。

ソロスはそれ以前から米国の不動産バブルや金融機関のモラルハザードを強く批判しており、世界金融危機をもっとも早く、かつ正確に予言した一人だ。だがここでいいたのは、そのことではない。その常人離れした慧眼にもかかわらず、ソロスの予測のほとんどは外れているのだ。

『ソロスは警告する』には、2008年1月時点の投資戦略が掲載されている。そのなかでソロスは、不動産バブル崩壊にともなう米国の不況は長期化するものの、中国やインドなど新興国の経済は堅調で、商品や金などの価格上昇はつづき、アラブ産油国の国富ファンドが「最後の貸し手」になるだろうと述べている。なによりソロスの一貫した主張はドル崩壊で、金融危機によって“予言”が実現することに絶対の自信を持っている。

それから半年後にリーマンショックが起こり、世界経済は激震に見舞われた。その後の現実とソロスの予想を比較してみよう。

まず、先進国の不況と新興諸国の好況が共存するとのデカップリング論は完全に間違っていた。中国やインド、ブラジル、ロシアなどの株価も、世界金融危機を機に急落した。同時に商品や金、原油価格も大幅に下落した。

ドバイの不動産バブルがはじけ、政府系不動産開発会社の債務返済が滞った。オイルマネーの金融市場への流入も、リーマンショック以前の投資(アブダビ投資庁からシティグループへの8100億円など)が巨額の含み損を抱えたことから完全に途絶えた。

金融危機はヨーロッパ諸国にも飛び火し、「ヘッジファンド国家」と化していたアイスランドが破綻し、次いで東欧諸国やギリシア、アイルランドがEUやIMFの救済を受けることになった。こうした事態はどれも、ソロスの「予言」には書かれていない。

とりわけ大きな間違いは、ソロスが絶対の自信を持っていた「ドル崩壊」だ。

リーマンショックの後、ヘッジファンドなどへの解約請求が殺到したためユーロ資産を売却してドルを買い戻す動きが加速し、為替相場はドル高ユーロ安に大きく動いた。ソロスの確信とは異なって世界金融危機でドル崩壊は起こらず、ユーロ危機が先にやってきた。この「再帰性」を見誤ったために、ソロスはドル売りユーロ買いの巨額のポジションで莫大な損失を被ることになった。

ソロスは、一貫して「市場は効率的だ」という経済学の前提を否定してきた。彼は複雑系の科学とはまったく独立に、「再帰性」という哲学的な概念を駆使して、市場が互いにフィードバックする複雑系のスモールワールドであることを論証した。

ソロスの予言どおり、金融市場は崩壊し、モダンポートフォリオ理論のベルカーブは葬りされられた。しかしそれでも、ソロスは「間違った」のだ。

ソロスはその後、自らの「予言」を検証し、それがほとんど外れたことを潔く認めている(『ソロスは警告する2009』。ソロスの名誉のために付け加えれば、この新著では、中国やインドなど新興国の株価がいち早く回復することなどを正確に予想している。

第5回 善意か、カネ目当ての行為か(橘玲の世界は損得勘定)

道を歩いていて、ふとなにかが気になって、戻って見直したら財布だった。私はいつもぼーっと歩いているので、財布を拾ったのはこれが人生はじめての経験だ。

近くに派出所がなかったので、駅前の交番まで届けにいった。

交番にいたのは気のいいお巡りさんで、すまなさそうに、落し物の届出にはいくつか手続きがあるのだといった。

まず、私の見ている前で財布の中身を確認する。現金はそれほど入っていなかったが、運転免許証と数枚のキャッシュカード、なにかの資格の証明カードがあった。

次に、持ち主が現われなかった場合に所有権を主張するかを訊かれた。この権利は放棄することもできるということなので、その欄にチェックしてサインした。

驚いたのは、その後に、謝礼を受け取りたいかどうかを訊かれたことだ。そんなのは本人の気持ち次第で、警察が関与する必要はないと思ったからだ。

「それが最近、いろいろ大変なんですよ」

お巡りさんが、困ったような顔でいった。

「落とし物を届けたのに礼がない、という苦情が警察にたくさん来るんですよ」

そこで、警察署ではあらかじめ拾ったひとの意向を聞いておくことにした。それによっては、電話などで礼を伝えたことを確認してからでないと、落し物を引き渡さないのだという。

