第7回 「風評被害」と投資の合理性 (橘玲の世界は損得勘定)

8月中旬のことだけれど、インターネットで果物などの食品を販売している店から、「お願いです! 福島の桃を買ってください」というメールが送られてきた。それも「2度とできない限定企画」だという。

福島は桃の名産地だが、原発事故の風評被害で思うように出荷できなくなっている。いまが最盛期だが、このままではただ 腐ってしまうだけだ。そこで、通常はディスカウントしない最高級品を2箱2980円の大特価で販売する、という説明だった。

さっそく注文してみると、1週間後に熟れ頃の見事な桃が自宅に送られてきた。いくつかを知人に配り、残ったらジャムかゼリーにすればいいと思っていたのだが、あっという間に食べつくしてしまった。

私がこの桃を買ったのは、「なぜ得なのか」の説明に説得力があったからだ。理由が明快なら、だれだって安くておいしい方を選ぶだろう。「風評被害」は、私にとって千載一遇のチャンスだったのだ。

この言い方に釈然としないひともいるだろう。でも、ちょっと考えてみてほしい。

風評被害というのは、根拠のない噂によって、商品が本来の価値を失うことだ。ということは、経済合理的な消費者は、風評被害で価格の下がった商品を選択することで、本来の価値との差額を無リスクで手に入れることができる。

これはきわめて有利な取引だから、合理的な消費者は競って風評被害の商品を買おうとするだろう。そのことによって価格は上昇し、商品は本来の価値を取り戻して風評被害はなくなってしまう――。この理屈は、投資でいう裁定取引と同じだ。

このように、市場がじゅうぶんに効率的なら、風評被害は原理的に存在しない。それにもかかわらず福島の農家が苦境に陥るのは、一般のスーパーや青果店が風評被害の商品を仕入れず、合理的な消費者から購入機会を奪っているからだ。

もちろん私は、このことで零細な小売店を責めようとは思わない。売れ残るリスクを考えれば、風評被害の商品を避けようとするのは当然だからだ。

だがほとんどの消費者が敬遠するとしても、だったらなおのこと福島の桃を買いたいという、私のような「合理的」な人間もいる(世間的には「偏屈」とか「ビンボーくさい」とかいうのかもしれない)。こうした賢い(と思っている)消費者が一定数いれば、それだけで風評被害はなくなるはずなのだ。

インターネットと通信販売は、全国(全世界)から「偏屈」で「ビンボーくさい」変わり者を集める有効なツールだ。福島の果樹園に電話やFAXで注文を出すのは手間がかかるが、いまやメールでお得な情報を教えてくれて、クリックひとつで買えるのだから、こんなに素晴らしいことはない。

ウォーレン・バフェットは、本来の価値より安い株にしか投資しない。だとすれば、風評被害の商品を買うことは、農家のひとたちの役に立つだけでなく、最高の投資のレッスンでもあるのだ。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.7:『日経ヴェリタス』2011年9月18日号掲載
禁・無断転載

俺たちのカワシマを守れ! 週刊プレイボーイ連載(19)

すこし前のことですが、ベルギーリーグのリールスに所属する日本代表ゴールキーパー川島永嗣選手が、アントワープのクラブ・ゲルミナル戦で、ゴール裏の相手サポーターの「カワシマ、フクシマ」という野次に抗議し、試合が一時中断されるという出来事がありました。

この試合のダイジェストはYoutubeにアップされていて、それを見ると試合はリールスのホームゲームで、開始前には東日本大震災の犠牲者のために黙祷が捧げられています。それだからこそ、福島原発事故の被災者に対する心ない野次は許されず、毅然として審判に申し出た川島は立派です。

試合は後半16分にリールスが先取点をあげたあたりから荒れはじめ、中断再開後の後半35分、ディフェンダーのクリアミスから同点に追いつかれると、こんどはリールスサポーターがゲルミナルのゴールキーパーに激しい野次を飛ばす騒然とした雰囲気になったようです。

この出来事はヨーロッパでも大きく報じられ、試合の翌日にはゲルミナルのホームページにサポーター代表の謝罪が掲載されました。現在は、クラブの選手・関係者による日本語の謝罪文と、サポーターへの義捐金の呼びかけがトップページに掲げられています。

