「家族の絆」を取り戻すもっとも簡単な方法 週刊プレイボーイ連載(21)

「日本では子どもが親の面倒を見るんだろ。君たちがうらやましいよ」

旅行先のモスクワで知り合った50代半ばのロシア人から、そういわれました。ロシアでは、子どもは親の世話をしないのがふつうで、高齢者も自分のちからで生きていかなくてはならないのだそうです。

「考えてもみろよ。ソ連時代は住宅も医療費もすべてタダで、老後は年金で生きていくのが当たり前だった。親の面倒を国が見てくれるんなら、子どもは自分のことだけを考えればいい。だから社会体制が変わっても、この国ではだれも親の世話をしないんだよ」

帝政時代のロシアは国民の大半が農奴として土地にしばりつけられていて、家族で身を寄せ合い、助け合いながら生きていくほかありませんでした。二度の革命を経てソヴィエト連邦が成立したのは1922年、共産党支配の崩壊が1991年ですから、わずか70年のあいだにロシアでは親子の関係が劇的に変わったことになります。

とはいえ彼は、子どもを恨んでいるわけではありません。そればかりか、一人息子の自慢になると話が止まりません。

彼の息子は数学の学位をとって高校の教師になったあと、大学に再入学してコンピュータの学位も取得し、いまはドイツ系企業の子会社に職を得て、夫婦共働きでモスクワ市内にアパートを買おうとしているといいます。

「収入が減るのがイヤだといって、まだ子どもを産もうとしないんだよ。俺は早く孫の顔を見たいのに」

そうぼやくところは、親馬鹿そのものです。

孔子はひとの道として、主君への忠誠などとともに親への孝行を説きました。孔子はなぜ、親が子どもを愛することの大切さを語らなかったのでしょうか。

それはおそらく、親の愛情が遺伝子のプログラム(本能)であるのに対し、親孝行が文化だからです。それは、私たちの祖先が家族を基本単位として集団生活を送るなかで、人工的につくられた価値観です。だからこそ、社会の混乱で家族がばらばらになってしまえば親孝行の美風も廃れてしまう――孔子はそれを憂えたのでしょう。

経済的な格差をなくし、障がい者や高齢者や能力の劣った者も平等に生きていける(とされた)社会主義国家は、親孝行がこわれやすい人工物であることを証明する壮大な社会実験でした。そして孔子の洞察どおり、ホモ・サピエンスの登場から50万年以上かけて育まれてきた親孝行の文化は、一瞬にして消えてしまったのです。

日本でも、「家族の価値が廃れた」と嘆くひとがあとを絶ちません。しかしロシアの経験を見るならば、家族の崩壊は福祉国家の運命だというほかはありません。年金や健康保険制度を充実させればさせるほど、子どもは重荷が軽減されたと考えて、家族の絆は弱くなっていきます。国家が親の世話をすべて代行するならば、「親孝行は古代の奇妙な風習」ということになるでしょう。

このことから逆に、家族の絆を取り戻すきわめて効果的な方法がわかります。国民年金も国民健康保険もすべて廃止してしまえば、国民はふたたび家族という安全保障装置に頼らざるを得なくなります。もっとも、どれほど憂国の士であってもこの提案に賛成はしないでしょうが。

 『週刊プレイボーイ』2011年10月3日発売号
禁・無断転載

なぜ誰も原発賠償請求の利益相反を問題にしないのか?

