世界の秘密はすべて解けてしまった

新刊『不愉快なことには理由がある』から、PLOLOGUE「世界の秘密はすべて解けてしまった」の冒頭部分を掲載します。

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私たちの感情は、幸福や哀しみも、愛や憎しみも、歓喜や絶望もすべて科学的に説明できるといわれたらどう思うでしょう?

政治も経済も、独裁や戦争や虐殺ですら、この世界で起きているすべてのことはその理由が解明されていたとしたらどうでしょう。

あるいは、社会学や経済学だけでなく、心理学や哲学、文学に至るまで、人文・社会科学と呼ばれていた学問は、すべて科学の統一原理によってまとめられることを知っていましたか?

じつはこれは、SFの世界の話ではなく、すべて現実に起きていることです。より正確には、「こころとはなにか」が科学によって解明できるようになってきた、ということですが。

もちろんあなたは、こんな与太話を信じようとはしないでしょう。でも、もうすこしつきあってください。

なんでこんなことに気づかなかったのか?

グーテンベルクの印刷機やワットの蒸気機関、ニュートンの万有引力の法則やアインシュタインの相対性理論など、私たちの生活や世界の見方を根本から変えてしまうような発明や発見はいくつもあります。これを「パラダイム(枠組み)転換」といいますが、そのなかでも最大の発見のひとつがチャールズ・ダーウィンの進化論です。

世界には、宗教的な理由から進化論を認めないひとたちがたくさんいますが、一神教の教義から自由な日本人は、多種多様な生き物が40億年前に誕生した単細胞生物から進化したことや、ヒトの祖先とチンパンジーやボノボの祖先が共通していることを常識だと思っています。しかしこれは、進化論の持つ途方もない可能性のごく一部でしかありません。

進化論というのは、「子孫を残すことに成功した遺伝子が次世代に引き継がれる」という理論です。これをもっと簡単にいうと、「生き残ったものが生き残る」というだけのことで、ダーウィンの『種の起源』を読んだ当時の知識人たちが、「なんでこんなことに気づかなかったのか」と愕然としたのもよくわかります。

その後、進化論は個体だけでなく、社会や文明も進化していくという社会進化論に拡張され、それが人種差別を正当化し、ナチス・ドイツによるホロコースト(ユダヤ人虐殺)へとつながったとの反省から、厳しい批判にさらされました。現代の進化論は、そうした批判に一つひとつ科学的にこたえていくことで鍛えられていったのです。

1970年代に、進化論は生物学や遺伝学、ゲーム理論などの最新の研究成果を取り入れた進化生物学(社会生物学)となり、90年代には進化によってひとの感情(こころ)を説明しようとする進化心理学へと発展しました。

こうした現代の進化論の成果を大衆に広めたのがイギリスの動物行動学者リチャード・ドーキンスで、「利己的な遺伝子」は世界的な流行語になりました。

ドーキンスは、進化するのは遺伝子(のプログラム)で、生物は遺伝子のたんなる乗り物(ビークル)に過ぎないと説きます。もちろんこれは、遺伝子に進化への意志があるわけではなく、「生き残ったものが生き残る」という単純な原理によって、より環境に適した遺伝的プログラムが次世代に引き継がれるというだけのことです。

進化論を「利己的Selfish」な遺伝子の立場から説明することは、レトリックとしてはきわめて優れていますが、同時に、遺伝子が人間を支配しているかのような多くの誤解を招きました。ドーキンスは進化の仕組みを「盲目の(意識を持たない)時計職人」とも評していますが、こちらの言葉はまったく流行りませんでした。

進化心理学では、キリンの首が長くなるような身体的特徴だけでなく、人間のこころや感情も、より多くの子孫を残すように進化してきたと考えます。しかしこれも、まったく奇異な主張をしているわけではありません。

母親の子どもへの愛情を考えてみましょう。

子どもを愛さない遺伝的プログラムが突然変異で現われたとしても、このプログラムを搭載した個体はうまく子どもを育てることができませんから、その遺伝子は次世代に引き継がれることなく途絶えてしまいます。それに対して、子どもに対する愛情が強いほど多くの子孫を残せるとしたら、長い進化の過程で母親の愛情は強化されていくにちがいありません。

爬虫類には「家族」という概念がなく、近くに子どもがいるとエサとして食べてしまいます。そのため、タマゴから孵ったばかりの幼い爬虫類は、できるだけ早くその場から逃れるようプログラムされています。

一方、哺乳類や鳥類は、親が自分の子どもを認識して、エサを与えるなどの養育行動をとることで子孫を増やすよう進化してきました。そのなかでもヒトはこころを持っているので、この養育本能を「愛」と解釈するのです。

