「教育問題」に関するあれこれ

例によって、橋下大阪市長の「教育改革」構想について議論百出している。私は地雷原には近づかないことにしているし、それ以前に、小学生を留年させるとか、卒業式で起立させるとかの論争が、(どうでもいいとはいわないけれど)「教育問題」の本質だとはとうてい思えない。

そこで私見として、日本の公教育に関する雑感をつづってみる。

学校制度というのは、いうまでもなく、軍隊(常備軍)や監獄などとともに近代の発明だ。その目的は、子どものときから規律を植えつけることで、これまで好き勝手に暮らしていたひとびとを正しい工場労働者(や兵隊)に訓育することにある。

日本を含む先進諸国で教育の崩壊が起こるのは、ポスト産業社会では、子どもたちが工場労働者向けの教育システムに意味を見出せないからだ。

私たちの社会は、子どもたちに対して、「自分の思うように自由に生きるのが正しい」「権威におもねることなく自らの意思を貫け」という強いメッセージを送っている。それと同時に、「教師のいうことを聞け」とか、「校則に従え」とかいうのだから、これでは典型的なダブルバインドで、子どもたちは混乱するばかりだ。

こうした前提に立てば、教育の崩壊は時代の必然で、なにをしてもムダ、ということになる。私は半ばこの見解が正しいのではないかと思っているが、それではあまりに身も蓋もないので、もうすこし考えてみよう。

「中学受験」は、親、子ども、教師の三者にきわめて重い負担をかけている。

親の負担は、いうまでもなく塾のコストだ。個人指導の塾だと、年間に100万円以上かかるという。これはふつうのサラリーマン家庭にとってはきわめて重い経済的負担で、だから「二人目の子どもをあきらめる」という話にもなる。

子どもの負担は、受験のための勉強時間が放課後と休日に限られていることだ。学校が終わってから塾に行き、夜8時過ぎに帰宅して、あわただしく夕食を済ませたら深夜まで自習する、というのが典型的な受験小学生の生活だ。これを(最低でも)小学校5年生から2年間もやらなければならないのだから、そのストレスは相当なものだろう。

教師の負担は、クラスのなかで中学受験をする生徒が一定数を超えると、授業が成立しなくなることだ。中学受験を目指す子どもたちは、公立小学校のカリキュラムはとうのむかしに終えている。彼らにとって学校での授業は、無意味な時間をひたすら耐えることでしかない。クラスの子どもたちの半分ちかくが授業内容にまったく興味を示さないとすれば、どれほど練達の教師でもクラスを維持することは困難だろう。

これらの問題に対して、これまで世の教育評論家たちは「受験が悪い」と批判してきた。たしかに中学受験がなければこうした問題は起こらないかもしれないが、都合の悪い現実から目を背けたからといってなんの解決にもならないのも確かだ。

中学受験という現実を前提とするならば、もっともシンプルで効果的な方法が、学校と塾を一体化させることなのは明らかだ。

公立学校に塾が組み込まれれば、親は高い塾代を払う必要はなくなる(あるいは経済的負担が大幅に軽減される)。教育機会による経済格差の固定化が問題になっているが、公立小学校が進学塾を兼ねれば、賢いけれども貧しい家の子どもが偏差値の高い学校への受験機会を失うこともなくなるだろう。

さらには、子どもが学校で受験勉強をするようになれば、放課後や休日には家族や友達と過ごすことができる。教師にとっても、公立中学へ進む子どもと受験する子どもを分けてしまえば、授業ははるかにやりやすくなるにちがいない。

私は、これが理想の教育だと主張するつもりはない。だが現在の「教育崩壊」と比べれば、公立小学校と塾の一体化によって、親、子ども、教師の厚生が大きく改善されることは間違いないだろう。

次に、小学生の子どものいる親がなぜ中学受験を選択せざるを得ないのかを考えてみよう。

ほとんどのひとが、「よい大学に入るために子どものときから受験勉強をさせている」と思っているようだが、実際にはこうした親はごく一部だ。大半の親(とりわけ女の子の親)は、公立中学校の「治安」が不安だから、子どもを私立に入れざるを得ないと考えている。

これは何度か書いたけれど、私が十数年前に子どもの中学受験を体験したときは、学習塾の指導員は、「最底辺の私立中学でも公立中学よりはるかにマシです」と説明していた。そのときに知り合った親はみんなサラリーマンで、子どもを公立中学に進ませるつもりだったが、学級崩壊の噂を聞くにつれて「私立に入れるしかない」と“転向”したひとたちばかりだった。

それではなぜ、公立中学の治安はかんたんに崩壊してしまうのだろうか。

これは、公立中学に“暴力装置”がないからだ。誰だって警察のない社会を想像できないだろうが、公立中学はまさに(警察という)暴力装置のない無法地帯そのものだ。

もちろん私は、「公立中学に警察官を常駐させろ」というような主張をしたいのではない。

私立学校で暴行事件やいじめによる自殺が起こらないのは、教師から事務員に至るまで、職員全員が「評判を守る」という強いインセンティブを持っているからだ。校内暴力が頻発したり、つぎつぎと生徒が自殺してしまうような学校に、子どもを入学させる親はいない。「評判」を失ってしまうと、私立学校は倒産してみんなが職を失ってしまうのだ。

学校の治安を維持するには、問題のある生徒を排除するのがもっとも効果的だ。そのための“暴力装置”が退学だ。

名門とされる女子校では、1回の喫煙でも退学処分が下されるという。中学生になれば人生の損得は計算できるから、生徒たちは退学という“暴力”を避けるために自制するようになる。こうした威嚇効果によって、私立学校の治安は保たれている。

ところが公立中学では、そもそも退学という処分は存在しないことになっている。そうなれば生徒たちは、警察沙汰になるようなことでもないかぎり、なにをやっても自由だと考えるだろう。これで学校の治安が保たれているのなら、そのほうが奇跡だ。

最近では公立中学でも問題生徒を警察に引き渡すようだが、そんな深刻な事態になる前に、公立中学にも退学処分権を認めることで、いじめ自殺のような悲惨な事件を大きく減らすことができるだろう。

退学になった生徒は、通信教育で義務教育を終えるか、特殊な私立学校(戸塚ヨットスクールのようなところ)に転校する。これなら、問題行動を起こしたときの損失の大きさが生徒本人にも親にもはっきりと認識されるから、公立中学の治安は大きく改善するにちがいない。

この国の教育に関する議論は、すべて「子どもは善だ」というドグマから出発する。「大人も子どもも同じ人間だ」と考えれば、大人の社会を維持している仕組みが学校にも必要だという、当たり前のことに気がつくだろう。