東京電力の原発事故賠償請求手続きが批判を浴びている。賠償請求の案内書だけで160ページもあり、専門用語満載で、弁護士出身の枝野経産大臣ですら「私でも無理」と評した。

なぜこんなことになってしまうかというと、東京電力に損害賠償手続きの経験がほとんどないからだろう。そこで法律の専門家に任せるほかなくなり、紛争を避けるために細部を詰めていくと、結果として誰も理解できないようなものが出来上がってしまった。

批判を受けた東京電力は、説明会に対応する人数を増やすほか、申請が滞る被災者には東電の担当者が戸別訪問して記入を手伝うなどの追加対策も検討しているという。

でもこれは、ちょっとおかしくないだろうか。

東京電力というのは福島原発事故の加害者だ。その加害企業が、自ら被害者のところに足を運んで、損害賠償請求のやり方を指導するのだという。いうまでもなく、これは典型的な利益相反だ。

被災者にとっての利益は、失った損失の全額を東京電力から補償されることだ。営利企業である東京電力にとっての利益は、損害賠償の請求額をできるだけ少なくすることだ。だったら、東京電力の社員である説明員は、どちらの側に立つのだろう。

私は、東京電力が意図的に過少請求を画策しているといいたいわけではない。だが利益相反の構図があまりにも明白である以上、被災者の不信感は解消しないだろう。実際、新聞には「だまされそう。安易に提出したくない」との被災者の声が掲載されている。

では、どうすればいいのだろうか。ここで今後の議論のために、私案(というか、思いつき)を述べてみたい。

被災者の大半はこれまで損害賠償請求などしたことのないひとたちで、高齢者も多い。どれほど懇切丁寧な説明を受けたとしても、その全員が、原発事故による実損害や逸失利益、精神的慰謝料などを正確に計算して請求できると考えるのはあまりにも現実離れしている。だからここで必要とされているのは、被災者の側に立って東京電力に賠償請求するプロの代理人だ。

そこで弁護士や司法書士、税理士、公認会計士、あるいは認定されたNPO団体などが、被災者の代理人として賠償請求を請け負えるようにする。報酬は着手金と成功報酬で、着手金(たとえば5万円)は、被災者が代理人契約を結んだ時点で東京電力(あるいは原子力損害賠償支援機構)から支払われるようにする。これなら被災者の負担はないから、誰でも気軽に利用できるだろう。成功報酬は、弁護士規定に基づいて、受け取る賠償額によって料率を決めておけばいい。

ところで、この方法で賠償請求が簡素になっても、もうひとつ大きな問題がある。現行の手続きでは、加害企業である東京電力が申請を査定・審査することになっているのだ。

このことから当然、次の2種類の混乱が予想される。

ひとつは、東京電力が損害賠償の金額を抑えるために審査や査定を厳しく行なう可能性。たとえ東京電力の担当者が(主観的には)公正に審査・査定したとしても、その可能性が誰にでもわかる以上、金額に不満をもつ請求者は容易には納得しないだろう。

その結果、紛争調停機関に持ち込まれる案件が増え、それでも解決しなければ裁判を起こすしかない。これは、被災者にとっても大きな負担だ。

もうひとつは逆に、加害企業ということで、東京電力の担当者が過大な請求を厳しくチェックできない可能性。それによって賠償金額が膨らめば、最終的には電気料金や税金のかたちで国民の負担になるのだから、「請求された分だけ払えばいい」とかんたんにいうわけにはいかない(それに、真面目に請求したひととのあいだの不公平感も深刻だ)。

この問題を解決するには、賠償請求の審査・査定を東京電力から切り離すしかない。日本の企業でこうした経験を持っているのは損害保険会社しかないのだから、原子力損害賠償紛争審査会のガイドラインに基づいて審査・査定の基準を明確にしたうえで、大手損害保険会社に業務をアウトソースするのはどうだろう。これなら、東京電力が賠償金額を決めるより、被災者の納得感はずっと高いはずだ(損害保険会社は自分のお金を払うわけではないから、請求額を減額するインセンティブは持たないが、明らかな過剰請求を認める理由もないから、マニュアルに沿って機械的に処理しようとするだろう)。

そもそも原発事故の賠償請求手続きというのは、東京電力の社内に中規模の損保会社を立ち上げるくらいの大きな仕事だ。電力会社の社員にはそんな仕事の経験は皆無で、さらにはリストラを迫られるなか人材を外部から補強することも禁じられている。これで、なんのトラブルもなく整然と賠償金が支払われると考えるほうがどうかしている。

