「自己責任」は自由の原理 週刊プレイボーイ連載(182)

2人の日本人がISIS(イスラム国)の人質となり、殺害された事件でまたも「自己責任」論が沸騰しました。

2004年4月のイラク人質事件では、過激派に拘束されたボランティア活動家などが現地の危険をじゅうぶん認識しておらず、被害者の一部家族が政府に自衛隊撤退を要求したことで、「自己責任」を問う激しいバッシングにさらされました。

しかし今回の事件では、2人ともISISの支配地域がきわめて危険だとわかったうえで渡航しており、ジャーナリストはビデオメッセージで「自己責任」を明言しています。「殺されたとしても誰のせいでもない」というひとを自己責任で批判してもなんの意味もありませんから、今回の騒動は「政府(安倍総理)に迷惑をかけるな」という心情的な反発なのでしょう。

人質事件に対し、政府は国民が許容する範囲で救出活動を行ないますが、それ以上のことはできません。

アメリカは「テロリストとは交渉せず」が原則ですから、人質は事実上見捨てられますが、それに対して国民からの批判はほとんどありません。テロリストに報酬を与えることは、新たな犯罪を誘発するだけだとされているからです。

それに対して日本では、国民の多くが国家に「日本人の生命を守る」ことを求めます。こうして政府は人質救出に奔走するわけですが、今後、人質事件が頻発するようなことになれば(考えたくはありませんが)「人命最優先」を再考せざるを得なくなるでしょう。

「人質救出は政府の義務」と決めつけるひとがいますが、「国民の生命を守るために軍事的な奪還以外の方法はとらない」という選択肢もあり得るのですから、一つの正義を絶対化するのは危険です。それ以上に危険なのは、「自己責任」そのものを否定するような主張です。

今回の事件で明らかなように、テロリストとの交渉には大きなコストがかかります。それにもかかわらず国家に一方的に責任を押しつければ、政府は国民が人質にとられるリスクを抑えるため、危険地域への渡航の自由を制限しようとするでしょう。

外務省は「海外安全ホームページ」において、旅行者や海外在住者に世界各国の危険情報を提供しています。もっとも危険なのは「退避を勧告します。渡航は延期してください」とされた地域で、シリア全土とイラクの大部分が含まれます。「自己責任」のない日本人の行動で政府の負担が増せば、まっさきにこうした地域への渡航が禁止されるでしょう。

日本人がほとんど問題なく旅行できるアジア地域でも、フィリピン、インドネシア、カンボジア、ラオスは全土が「十分注意してください」以上の危険度で、中国やタイも一部地域で危険情報が出ています。いったん規制が始まれば、これらの国・地域への渡航も許可制になるかもしれません。

私たちが自由な旅を楽しめるのは、「自分のことは自分で責任をとる」という当たり前の原則が国家とのあいだで共有されているからです。それを否定してしまえば、国家は私生活にまで無制限に介入し、旧ソ連や文化大革命下の中国のような専制的超管理社会で生きるしかなくなるでしょう。

「自己責任」は、自由の原理なのです。

『週刊プレイボーイ』2015年2月9日発売号
禁・無断転載

PS その後、シリアへの渡航を計画していたフリーカメラマンに対し外務省がパスポートの返納命令を出す事態になりました。すべてが「政府の責任」ならこうなるに決まっています。

「信仰」だけがなぜ特別扱いされるのか? 週刊プレイボーイ連載(181)

イスラームの創始者ムハンマドの風刺画をめぐって論争がつづいています。日本のメディアのあいだでも、「私はシャルリー」のカードを掲げて涙を流すムハンマドを描いた雑誌の表紙を掲載するかどうかで判断が分かれました。

掲載を控えたメディアは、「表現の自由は重要だが、紙面に載ればイスラーム信者が深く傷つく」などと説明しています。「他人の嫌がることはやらない方がいい」というのは一見わかりやすい理屈ですが、はたしてそれでいいのでしょうか。

日本には従軍慰安婦や南京大虐殺、靖国問題の報道で深く傷つき、激昂するひとがたくさんいます。それなら同じように、彼らの意に反する表現もすべて控えるべきだ――こんなことをいえば間違いなく袋叩きにあうでしょう。ジャーナリズムとは、権力や大衆の神経を逆なでしてもなお真実に迫る営為だとされているからです。

ではなぜ、ムスリムの気持ちには配慮し、愛国的な日本人の感情は踏みにじってもいいのでしょうか。

リベラルなひとたちは、彼らが歴史的事実を誤って解釈し、自分に都合のいい歴史観を振りかざしているからだというでしょう。その当否は別として、ここでいいたいのは、この論理には「(歴史認識とはちがい)神を信じるのは崇高な行為である」という暗黙の前提が隠されていることです。