「拾ったひとが謝礼を求めているときは、そのことをくどいほど本人に説明するんですよ。さすがに、謝礼を払った証明書を持って来い、とはいえないですけどね」

お巡りさんはそういって、ため息をついた。

「市場原理主義」が日本社会の美質を壊したと、声高に非難するひとたちがいる。私はこれまで彼らの主張がよく理解できなかったのだが、この話を聞いて、その憤りがなんとなくわかる気がした。謝礼がもらえないと警察に文句をいうのは、病院に行くのにタクシー代が足りないからと救急車を呼ぶのと同じくらい理不尽だ。

でもこれは「市場原理」が悪いのではなく、それが貫徹していないことが問題なのだ。

当たり前の話だけれど、市場取引は「市場」でしか行なわれない。フェアな条件で、売り手と買い手が納得する価格で合意するのが「市場原理」だ。

拾った財布を持ち主に届けるのは、市場取引でもなんでもない。だからホンモノの「市場原理」主義者は、その行為に損得を持ち込むことを断固拒否するだろう。

「“届けてくれた方に謝礼を払ってほしい”とお願いすると、こんどは、『お前なんかにそんなことをいわれる筋合いはない』と怒り出すひとがいるんです。こっちは針のムシロですよ」

私が、謝礼もお礼の電話も必要ないといって席を立つと、世間話の好きなお巡りさんは、ほっとしたような笑顔を見せた。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.5:『日経ヴェリタス』2011年8月7日号掲載
禁・無断転載

 

彼が彼女を許せなかった過ち 週刊プレイボーイ連載(14)

ある日の夜、住宅街を歩いていると、後ろから若いカップルの言い争う声が聞こえてきました。といっても、男性が一方的に怒っているみたいです。

「オレは高校ではサッカーやってたけど、プロのピッチに立ったことはないよ」男性が、苛立った声をあげます。「だからといって、オレがサッカーを語っちゃいけないっていうのかよ」

「そんなことじゃなくて……」彼女が、困惑した様子でなにかいいかけます。

「オレはたしかに会社で働いたことはないよ」それをさえぎって、男性がさらにいいつのります。「でもそれが、テツの仕事のことをいっちゃいけない理由にはならないだろ」

このあたりで、ようやく話の筋が見えてきました。二人にはテツという共通の友人がいて、最近、どこかの会社に就職しました。そのことについて男性が、「あんなブラック企業なんかサイテーだ」と批判したところ、彼女から、「あなたはいちども働いたことがないじゃない」といわれてしまったのです。

男性はそれに逆上して、「プロの経験がなければプロサッカーを語れないのか?」と、彼女を責めはじめました。歩く早さが同じなのと、男性の声が大きかったのでこうしたやりとりがすべて聞こえてしまったのですが、彼女に対するこの非難はかなり理不尽です。

男性のロジックは、「倫理的な問題を一般的な問題にすりかえる」という典型的な詭弁です。

素人がプロのサッカー選手を批判することはもちろん自由です。「メッシって、やっぱりたいしたことないな」とか。

こうした気楽な批評が許されるのは、私たちとメッシのあいだになんの個人的な関係もないからです。メッシが私の言葉を聞いて不愉快になることもなければ、そもそも私の存在自体を知らない、ということを前提として、好き勝手なことをいう自由が成立します。

しかしこうした権利は、常に認められるわけではありません。少年サッカーの試合で、頑張ってる子どもを「下手くそ」と罵ることを「表現の自由」とはいわないでしょう。

カップルの諍いは、就職した友人を男性が批判したことがきっかけでした。それに対して彼女は、「フリーターしかしたことのないあなたに、そんなことをいう資格があるのか」と訊いたのです。

ここで問われているのは、「フリーターは正社員を批判できるか」という一般論ではなく、「どのような立場であなたは友人を批判するのか」という倫理的な態度です。男性は、彼女の道徳的な問いにちゃんとこたえることができなくて、個人的な問題を一般論にすりかえて怒り出したのでした。

こうした詭弁は、私たちのまわりでもとてもよく目につきます。それがどれほど無様であっても、私たちは、攻撃されると反射的に身を守ってしまうのです。

彼女には、恋人とケンカするつもりはなかったのでしょう。しまいには黙り込み、泣き出してしまいました。それでもプライドを傷つけられた男性は、いつまでも同じ非難を繰り返すばかりです。

さっさと許して仲直りすればいいのに、過ちを認めるのはやっぱり難しいのかなあ。

『週刊プレイボーイ』2011年8月8日発売号
禁・無断転載