しかしだからといって、母親の愛が無窮だというわけではありません。遺伝子のプログラムがより多くの子孫を効率的に残すことだとすれば、母親は兄弟姉妹のなかで大きく美しい子どもを愛する(優先的に養育する)でしょう。さらには、生まれたばかりの赤ん坊は世話をしなければ死んでしまいますから、「投資」をムダにしないためには、乳幼児を溺愛し、年上の子どもは邪険に扱う(自力で食料を獲得させる)はずです。

このことから、「現代社会では母性本能がこわれてしまった」などという主張がまったくのデタラメだとわかります。児童虐待が再婚した母子家庭に多いことは統計的に明らかですが、継父が血のつながらない子どもに暴力を振るうのも、母親が新しい夫(愛人)をつなぎとめるために子どもを虐待するのも、すべて進化論的に説明可能です。母親の愛はそもそも完全無欠ではなく、たった1世代や2世代の出来事が40億年の進化の歴史に影響を与えるはずはないのです。

どれほど修行しても解脱できない

進化心理学は超強力な説明原理なので、“こころの問題”を一刀両断に解明してしまいます(それに納得するかどうかは別問題です)。

眠っているとき以外は、ひとはいつもあれこれ思い悩んで暮らしています。じつは私たちは、人生の大半をシミュレーションに費やしています。

学校に行けば、好きな男の子(女の子)の後ろ姿を見て、誕生日にプレゼントを渡したら受け取ってもらえるだろうかと考えます。

会社では、新商品をいくらで販売したらライバルに勝てるかを何時間も議論します。

家庭では、生まれたばかりの赤ん坊を眺めながら、この子にはどんな未来が待っているのだろうかと夫婦で話し合います。

これらはすべて、シミュレーション(ある仮説を立てて、その現実の結果を模擬実験などで予想すること)です。なぜ私たちがいつも思い悩んでばかりいるかというと、新しい事態に遭遇すると、こころという「シミュレーション装置」が無意識に駆動しはじめるからです。

ところで、ヒトはなぜこころなどという奇妙な能力を獲得したのでしょう。それはもちろん、(利己的な遺伝子の)生存にとって有利だったからです。

チンパンジーはヒトと同じ社会的な動物で、その生態を観察すると単純なシミュレーション装置(こころ)を持っていることがわかります。群れを統率するのはアルファオスと呼ばれる第一順位のオスですが、すべてのメスを独占しているわけではなく、下位のオスにも生殖の機会は与えられています。しかし交尾には上位のオスの暗黙の了解が必要で、さもなければこっそり“不倫”するしかありません。

このときチンパンジーは、いまここでメスと交尾しても上位のオスに攻撃されないかどうか、さまざまな方法で知ろうとします。このシミュレーションが上手ければ、身体が大きかったり力が強かったりしなくても子孫を残すことができるのです。

シミュレーションで相手の行動を的確に予想できれば、異性を獲得するだけでなく、狩りをするのも、敵から身を守るのもずっと容易になります。これを「知能」と呼ぶならば、ヒトの祖先は賢ければ賢いほど生き残る確率が上がり、より多くの異性と交尾して子孫を残せたはずです。

孔雀のオスの尾羽根がきらびやかなのは、メスがより美しい(尾羽根の豪華な)オスを選ぶからです。これはもともと、長い尾羽根を持つオスが強健で、なんらかの偶然で、メス(の遺伝子)が尾羽根で交尾の相手を選択するようになったからだと考えられています。いったんこのようなルールができあがると、進化という「盲目の時計職人」の手によって、オスの尾羽根は生存の限界まで派手になっていきます。

長くて重い尾羽根を持つオスは捕食動物に簡単に食べられてしまいますが、たとえそうであっても、短い“人生”のあいだに、より俊敏に動ける尾羽根の短いオスよりもずっと多くの子孫を残すことができます。このように、生存に有利な特徴が非現実的なまでに拡張することを進化のランナウエイ(暴走)効果といいます。

言語の起源については諸説ありますが、ヒトが言葉というコミュニケーション能力を得たことで大脳新皮質を急激に発達させていったことは間違いありません。こころがいかに強力な武器だったかは、食料を求めてアフリカ大陸を出た人類の祖先が、短期間のうちにさまざま種を絶滅させながら地球上に繁殖したことで明らかでしょう。ヒトにとって脳はクジャクの尾羽根であり、進化のランナウエイ効果の結果、不必要なまでに高度の知能(シミュレーション能力)を獲得したのです(クリストファー・ウィルズ『暴走する脳』)。

シミュレーションがこころの本質だとすれば、私たちはそこから逃れることはできません。仏教では、修行による解脱、すなわち悩みからの解放を説きますが、シミュレーション機能を停止させてしまえばひとはもはやヒトでなくなってしまいますから、解脱は人類の理想であっても原理的に不可能なのです。