来るべき時代の衝撃に備えて、国家と個人のリスクを切り離せ(『週刊ダイヤモンド』2011/10/08号)

『週刊ダイヤモンド』2011/10/08号に掲載された「来るべき時代の衝撃に備えて、国家と個人のリスクを切り離せ」を編集部の許可を得てアップします。

アテネの話については、下記のエントリーもあわせてご参照ください。

*                   *                   *                   *                   *                   *                   *                   *

国家が破産したら、私たちの人生はどのように変わるのだろう。それを知りたくて、昨年の暮れに財政破綻の街アテネを訪れた。

バスや地下鉄など公共交通機関は、ストライキですべて止まっていた。どこも大渋滞で、繁華街の道路にはタクシーに相乗りしようとするひとたちが溢れていた。

国会議事堂前の広場にはデモ隊が集結していた。そのなかに、黒の目だし帽や防毒マスク姿の「黒覆面団」と呼ばれる過激派の学生たちがいる。デモはいたって平和的に行なわれるが、それだけではインパクトがないので、彼らが外国の報道機関のために、警官隊に向かって火炎瓶を投げたり、ゴミ箱に火をつけたりするパフォーマンスを行なうのだ。

とはいえ、アテネの日常はテレビカメラには映し出されないところにあった。

国会議事堂広場のすぐ隣にある高級ホテルでは、正装した男女がシャンパングラスを傾けていた。アクロポリスの丘には夕陽を眺める恋人たちが集まり、皮を剥がれたトリやブタが所狭しと並ぶ中央市場は夕食の支度を急ぐ主婦でごった返していた。

だが繁華街からすこし離れると、街の風景は一変する。

アテネ工科大学の周辺はジャンキー(薬物中毒者)の溜まり場で、うつろな目をした男たちが昼間から夢遊病者のように徘徊していた。道端でエビのように身体をまるめ、小便を漏らしながら、注射器を手に化石のように動かなくなった男がいる。

国の経済危機は、内乱や戦争のようにすべてのひとを極限状況に追いやるわけではない。財政が破綻しても、ほとんどのひとは(これまでより貧乏になるかもしれないが)なんとか生きていけるだろう。資産の大半を国外で運用している富裕層のように、なんの影響も受けないひとたちもいる。

しかしその一方で、失業率の上昇や年金など社会保障費の削減、高率のインフレは経済的弱者を直撃する。国家の経済的な破綻は、格差の拡大というかたちで現実化するのだ。

 国家の破産で確実に起きる高金利・円安・インフレ

民主政治(デモクラシー)では落選した政治家は無価値だから、彼らの最大の関心事は選挙に有利な政策をアピールすることだ。どのような高邁な理想も、権力を握らなければなにひとつ実現できないのだから、原理的に、すべての政治家はこの罠から逃れられない。

官僚制の本質は、それぞれの省庁や部門が予算と権限をめぐって争うことだ。これはピラミッド型組織の宿命で、権限がなくなればポストは減らされ、組織からはじき出されてしまう。どれほどの憂国の士でも、自分と家族の生活を守らなければならないのだから、縄張り争いに勝ち残るため必死になるほかはない。

合理的な政治家や官僚にとって、もっとも好都合なのは国家の財政規模が拡大していくことだ。予算が増えれば官僚の権限(パイ)は大きくなり、省庁間や省庁内の抗争は緩和される。政治家はその予算を選挙区に還元することで、次の選挙を有利にたたかうことができる。このメカニズムは万国共通で、その結果、民主政国家では国債の発行がとめどもなく膨らんでいく。

この仕組みにはじめて気づいたのは経済学者のジェームズ・ブキャナンで、彼は政治家も官僚も国民も自分がいちばん大事なのだから、憲法で負債の上限を制限する以外、財政爆発を防ぐ方法はないと考えた。

民主党はかつて、予算の組み換えと行政改革で20.5兆円の財源を確保すると高らかにうたったが、それはいつのまにかどこかにいってしまった。マニュフェストには「国家公務員の総人件費2割削減」が掲げられているが、最近は話題にすらならない。東日本大震災の復興には、原発事故の賠償費用を除いても約16兆円の財源が必要とされているが、増税案にはさっそく民主党内からはげしい反発が起きている。

こうして、「財政健全化」を叫びながら、税収が国家の歳出の6割強しかないという異常事態が当たり前になってしまった。当然のことながら、こんなことがいつまでも続けられるはずはない。

東日本大震災で目にした日常基盤の突然の喪失

経済大国のドイツと発展途上国のギリシアが共通通貨を使うことの矛盾は、ユーロ誕生のときから指摘されてきた。しかし経済学者の警告にもかかわらずユーロの信任は世界金融危機まで維持され、それ以降もECB(ヨーロッパ中央銀行)の懸命の努力でギリシアのデフォルトやユーロ脱退は回避されている。