被災者の賠償請求が本格化する前に、政府はこの利益相反をちゃんと解決すべきだ。

イゴールの人生

ツァールスコエ・セローはサンクトペテルブルグの南にある「皇族の村」で、ピョートル大帝が妃エカテリーナ1世のために建てた豪華な宮殿と美しい庭園で知られている。

第2次世界大戦でサンクトペテルブルグ(当時のレニングラード)を包囲したドイツ軍はこの宮殿に陣を構え、冬を迎えた。時に零下20度を下回る極寒に、ドイツ兵たちは庭園の樹々をすべて切り倒して薪にし、それがなくなると宮殿内の調度品をつぎつぎと火にくべた。貴金属や美術品は収奪され、戦争が終わる頃には絢爛たる宮殿はただの廃屋と化していた。

宮殿の復旧はソ連時代から進められていたが、サンクトペテルブルグ出身のプーチンが権力を握ると国家の威信をかけた一大事業となり、2003年、サンクトペテルブルグ建都300周年にその全貌が一般公開された。

宮殿には壁一面が琥珀細工で覆われた「琥珀の間」があり、その美しさは世界的にも知られていた。ドイツ軍は撤退の際に、ヒトラーへの献上品としてこの豪華な装飾を壁ごと切り出して持ち去ってしまった(その後の行方は謎のままで、輸送船ごとバルト海に沈んだともいわれる)。プーチンは、ロシア全土から琥珀を集め、カネに糸目をつけず、この幻の部屋を現代に甦らせた。

サンクトペテルブルグで日曜日が1日空いたので、この有名な宮殿を見学しようとホテルのフロントの女性に行き方を聞いた。すると彼女は、「エカテリーナ宮殿はサンクトペテルブルグでもっとも人気のある観光地で、週末はきわめて混雑し、個人で行っても入場を断わられる」という。ほんとうかどうかわからないが(あとで確認すると、ガイドブックにもたしかにそう書いてあった)、片道1時間かけて追い返されるのではかなわないから、彼女の勧めにしたがってツアーガイドを頼むことにした。

こうして、イゴールがやってきた。53歳で、自分で小さなツアー会社を経営しているという。身長はそれほど高くないが、がっしりとした体型で、スーツにネクタイを締めている。

サンクトペテルブルグの歴史についてさんざん聞かされたあと、宮殿を見学した。個人ガイドはどこでもフリーパスで、団体客の列に並ぶ必要もないから、たしかにものすごく効率がいい。

琥珀の間を含むさまざまな見所を案内された後、庭園に出た。終戦直後はわずか1本の木しか残っていない荒地だったが、往時の記録をもとに東屋まですべて再現したのだという。そんな話をひととおりしたあとで、「なにか質問はないか」という。

歴史の話は聞き飽きたので、ソ連時代はなにをしていたのか、訊いてみた。イゴールは、ちょっと驚いた顔をした。そんなことに興味を持つ観光客は、あまりいないのだろう。

イゴールは私を、池の畔のベンチに座らせた。それから私の前で仁王立ちになると、えんえん1時間にわたって自分の半生を語りはじめた。

以下は、社会主義から資本主義へという価値観の大転換を経験した一人のロシア人の物語だ。

イゴールはサンクトペテルブルグで、エンジニアの父親と教師の母親の家庭に生まれ、なんの疑問も持たずにピオネール(少年団)からコムソモール(共産党青年団)に入団し、理工系の大学を卒業すると、北極海に面したムンマルクスで国内商船の機関士の職についた。結婚をし、子どもが生まれ、人生は貧しくとも大過なく過ぎていくものだと思っていたが、やがてゴルバチョフによるペレストロイカ(政治改革運動)が始まり、ベルリンの壁が崩れ、91年にはソ連邦が解体した。

エリツィン政権の急速な経済自由化政策の失敗でロシアをハイパーインフレが襲ったのは、1992年、イゴール34歳のときだった。物価は1年で20倍以上に高騰し、通貨ルーブルは暴落し、イゴールの勤めていた海運会社も倒産してしまう。、

