セロトニンで出世する方法 週刊プレイボーイ連載(17)

この10年くらいのあいだに脳科学は急速に進歩して、私たちの脳が化学物質によって大きな影響を受けていることが明らかになりました。

脳の仕組みというのは、簡単にいえば入力と出力のあるデジタルマシンで、ニューロンとニューロンの間を化学物質を使って情報伝達しています。そのため、脳内化学物質によく似た薬物を摂取すると、ニューロンが活性化して特有の精神作用が生じます。

これを利用したのがドラッグで、覚醒剤として知られるアンフェタミンは脳内でノルアドレナリンやドーパミンを放出させ、強い快感を引き起こします。逆にアヘンからつくられるヘロインやモルヒネは、興奮の伝達を遮断することで痛みをやわらげ、多幸感を生み出すことが知られています。LSDやエクスタシーのように、脳内の知覚刺激反応を増強させて、恍惚感をともなう神秘体験を起こす薬物も開発されました。

いまでは、脳を直接刺激して精神を操作する方法も見つかっています。

たとえば、脳に強い磁気を当てて側頭葉を活性化させれば幻覚を見るし、左前頭葉ならナチュラルハイになります。さらに、その磁気を大脳の快楽中枢である中隔に向けると、「1000回のオーガズムが同時に襲ってくる」ほどの喜悦を感じるといいます。

サルにボタンを押して中隔を刺激する方法を教えると、ひたすらスイッチを押しつづけ、食べることも眠ることもできなくなり、だいたい2週間で餓死か衰弱死してしまいます。これはまさに「究極のドラッグ」です。

こうした強烈な薬物ではなく、化学物質の摂取によって気分を変えるのがスマートドラッグです。

うつ病の治療薬として知られているのがプロザックで、これはセロトニンという脳内物質のレベルを上げる効果を持っています。

アメリカの脳科学者がベルベットモンキーの集団を調査したところ、ボスザル(アルファオス)は他のオスより2倍もセロトニンのレベルが高いことがわかりました。さらには、ボスの地位を失ったオスはセロトニンのレベルが低下し、うずくまって身体を揺らし、エサを食べなくなって、どこから見ても抑うつ状態の人間と同じようになってしまいました。

次に彼らは、群れからボスザルを隔離し、適当に選んだサルに抗うつ剤を処方してみました。すると驚いたことに、常にそのサルがボスになったのです。

人間の集団でも、うつ傾向の強いひとがリーダーに向かないのは明らかです。それとは逆に、ひとの上に立つような意欲的な人物は、脳内のセロトニンレベルが高い軽躁状態にあるのかもしれません。

ひと(とりわけ男性)は、地位が上がるとセロトニンが分泌されて、ますますテンションが上がります。地位を失うとセロトニンもなくなって、うつ病になってしまいます。失脚した政治家が自殺したり、すぐに病死したりするのを見ると、地位とセロトニンの仮説はけっこう説得力があります。

では、プロザックなどの抗うつ剤を飲むと、人工的な躁状態になって出世できるようになるのでしょうか?

残念ながらそのような研究はまだありませんが、もちろん試してみるのは自由です。

参考文献:V・S・ラマチャンドラン『脳のなかの幽霊』
ランドルフ・ネシー、ジョージ・ウィリアムズ『病気はなぜ、あるのか―進化医学による新しい理解』

 『週刊プレイボーイ』2011年9月5日発売号
禁・無断転載

ロシアという国

今日からロシアに行きます。日経新聞(2011年9月6日朝刊)の「地球回覧」に、「ロシア、希望の国は遠く」(モスクワ=石川陽平記者)という興味深い記事が掲載されていたので、出発前に、備忘録としてアップしておきます。

この記事によると、ロシアにはいま「外国移住、第3の波」と呼ばれる社会現象が起きていて、過去3年間の海外への移住者が125万人に達したと政府機関が推定しています。ロシアの人口約1億4000万人の0.9%、モスクワの人口1300万人の約1割という数字です。また今年6月の世論調査では、18~24歳の若者の4割が海外移住を希望したともいいます。

こうした“海外移住ブーム”の原因は、貧困というわけではないようです。リベラル派の政治学者は「(ロシアでは)自由にビジネスすることが不可能であり、特別なコネがなければ自分の専門性を生かせない」からだと述べ、別の政治評論家は、「ロシアの将来への不信感や政権への希望喪失」を挙げます。

日本でも、ロシアと同様に、若者たちは将来への夢を失い、政治への期待を喪失しているようです。しかしそれにもかかわらず、日本の若者は国外に出ようとせず、留学生の数は年々減り、アメリカの一流大学は中国系や韓国系の学生ばかりになったとの嘆きをよく聞きます。

私の考えでは、これは日本の若者がリスクを嫌い、海外の若者たちがリスクを好むからではありません。ひとはだれでも自分の利益を最大化するために合理的に行動するとするならば、国内に留まることと、海外に移住することが、それぞれ最適行動になるような外部条件のちがいがあるはずです。

石川記者の記事を読むかぎり、日本とロシアのちがいは絶望の度合いにあるようです。日本は「希望のない社会」ですが、ロシアには「絶望しかない」というように。

若者の4割が国を見捨てることを望むのはどんな社会なのか、モスクワとサンクトペテルブルクだけの駆け足の旅ですが、自分の目でたしかめてみたいと思います。

9月7日のエントリーについてのお詫び

9月7日付けのエントリーで東京電力の節電CMについて書きましたが、コメントで、「それは政府と経産省の節電アクションのことはないか」とのご指摘をいただきました。

この記事は、たまたま一度だけ目にしたCMについて書いたもので、記憶も定かでないことで主張を述べるのは適切ではないと思い直したため、エントリーを取り下げることにしました。

今後は、きちんとソースを確認したうえでブログにアップしていこうと思います。

申し訳ありませんでした。

橘 玲