ゆたかな国のマイクロクレジット

「「生活保護で貧困はなくならない」と賢者はいった」でムハマド・ユヌスのことを書いたが、先進国でのマイクロクレジットの実験についてすこし追加しておこう。

バングラデシュのような最貧国でしか機能しないとされてきたマイクロクレジットが先進国でも成功した例としてノルウェイがある。

ノルウェー北部のロフォーテン諸島は深刻な過疎化の問題を抱えていた。オスロなどの大学に行った男の子たちは島に戻って漁師になるが、女の子たちがほとんど戻ってこないのだ。

その原因は、島の生活では女性たちのやることがなにもないからだった。漁師と結婚すると、夫が海から戻ってくるのを待つあいだ、おしゃべりで時間をつぶすくらいしかすることがない。女の子たちが島からいなくなると、男の子たちもどんどん島から離れるようになった。

ところがマイクロクレジットを導入すると、女性たちはローンを使ってセーターを編んだり、アザラシのかたちの文鎮や木彫りのトロール(いたずら好きの小人)をつくったり、さまざまな“ビジネス”をはじめるようになった。

彼女たちの問題は、貧困ではなく孤独だった。マイクロクレジットの「連帯責任」によって、これまでばらばらだった島の女性たちがお互いに支えあい、助言しあうようになった。「借りたお金をみんなで返さなければならない」というルールが、共同体をつくるきっかけになったのだ。

マイクロクレジットはビル&ヒラリー・クリントンによってアメリカにも導入された。

ユヌスはアメリカの生活保護の実態を以下のように描写している。

もしあなたが生活保護の受給者だったら、それは、すべてのドアと窓が固く閉ざされた部屋の中に押し込められ、ドアを開けたり、外に出ようとすることさえできない状態に置かれているようなものだ。つまり、あなたは実質的には囚人のような状態で、貧困に囚われているだけではなく、あなたを助けようとしている人たちによっても囚われているのである。

もし金を手にしたときには、その収入を福祉局に報告しなければならない。彼らはあなたが稼いだ金額を、生活保護の給付額から差し引くのである。そのうえ、あなたはどんな社会事業団体からも、金を借りることは許されていないのである。

(ムハマド・ユヌス&アラン・ジョリ『ムハマド・ユユス自伝―貧困なき世界をめざす銀行家』

 個人主義の進んだアメリカでは「5人組」の連帯責任がうまくいくはずはない、と誰もがいった。

シカゴのスラムでのマイクロクレジットでは、仲間を見つけるために定期的にパーティを開いた。するとスラムの女性たちは、バングラデシュやノルウェーと同じように、グループをつくってお互いに助け合いながらビジネスを始めたのだ。彼女たちのビジネスはコーヒーケーキを焼いたり、パーティでコメディエンヌをしたり、貧困国の女性たちとはまるでちがったものだったが、それでもスラム街には近所同士の強力なネットワークがあり、「連帯責任」が共同体を生み出したのだ。

マイクロクレジットの問題は、これが女性だけのグループに最適な方法だとしても、男性の貧困問題の解決には限界があることだろう。ユヌスも指摘するように、男性と女性を混ぜると、男性が女性を支配しようとしてグループが崩壊する。男性だけの集団では序列(階層)ができて、ボスと手下の関係ができてしまう。これは、男性と女性の集団のつくり方が生得的に異なるからだろう。

とはいえ、先進国でマイクロクレジットが普及しない最大の原因は、それが福祉・生活保護にかかわる公務員やNGOの“既得権”を侵害するからだろう。“かわいそうな貧しいひとたち”にお金を配る仕事がなくなると、このひとたちは用なしになってしまうのだ。

「生活保護で貧困はなくならない」と賢者はいった 週刊プレイボーイ連載(30)

生活保護の受給者が200万人を超えて、戦後の混乱期(1950年)に制度が創設されて以来の最多水準に達しています。生活保護にかかる経費は3兆4000億円を超え、自治体の負担も大きく、このままでは制度自体が崩壊してしまいます。

「自力では生きていけない貧しいひとたち」をいかに救済するかは、どこの国でももっとも議論を呼ぶ問題ですが、ここではノーベル平和賞を受賞したムハマド・ユヌスの意見を紹介しましょう。

バングラデシュの経済学者ユヌスは、“貧者の銀行”と呼ばれるグラミン銀行を創設し、貧困の改善に大きな功績を残しました。バングラデシュは世界でもっとも貧しい国のひとつで、旱魃や洪水などの自然災害が起きると何十万人ものひとが餓死してしまいます。国民の半分は読み書きができず、一人あたりGDPは約700ドルで、日本の65分の1程度しかありません。

ユヌスはこの絶望的な貧困とたたかうために、マイクロクレジットという独創的な融資制度を考案しました。そのポイントは以下の2つです。

1)事業資金を与えるのではなく、利息(年利10~20パーセント)を取って貸し付ける。

2)借り手を5人ひと組にして、連帯責任で返済させる。

驚くべきことに、これまでの援助の常識に反するこの仕組みは、98パーセントの返済率でビジネスとして成立しただけでなく、融資を受けて自営業を始めた借り手たちの生活を大きく改善していったのです。

マイクロクレジットが成功した理由を、ユヌスは明解に説明します。

グラミン銀行の主な顧客は、男尊女卑の伝統的な文化のなかで人間性を奪われていた農村の女性たちです。その境遇がかわいそうだからといって施しを与えても、相手の尊厳を踏みにじるだけで、収入を得ようとする意欲は湧きません。グラミンの顧客たちは、「働いて稼いだお金から返済する」ことで、生まれてはじめて自尊心を得るのです。