職を失ったイゴールは、故郷のサンクトペテルブルグに戻って警備員の職に就いた。彼にとって幸運だったのは、経済の自由化と通貨の下落によって古都サンプトペテルブルグに欧米から観光客が押し寄せるようになったことだ。ルーブルよりもアメリカの煙草マルボロの方が信用力が高く、数カートンあればイコン(宗教画)から売春婦までなんでも買えるといわれた頃だ。

イゴールの仕事は、海外からの団体客の警護だった。このときはじめて、欧米の自由主義諸国の圧倒的なゆたかさと、ロシアの貧しさを思い知った。映画俳優リチャード・ギアがサンクトペテルブルグの名門ホテル・ヨーロッパで開いたパーティの警護も担当した。湯水のごとくシャンパンが開けられ、テーブルには山盛りのキャビアが並ぶのを目の当たりにして、とても現実のこととは思えなかった。

「考えてみてくれよ」エカテリーナ宮殿を背に、イゴールは両手を振り回した。「それまではアパートもタダ、医療費もタダ、教育費もぜんぶタダだったんだ。仕事は国から与えられるもので、お金のことを考える奴なんて誰ひとりいなかった。それがある日突然、もう面倒はみられないから、自分で稼いで生きていけといわれたんだ。そんなことできると思うかい?」

90年代初頭のハイパーインフレでほとんどのロシア人は乏しい蓄えのすべてを失ってしまい、年金だけを頼りに生きていくほかはなくなった。

「みんな、月300ドルから400ドルの年金でなんとか暮らしているんだ」イゴールはいう。「そこからアパートの家賃と水道光熱費を払えばほとんどなにも残らない。だから、黒パンと牛乳だけで食いつないでるんだよ」

それでも暮らせなくなったら、ホームレスになるほかない。冬は凍死してしまうから、ビルの地下や廃屋に入り込む。暖をとるために建物のなかで火をたくので、冬のサンクトペテルブルグは火事が多いのだという。

冬になれば、午後3時を過ぎると太陽は沈んでしまう。なにもすることがないので、男たちはひたすらウオッカを飲む。ロシア人の男性の平均寿命は、90年代にはずっと60歳を下回っていた(2008年にようやく61.8歳になった)。10万人当たりの自殺率も30.1と、ベラルーシやリトアニア、カザフスタンなど旧ソ連邦の国々とともに世界でもっとも高い(日本の自殺率は24.0)。酔いつぶれたあげく、生きることに希望を失ってさっさと首をくくってしまうのだ。

イゴールは警備員の仕事をしながら、このままでは自分の人生もあいつらと同じだと思った。そのとき政府が、高等教育を無料で受けなおすことができる救済プログラムを始めた。イゴールはそれに応募し、46歳で大学に再入学して、働きながら英語を学んだ。

「みんな俺のことを笑ったさ。そんな年で、若いやつらといっしょに大学に行って、いったいなんの役に立つのかって」

大学を卒業すると、イゴールはツアーガイドの登録をして自分の会社を立ち上げた。ビジネスは順調で、やがて人を雇うようになった。アパートも買い増して、妻と2人で不自由のない暮らしができている。

息子は数学の教師をしていたが、やはり大学に再入学し、コンピュータの学位を取って、いまではドイツ系企業の子会社に勤めている。結婚したのを期に家を買おうと考えているが、不動産価格は急騰し、金利も高いので悩んでいるのだという。

「けっきょく、ほとんどの人間は生き残れなかったんだよ」そういってイゴールは、長い話を終えた。「なにもかも、あまりにも変わってしまったからね」

そのあとにつづく言葉を彼は口にしなかったけれど、もちろん私にはわかった。

「でも俺は、見事にやりとげたのさ」

日本からの物好きな観光客に、彼はそう伝えたかったのだ。

エカテリーナ宮殿
室内も往時のままに復元された