第8回 ほんとうは幸福だった20年?(橘玲の世界は損得勘定)

用事があって九州の地方都市に出かけた。ホテルに着いて、着替えの下着を忘れたことに気がついたので、近くのスーパーに買いにいった。

都合のいいことに、入口の横で下着類の特売をしていた。Vネックのメッシュの半袖シャツ(フィリピン製)2枚組580円が480円に値引きされていて、それがさらに半額になっていた。支払額は240円、シャツ1枚あたりわずか120円だ。

そのあとスーパーの中を覗いてみたのだが、ワインのフルボトルは500円前後のものがほとんどで、いちばん高いオーストラリアワインが1050円だった。アーモンドやカシューナッツなどは1袋98円のコーナーに並んでいた。経営者は、それ以上高いものを置いても意味がないと考えているようだった。

80年代に東南アジアを旅行すると、物価の安さに度肝を抜かれた。バブルの頃は、若いOLが週末を利用して香港やシンガポールにブランドものを買いにいくのが当たり前だった。OECD(経済協力開発機構)の統計を見ても、当時の日本は世界でいちばん物価の高い国で、住居費や食費、衣料費、水道光熱費などなにからなにまで国際平均の倍以上した(アメリカと比べると3倍以上だった)。

ところが90年代になると、日本の物価が上がらなくなった(というか、下がりはじめた)。これによって海外との価格差も縮小していったのだが、私がこのことにはじめて気づいたのは、世紀が変わる頃に、日本にブランドショッピングに行く香港女性に会ったときだった。「日本のほうが安い」という言葉は衝撃だったが、それから10年もしないうちに、香港や台湾だけでなく、中国本土からもたくさんの観光客が日本に買い物にやってくるようになった。

1ドル=120円台の円安だった4年ほど前は、オーストラリアなどに移住した日本人のUターンが相次いだ。値上がりした現地の不動産を売却して日本に戻れば、これまでよりずっといい暮らしができたのだ。

私が大学入学で東京に出てきた70年代末は、食堂の定食が500円前後だった。それから30年たった現在、ビジネス街を歩けばランチ500円の看板をあちこちでみかける。ジーンズは1本4000円以上したが、いまでは1980円だ。統計上の物価指数は上がっているものの、生活必需品のコストは逆に下がっているのだ。

1990年の大卒初任給は約17万円。それが2000年代になって約20万円になったから、所得は2割ちかく増えている。生活費がほとんど変わらないとすると、「失われた20年」で日本人はゆたかになったことになる。

日本で暴動やデモが起きないのも、日本人が内向きで海外に行きたがらないのも、この(相対的な)ゆたかさを考えれば当たり前だ。後世の歴史家は、この時代を「希望はないが、ほんとうは幸福だった20年」と呼ぶかもしれない。

ただしその代償として、私たちは1000兆円を超える莫大な国の借金を背負うことになったのだけれど。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.8:『日経ヴェリタス』2011年10月16日号掲載
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あなたの隣にいるエイリアン 週刊プレイボーイ連載(23)

人類の遺伝子をたどると、約20万年前のアフリカの女性にたどり着くといいます。サバンナで生まれた人類(ホモ・サピエンス)の祖先は、約5万年前に故郷を捨ててアジアやヨーロッパ、南北アメリカからオーストラリアまで広がっていきました。

その後、ヨーロッパ北部に移住したヒトは、短い日照時間にあわせて皮膚のメラニン色素を減らし、白い肌に進化しました。アジアに移住したヒトのメラニン色素は、やはり日照時間に応じて、白人と黒人の中間あたりに落ち着きました。このようにして、数万年のあいだに白人、黒人、黄色人種のちがいが生まれたと考えられています。

いうまでもなく、人種差別はこの世界が抱えるもっとも大きな問題のひとつです。つい100年ほど前までは、黒人やインディアン(ネイティブアメリカン)はヒトではなく、殺したり奴隷にしたりしてもかまわないと思われていました。アジアの黄色人種は、黒人から白人へと「進化」する中間段階で、「半人間」として扱うべきだとされていました。人種についてのこうした誤解がどれほど多くの悲劇を生んできたかは、あらためて述べるまでもありません。

じつは私たちは、肌や髪、目の色のちがいよりもずっと見知らぬヒトと日常的に接しています。それが、男にとっての女(あるいは女にとっての男)です。

最近の研究では、男と女はたんに生殖機能が異なるだけでなく、脳の構造もちがっていることがわかっています。

たとえば男性の言語機能は左脳に集中していて、脳卒中でこの部分が損傷するとたちまち話せなくなってしまいますが、女性の場合は言語能力がかなりの程度維持されます。逆に男性は、右脳が損傷を被っても言語能力に影響はありませんが、女性は言語性IQが明らかに低下します。これまでの常識とはちがって、女性は話すために脳の両方を使っているのです。