このように、理論的には確実に起こるとわかっていても、それがいつどのようなかたちで現実化するかを予想することはきわめて難しい。

日本の財政危機もこれと同じで、無限に借金をすることができないとしても、その限界が10年後なのか、5年後なのか、それとも明日なのかは誰にもわからない。

「国家破産」にはもうひとつ、それが起きたらどうなるかが正確に予測できるという特徴がある。

日本国の財政が破綻したら、理論的に、以下の3つの経済事象が発生する(これ以外のことは起きない)。

  1. 国債価格の暴落にともなう金利の大幅な上昇。
  2. 通貨が信任を失うことによる円安。
  3. 高金利と円安が引き起こす高率のインフレ。

すなわち「国家破産」後の日本は、「低金利・円高・デフレ」の現在とまったく逆の世界になるのだ。

もっとも、このすべてが同時に起きるわけではない。

最初の徴候は、国債価格が下落して金利が上昇することだ。これは財政破綻の定義で、低金利のまま円安になったり、物価が上昇したりしても、景気の回復や国の債務の減少につながるから財政破綻の引金が引かれることはない。

さらに、金利が上昇しはじめてもすぐにインフレや円安が起こるわけではない。為替市場では逆に、高金利で海外からの円買いが進み、短期的にはさらなる円高になる可能性もある。

国債価格が暴落すれば、膨大な国債を保有する金融機関は時価評価で大幅な債務超過になってしまう。本格的な円安やインフレは、この壊滅的な金融危機の後にやってくるだろう。

財政破綻に備えるには、これらの経済事象に対してあらかじめ適切な保険をかけておけばいい。国債先物を売ったり、商品指数ETFを購入したり、銀行株を空売りしたり、さまざまな方法があるだろうが、もっとも簡単なのは外貨建て資産を一定程度保有することだ(その具体的な方法については近著『大震災の後で人生について語るということ』で書いているので、合わせて参考にしてほしい)。

農耕社会では、祖先から土地を受け継ぎ、それが子孫へと伝えられていく。土地を奪われれば死ぬしかないのだから、土地と人生はつねに一体化していた。その延長で、私たちはごく自然に、国家と自分の運命を同一視してしまう。

日本の財政赤字は1000兆円を超え、巷には「国家破産」の予言があふれている。だが、国家の破産はただちに個人の破滅を意味するわけではない。

年金しか生きる術のないひとたちは、国家に経済的に依存している。資産の大半が日本円なら、ひとたび円が信用を失えばその価値は大きく毀損してしまうだろう。東日本大震災で目にしたように、世界は不確実で、日常の基盤はふいに失われてしまうのだ。

だとしたら私たちにいま必要なのは、国家のリスクを個人のリスクから切り離すことだ。日本の政治に人生のすべてを託すことができないのなら、それが来るベき衝撃に備える唯一の方法になるだろう。

 『週刊ダイヤモンド』2011/10/08号
禁・無断転載 

「黄金の扉を開ける賢者の海外投資術」が文庫化されました

2008年にダイヤモンド社から刊行された『黄金の扉を開ける賢者の海外投資術』が文庫化されました(10月20日発売です)。

金融の世界で、Web2.0に匹敵する、「金融2.0」とでも呼ぶべき大きな変化が起きていることを述べた本です。ちなみに現在は、Web2.0(FacebookやTwitter)と金融2.0は同じコインの裏表で、情報=コミュニケーション空間の変容というかたちで私たちの世界を大きく変えていくのだろうと考えています。

文庫版の前書きをアップしておきます。

*                   *                   *                   *                   *                   *                   *                   *

本書の親本が出版されたのは2008年3月で、前年に起きた米国のサブプライム危機は小康を保ち、ニューヨーク株価もなんとか1万2000ドル台を保っていた。為替レートは07年6月の1ドル=124円から大きく円高に振れたが、それでも1ドル100円を維持していた。「市場の専門家」と呼ばれるひとたちは、サブプライム問題は徐々に収束に向かい、年の後半には景気は持ち直すだろうと予測していた。

ところが同年5月にベアスターンズが破綻すると、市場は金融機関の抱えたリスクの大きさに怯え、9月には大手投資銀行の一角を占めていたリーマン・ブラザーズが破綻し、世界規模の信用収縮が引き起こされた。

この「世界金融危機」により、ニューヨーク株価は2009年3月に6600ドル台まで暴落し、1ドル=90円を超える水準まで円高が進んだ。日経平均も、08年10月にバブル後最安値となる7000円割れを記録した。

アラン・グリーンスパン元FRB議長は、これを「100年に一度の経済危機」と呼んだが、案に相違して市場は早期に立ち直り、ニューヨーク株価は09年末には1万ドル台を回復して、11年4月には1万3000ドルに迫った。新興市場の勢いはさらに強く、BRICsや南アフリカ株は金融危機前の水準に戻り、いまや景気の過熱が危惧されている。それに対して日本株は、東日本大震災の影響もあって日経平均1万円前後を低迷し、為替レートは1ドル=76円台の史上最高値に達した。

親本の発行からわずか3年半で、世界の姿は大きく変わってしまった。もっとも私がこの本で書いたのは市場予測ではなく、金融市場の原理や仕組みなので、株価や為替レートによって論旨が変わることはない。