ヨーロッパサッカーでは、黒人選手に対するモンキーチャントなど、人種差別が大きな問題になってきました。フーリガンと呼ばれる暴力的なサポーターにはネオナチなどの白人至上主義者も多く、サッカーが人種間の憎悪を増幅させているとの批判もあります。

残念なことに、私たちは人種や国籍で無意識のうちにひとを差別してしまいます。進化心理学でいうならば、これは“差別のプログラム”がヒトの遺伝子に埋め込まれているからです。

しかしサッカーには、「差別」とは別の進化論的プログラムによって、このやっかいな性向を修正する素晴らしい機能があります。それが“チーム愛”です。

川島に対する「フクシマコール」に本気で怒ったのは、リールスのサポーターたちでした。彼らは福島原発事故のことを知ってはいても、遠い日本のニュースにさほどの興味は持っていないでしょう。

それではなぜ彼らは激昂したのか。それは、「俺たちのカワシマ」が“奴ら”に侮辱されたからにほかなりません。

どんなサポーターも、人種や国籍に関係なく、自分が愛するチームの選手への誹謗中傷はぜったいに許しません。それは、自分への侮辱と同じことだからです。

この本能的な怒りには、なんの理屈もありません。遠い国からやってきた選手がチームの一員に加わったとたん、なにかの魔法にかかったかのように、あらゆる“ちがい”は消滅して自分と一体化してしまうのです。こうして、ネオナチの若者が黒人選手の熱狂的なファンになるという「奇跡」が起こります。

ヨーロッパサッカーは、世界じゅうから一流選手が集まることで、あちこちでこうした小さな奇跡を起こしています。「俺たちのチームが世界一だ」という偏狭なローカリズム(地域主義)が、人種の壁や国境を超えてグローバリズムへとまっすぐにつながっていくところに、サッカーのいちばんの魅力があるのです。

『週刊プレイボーイ』2011年9月19日発売号
禁・無断転載

レストランとPECTOPAH

ロシアから帰ってきました。旅の印象はあらためて書くとして、とりあえずちょっとしたTipsを。

ロシア旅行でいちばん戸惑うのはキリル文字(ロシア文字)です。ギリシア文字をもとに考案されたアルファベットですが、英語と同じ文字を使いながらまったく異なる発音のものがいくつもあって、それが混乱のもとになります。

たとえば、ロシア語の「H」はN、「P」はR、「C」はS、「y」がUといった感じです。そのため、「ロシアに文字が伝わるときに文法書を載せた船が難破し、記憶だけでアルファベットをつくったからだ」といわれたりしました。

旅行者がどれほど困惑するかの格好の例が、街中のあちこちで見かける「PECTOPAH」の看板です。英語と同じ文字が使われていますがこれはロシア語で、上記の規則を適用すると、「RESTORAN」であることがわかります。これは、レストランの看板なのです。

ロシア語は、英語やフランス語とはちがって、文字通りに発音すればいいだけです(ローマ字表記みたいなものです)。だからいったん馴れてしまうと、「ボルシチ」「ストロガノフ」「カフェ」などのメニューや、人名や駅名も簡単に読めるようになります。

基本的な母音と子音さえ覚えておけば、モスクワやサンクトペテルブルグの地下鉄も自由に乗りこなせます。なお、地下鉄には自動販売機がなく、窓口に並んで回数券(回数分の料金がチャージされたICカード)を購入することになります。英語はほとんど通用しませんが、必要な回数を紙に書いて見せれば大丈夫です。

テロ対策で、地下鉄のエレベーターはすべてモニターで監視されています。モスクワの地下鉄は核戦争時にシェルターに転用できる大深度ですが、記念に写真を撮ったりすると警察官に尋問されるので、エレベータではおとなしくしていたほうがいいようです(パスポートを見せたうえで、撮影した写真をすべてチェックされました)。

あと、モスクワもサンクトペテルブルグも天気が変わりやすいので、傘をつねに持ち歩くことをお勧めします。

これはビストロBistro
カフェハウスCafe House いたるところにあるチェーン店
Subwayはサブベイ
ご存知マクドナルド