そんな彼女たちにとっていちばんの悩みは、夫がお金を取り上げてしまうことです。バングラデシュの文化では、妻のお金は夫のものとされ、家族のなかにだれひとり味方はいません。

しかしこれは、連帯責任を負う「5人組」にとっては大問題です。1人が返済できなくなれば残りの4人が引き受けるしかないのですから、彼女たちは夫に対して猛然と抗議するでしょう。連帯責任は相互監視だけでなく、孤立していた女性たちの助け合いをも可能にしたのです。

ユヌスは、「先進国でも途上国でも貧困は同じだ」といいます。シカゴのスラムでユヌスが見たのは、生活保護に依存して自尊心を失い、家族や友人もなく社会的に孤立した、バングラデシュとまったく同じひとたちでした。援助によって途上国の貧困が改善できなかったように、生活保護で都市の貧困がなくならないのも当然のことなのです。

こうしてユヌスは、先進国の政策担当者にマイクロクレジットを導入するよう提言します。

世界の偉人のなかで、でユヌスほど貧困について真剣に考え、実践した人物はいないでしょう。しかし不思議なことに、日本も含め、ユヌスの言葉に耳を傾ける「ゆたかな国」はどこにもないのです。

参考文献:ムハマド・ユヌス&アラン・ジョリ『ムハマド・ユユス自伝―貧困なき世界をめざす銀行家』

 『週刊プレイボーイ』2011年12月5日発売号
禁・無断転載

書評:東浩紀『一般意志2.0』

話題になっている東浩紀『一般意志2.0』をとても興味深く読んだので、その感想を書いておきたい。

本書のいちばんの美点は、きわめて平易かつ明晰に書かれていることだ。私のような哲学の専門外の者でも、著者の思考の航跡を正確に追っていくことができる。

すでのたくさんのレビューが出ているが、東氏はここで、「複雑になりすぎた現代社会では、ひとびとが集まって熟議によってものごとを決める理想的な民主主義はとうのむかしに不可能になった」と指摘したうえで、そのことを前提として、熟議なしでも機能するアップデートされた政治制度(民主主義2.0)や国家(統治2.0)の可能性を論じている。

本書についての議論は、東氏が「ツイッター民主主義」と名づけたような、SSNを組み込んだ政治制度(アーキテクチャ)がほんとうに機能するのか、ということに集まるのだろう。だが私にとって本書のもっとも美しい場面は、東氏の語る「夢」が、ロバート・ノージックの『アナーキー・国家・ユートピア』と出会う瞬間だった。

ノージックの本は“リバタリアニズムの古典”とされているが、それが「夢」について書かれたものであることはあまり言及されることがない。

東氏が簡潔に説明しているように、ノージックはここで、「ユートピアのためのフレームワーク」を構想している。

近代というのは、地縁・血縁の伝統的な共同体を離れ、一人ひとりが「自立した個人」として生きることを余儀なくされた時代のことだ。しかしその一方で、ひとは社会的な動物であり、だれもがなんらかの共同体(コミュニティ)に属さなければ生きていくことができない(ひとは一人では生きていけない)。共同体は構成員を拘束し、自由を奪うが、その代わりに安全や帰属意識(アイデンティティ)といった大切なものを与えてもくれるのだ。

だからノージックは、共同体を否定するのではなく、いかにしたら個人の自由と共同体の掟が共存できるかを考えた。

ノージックが国家を否定したのは、それが共同体としては大きすぎ、構成員(国民)を過剰に拘束するからだ。多様な価値観を持つ国民を国家というひとつの器に収めようとすれば、かなりの無理を強いなければならず、それに抵抗するひとたちは排除されてしまう。

そこでノージックは、国家は共同体ではなく、たんなるフレームワーク(枠組)であるべきだと考えた。その枠組は、基本的人権や私的所有権の保護などの基本ルール(憲法)と、外交や治安維持のような最低限の安全保障(暴力の独占)でつくられていて、それ以外の価値観に対しては中立だ。

ひとびとはこの枠組のなかで、宗教的・政治的・文化的な共同体を自由につくることができる。だがそこには、ひとつ大事な原則がある。どのような共同体も、本人の意思で自由に退出できることだ。

この約束事さえ守られていれば、ひとびとは最小国家(フレームワーク)のなかで、さまざまなユートピアを試してみることが許されている。ノージックは、「ユートピアの自由市場」を構想したのだ。

私は十数年前にノージックの本をはじめて読んだとき、この“ユートピア思想”に大きな衝撃を受けた。マルクス主義の「夢」が無残に潰えた後、ノージックの語る「フレームワークとしての国家」だけが、実現可能なユートピアへの道を指し示していると思えたからだ。

しかし残念なことに、この国ではノージックの「夢」はほとんど理解されず、「ネオリベ(新自由主義)」や「ネオコン(新保守主義)」や「グローバリズム」という言葉とともに、リバタリアニズムは弱肉強食の世界における強者の論理として、“国家の品格”を汚す唾棄すべき思想として打ち捨てられてしまった。

『一般意志2.0』において、若いひとたちに大きな影響力を持つ思想家が、リバタリアニズムの「夢」をゴミ箱の底から拾い出し、自らの「夢」と接続して、その大きな(あるいは荒唐無稽な)可能性を正当に評価してくれた。

この魅力的な本を読みながら、ユートピア(夢)にこころを震わせたむかしの自分をひさしぶりに思い出した。そんな体験をさせてくれたことを感謝したい。