「超円高」の原因は、ギリシア危機に端を発するユーロ崩壊への不安と、ティーパーティーの極端な財政保守主義を制御できないオバマ政権への信任不安だとされる。だがその一方で、日本の財政は1000兆円を超える未曾有の赤字を抱え、少子高齢化と低成長でその持続性が危ぶまれている。

このような複雑な状況では、万人のための普遍的な資産運用必勝法などは存在しない。自分の資産は自分で守るしかない。他人と同じことをやっていては生き残れない。だからこそ、金融市場や金融商品についての正しい知識が必要になるのだ。

本書で繰り返し指摘するように、いま、市場のグローバル化とICT(情報通信技術)の急速な発達によって、「金融2.0」とでもいうべき世界史的な変化が進行している。世界金融危機も、タックスヘイヴンをめぐる政治的混乱も、すべては同じ主旋律の変奏曲だ。

「金融2.0」は、個人投資家に機関投資家と同等の投資機会とリスク管理の方法を提供すると同時に、金融市場全体のリスクを増幅し、暴騰や暴落を頻発させる。これまで「資産運用の王道」とされてきた数々の常識は、この未来世界では通用しないのだ。

ひとつの会社で定年まで勤め上げ、老後は年金に頼って生活する旧来の人生設計モデルは崩壊してしまった。これからは、フィナンシャルリテラシー(金融知識)の有無が人生を左右する時代がやってくるだろう。

なお、文庫化にあたって株価や為替レートなどの数字を最新のものに改めた。また親本と大きく状況が変わった部分については、適宜、註で補った。

もちろん、私たちが体験した最大の衝撃が東日本大震災と福島第一原発事故なのはいうまでもない。これについては、『大震災の後で人生について語るということ』(講談社)をお読みいただければ幸いです。

2011年9月 橘 玲

決断できない世界 週刊プレイボーイ連載(22)

日本人は決断できない、とよく言われます。米国務省の元日本部長が書いた『決断できない日本』という本もよく売れているようです。

この本によれば、福島原発事故の直後、米国が無人ヘリなどの支援リストを送ったところ、日本の官僚は「放射能で汚染された場合の補償はどうなるのか」という問合せを返してきたといいます。85年の御巣鷹山への日航機墜落事故でも、米軍は即座に、夜間行動可能なヘリの出動を申し出ましたが、日本政府はこれを断わりました。翌日、奇跡的に救出された少女は、「暗くなる前にはたくさんのひとの声を聞いた」と証言しています。

全員の合意がなければなにも決められない日本人の特徴は、世界でもひろく知られています。これはもちろん事実ですが、しかしだからといって日本人が特殊だということにはなりません。そもそも決断というのは、原理的に不可能なものかもしれないのです。

決断というのは、利害が対立する局面において、一方の主張を強制的に排除することです。当然、否定された側は恨みを抱き、はげしく反撃します。決断した人間はそれに耐えなくてはなりません。これが、「決断には責任がともなう」ということです。

ここで、典型的な農耕社会を考えてみましょう。私の土地の隣にはあなたの土地があり、この物理的な位置関係は(戦争や内乱がないかぎり)未来永劫変わりません。あなたは生まれたときから私の隣人で、二人が死んだ後も、私の子孫とあなたの子孫は隣人同士です。

農村では、灌漑や稲刈り、祭りなど、村人が共同で行なうことがたくさんあります。そんなとき、一部のひとだけが損失を被るような「決断」をすると、それ以降、彼らはいっさいの協力を拒むでしょう。これでは、村が壊れてしまいます。

このことから、土地にしばりつけられた社会では、「全員一致」以外の意思決定は不可能だということがわかります。もちろんときには、誰かに泣いてもらわなければならないこともあるでしょうが、そんなときは、村長(長老)が、この借りは必ず返すと約束することで納得させたのです。

近代以前は、ユーラシア大陸(旧世界)のほとんどが農耕社会でした。中世のヨーロッパにおいても、ものごとは全員一致で決められ、それが無理な場合は、多数決ではなく戦争で決着させたのです。

それでは、多数決による決断はどのようなときに可能になるのでしょうか。

もっとも重要なのは、意に沿わない決定を下された少数派が自由に退出できることです。農耕社会では土地を失えば死ぬしかありませんから、そもそもこの選択肢が存在しません。

古代ギリシアは、地中海沿岸の地形が複雑で、共同体(ポリス)は山や海で分断され、ひとびとは交易で暮らしを立てていました。ポリスを移動することも比較的自由で、文化や習慣、言語が異なるひとたちとの交流も当たり前でした。弁論によって相手を説得し、最後は多数決で決断するきわめて特殊な文化は、このような環境から生まれたのです。

これがけっして普遍的なものでないことは、現代のギリシア人がデモに明け暮れ、政府がなにひとつ決断できないことを見ても明らかでしょう。ユーロ危機のEUも、加盟国すべての合意がなければなにも決められません。

日本だけでなく、「決断できない世界」がさらに大きな問題となっているのです。

『週刊プレイボーイ』2011年10月10日発売号
禁・無断転載