さらに男性と女性では、見ているものまでがちがっているかもしれません。

目の網膜は光を神経シグナルに変換する仕組みですが、視野の中央と周辺では異なる神経節細胞がはたらいています。中心部にあるP細胞は色や質感などの情報を集め、周辺部のM細胞はものの動きを検知します。そして、男性の網膜は主にM細胞(動きと方向)が分布するのに対し、女性の網膜はP細胞(色と質感)で占められているのです。

この単純な網膜の構造のちがいから、女の子が赤やオレンジといったカラフルな色が好きで、質感に富んだ人形で遊びたがる理由がわかります。逆に男の子は、色にはほとんど興味を示さず、トラックや飛行機など動くものに強く引かます。

「男女平等」の思想によって、これまで男と女のちがいは文化的なものだと考えられてきました。しかしこうした研究は、性差が生得的なものであることを示唆します。チンパンジーの子どもを観察すると、オスは車のおもちゃ、メスは人形で遊びたがるのです。

もちろんこのことは、男女差別は当然だ、ということを意味しません。たとえ脳の構造がちがっていても、男と女は努力してわかりあおうとします。

私たちがすぐ隣にいるエイリアンと共生できるのなら、たんに肌の色がちがうだけの人々がわかりあえないはずはないのです。

参考文献:レナード・サックス『男の子の脳、女の子の脳』

 『週刊プレイボーイ』2011年10月17日発売号
禁・無断転載

来るべき時代の衝撃に備えて、国家と個人のリスクを切り離せ(『週刊ダイヤモンド』2011/10/08号)

『週刊ダイヤモンド』2011/10/08号に掲載された「来るべき時代の衝撃に備えて、国家と個人のリスクを切り離せ」を編集部の許可を得てアップします。

アテネの話については、下記のエントリーもあわせてご参照ください。

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国家が破産したら、私たちの人生はどのように変わるのだろう。それを知りたくて、昨年の暮れに財政破綻の街アテネを訪れた。

バスや地下鉄など公共交通機関は、ストライキですべて止まっていた。どこも大渋滞で、繁華街の道路にはタクシーに相乗りしようとするひとたちが溢れていた。

国会議事堂前の広場にはデモ隊が集結していた。そのなかに、黒の目だし帽や防毒マスク姿の「黒覆面団」と呼ばれる過激派の学生たちがいる。デモはいたって平和的に行なわれるが、それだけではインパクトがないので、彼らが外国の報道機関のために、警官隊に向かって火炎瓶を投げたり、ゴミ箱に火をつけたりするパフォーマンスを行なうのだ。

とはいえ、アテネの日常はテレビカメラには映し出されないところにあった。

国会議事堂広場のすぐ隣にある高級ホテルでは、正装した男女がシャンパングラスを傾けていた。アクロポリスの丘には夕陽を眺める恋人たちが集まり、皮を剥がれたトリやブタが所狭しと並ぶ中央市場は夕食の支度を急ぐ主婦でごった返していた。

だが繁華街からすこし離れると、街の風景は一変する。

アテネ工科大学の周辺はジャンキー(薬物中毒者)の溜まり場で、うつろな目をした男たちが昼間から夢遊病者のように徘徊していた。道端でエビのように身体をまるめ、小便を漏らしながら、注射器を手に化石のように動かなくなった男がいる。

国の経済危機は、内乱や戦争のようにすべてのひとを極限状況に追いやるわけではない。財政が破綻しても、ほとんどのひとは(これまでより貧乏になるかもしれないが)なんとか生きていけるだろう。資産の大半を国外で運用している富裕層のように、なんの影響も受けないひとたちもいる。

しかしその一方で、失業率の上昇や年金など社会保障費の削減、高率のインフレは経済的弱者を直撃する。国家の経済的な破綻は、格差の拡大というかたちで現実化するのだ。

 国家の破産で確実に起きる高金利・円安・インフレ

民主政治(デモクラシー)では落選した政治家は無価値だから、彼らの最大の関心事は選挙に有利な政策をアピールすることだ。どのような高邁な理想も、権力を握らなければなにひとつ実現できないのだから、原理的に、すべての政治家はこの罠から逃れられない。

官僚制の本質は、それぞれの省庁や部門が予算と権限をめぐって争うことだ。これはピラミッド型組織の宿命で、権限がなくなればポストは減らされ、組織からはじき出されてしまう。どれほどの憂国の士でも、自分と家族の生活を守らなければならないのだから、縄張り争いに勝ち残るため必死になるほかはない。

合理的な政治家や官僚にとって、もっとも好都合なのは国家の財政規模が拡大していくことだ。予算が増えれば官僚の権限(パイ)は大きくなり、省庁間や省庁内の抗争は緩和される。政治家はその予算を選挙区に還元することで、次の選挙を有利にたたかうことができる。このメカニズムは万国共通で、その結果、民主政国家では国債の発行がとめどもなく膨らんでいく。

この仕組みにはじめて気づいたのは経済学者のジェームズ・ブキャナンで、彼は政治家も官僚も国民も自分がいちばん大事なのだから、憲法で負債の上限を制限する以外、財政爆発を防ぐ方法はないと考えた。

民主党はかつて、予算の組み換えと行政改革で20.5兆円の財源を確保すると高らかにうたったが、それはいつのまにかどこかにいってしまった。マニュフェストには「国家公務員の総人件費2割削減」が掲げられているが、最近は話題にすらならない。東日本大震災の復興には、原発事故の賠償費用を除いても約16兆円の財源が必要とされているが、増税案にはさっそく民主党内からはげしい反発が起きている。

こうして、「財政健全化」を叫びながら、税収が国家の歳出の6割強しかないという異常事態が当たり前になってしまった。当然のことながら、こんなことがいつまでも続けられるはずはない。

東日本大震災で目にした日常基盤の突然の喪失

経済大国のドイツと発展途上国のギリシアが共通通貨を使うことの矛盾は、ユーロ誕生のときから指摘されてきた。しかし経済学者の警告にもかかわらずユーロの信任は世界金融危機まで維持され、それ以降もECB(ヨーロッパ中央銀行)の懸命の努力でギリシアのデフォルトやユーロ脱退は回避されている。

このように、理論的には確実に起こるとわかっていても、それがいつどのようなかたちで現実化するかを予想することはきわめて難しい。

日本の財政危機もこれと同じで、無限に借金をすることができないとしても、その限界が10年後なのか、5年後なのか、それとも明日なのかは誰にもわからない。

「国家破産」にはもうひとつ、それが起きたらどうなるかが正確に予測できるという特徴がある。

日本国の財政が破綻したら、理論的に、以下の3つの経済事象が発生する(これ以外のことは起きない)。

  1. 国債価格の暴落にともなう金利の大幅な上昇。
  2. 通貨が信任を失うことによる円安。
  3. 高金利と円安が引き起こす高率のインフレ。

すなわち「国家破産」後の日本は、「低金利・円高・デフレ」の現在とまったく逆の世界になるのだ。

もっとも、このすべてが同時に起きるわけではない。

最初の徴候は、国債価格が下落して金利が上昇することだ。これは財政破綻の定義で、低金利のまま円安になったり、物価が上昇したりしても、景気の回復や国の債務の減少につながるから財政破綻の引金が引かれることはない。

さらに、金利が上昇しはじめてもすぐにインフレや円安が起こるわけではない。為替市場では逆に、高金利で海外からの円買いが進み、短期的にはさらなる円高になる可能性もある。

国債価格が暴落すれば、膨大な国債を保有する金融機関は時価評価で大幅な債務超過になってしまう。本格的な円安やインフレは、この壊滅的な金融危機の後にやってくるだろう。

財政破綻に備えるには、これらの経済事象に対してあらかじめ適切な保険をかけておけばいい。国債先物を売ったり、商品指数ETFを購入したり、銀行株を空売りしたり、さまざまな方法があるだろうが、もっとも簡単なのは外貨建て資産を一定程度保有することだ(その具体的な方法については近著『大震災の後で人生について語るということ』で書いているので、合わせて参考にしてほしい)。

農耕社会では、祖先から土地を受け継ぎ、それが子孫へと伝えられていく。土地を奪われれば死ぬしかないのだから、土地と人生はつねに一体化していた。その延長で、私たちはごく自然に、国家と自分の運命を同一視してしまう。

日本の財政赤字は1000兆円を超え、巷には「国家破産」の予言があふれている。だが、国家の破産はただちに個人の破滅を意味するわけではない。

年金しか生きる術のないひとたちは、国家に経済的に依存している。資産の大半が日本円なら、ひとたび円が信用を失えばその価値は大きく毀損してしまうだろう。東日本大震災で目にしたように、世界は不確実で、日常の基盤はふいに失われてしまうのだ。

だとしたら私たちにいま必要なのは、国家のリスクを個人のリスクから切り離すことだ。日本の政治に人生のすべてを託すことができないのなら、それが来るベき衝撃に備える唯一の方法になるだろう。

 『週刊ダイヤモンド』2011/10/08号
禁・無断転載