しかし現実には、テロ行為を行なっているのはイスラームを名乗るグループで、彼らは自分たちこそがムハンマドの正統な後継者・カリフであると宣言しています。メディアには「テロリストとイスラームの教義にはなんの関係もない」との講釈があふれ、テロの原因は宗教ではなく「差別」と「貧困」だとされますが、恵まれない境遇にある多くのひとたちのなかで、なぜクルアーンのジハードに惹かれた若者だけがテロ組織に身を投じ、罪もないひとたちを殺戮するのか、納得のできる説明は聞いたことがありません。

誤解のないようにいっておくと、これは「イスラームが危険な宗教だ」ということではありません。旧約聖書では、神はユダヤの地に住む異教徒を殺しつくすよう命じています。中世の十字軍や魔女裁判からホロコーストに至るまで、キリスト教の歴史は血塗られています。

ひとが自らの行為を正当化するのは、正義が自分にあると信じるからです。絶対的な正義を与える神だけが、想像を絶するおぞましい行為を現実のものにすることができます。すなわち、すべての宗教が危険なのです。

日本でも、ムハンマドの風刺画を掲載した新聞社に対し、ムスリムの抗議行動が行なわれました。今回の事件は宗教というイデオロギーに対する風刺に端を発しているのですから、それを肯定するにせよ批判するにせよ、現物の風刺画を見なければ読者は判断のしようがありません。その意味で、「問題の判断材料を読者に提供する」との新聞社の判断は筋が通っています。

宗教だけが特権的に優遇されるのはその教えが「よきもの」だからではなく、信じているひとがものすごく多いからです。風刺画の掲載を自主規制したメディアは、要するに、面倒に巻き込まれるのがイヤだっただけです。

宗教の悪から目を背け、“善男善女”を傷つけることのない「よいこ新聞」のようなジャーナリズムでは、いま世界で起きていることを正しく伝えることはできないでしょう。

参考文献:リチャード・ドーキンス『神は妄想である』

『週刊プレイボーイ』2015年2月2日発売号
禁・無断転載

PS その後、風刺画を掲載し抗議を受けた新聞社が「イスラム教徒の方々を傷つけました。率直におわびいたします」との謝罪文を掲載しました。日本のマスメディアは、「私は傷つけられた」と文句をいうと表現の自由をあっさり放棄してくれるようです。

なぜイスラームだけが風刺されるのか? 週刊プレイボーイ連載(180)

ムハンマドの風刺画を掲載したフランスの出版社シャルリー・エブドがイスラーム原理主義の過激組織アルカーイダの指示を受けたテロリストによって襲撃され、雑誌編集長や警官を含む12名が死亡した事件は世界じゅうに衝撃を与えました。フランス全土で370万人が「私はシャルリー」の標語を掲げて街頭に出たことでも、その衝撃の大きさがわかります。

この事件は同時に、「表現の自由」をめぐる議論を巻き起こしました。イスラーム諸国の政治家や宗教指導者たちが、テロを強く非難しながらも、ムハンマドの風刺画がムスリムの反欧米感情を煽っていると反発しているからです。

当たり前の話ですが、表現の自由は無制限に許されるわけではありません。オバマ大統領にバナナを持たせた風刺画が掲載できないのはアメリカが圧力をかけているからではなく、人種差別を助長するような表現に「自由」は与えられないからです。

ひとびとが不快に思う表現にも自ずと限界はあります。過去に欧米のメディアが日本の被爆者や原発事故の被災者を風刺したことがありますが、たいていはいちどの抗議で謝罪や弁明に追い込まれ、同様の表現が執拗に繰り返されることはありません。商業出版はお金を払ってくれる読者がいなければ成立しないのですから、シャルリーの編集者や風刺漫画家たちも社会の良識から大きく逸脱することはできず、表現の許容範囲を常に意識していたことは間違いありません。

それなら彼らはなぜ、ムハンマドの風刺画を掲載しつづけたのでしょうか。それは、「ムスリム(イスラーム信者)の感情に配慮する必要などない」と考えたからでしょう。今回の事件で問題とされたのは「表現の自由」という抽象的な理念ではなく、「ムハンマドを風刺する自由」なのです。

ただしこのことを、「キリスト教社会のイスラームへの差別」と短絡するのは間違いです。シャルリーは政治的には左派の出版社で、宗教的な背景はありませんでした。

イスラームだけがなぜ、風刺の対象にされるのでしょう。

ヨーロッパに暮らすムスリムの多くは、現地の社会と同化・共存しています。彼ら世俗化したムスリムは、人権や自由・平等といった市民社会の価値を受け入れ、コーランを現代に適応するよう読み替えています。

しかしその一方で、イスラーム社会のなかにはコーランを字義どおり解釈して、女性に全身を覆うブルカを強制し、働くことを認めず、自由恋愛を許さないひとたちがいます。シャルリーは市民社会の理念と敵対する彼らに対し、自分たちの不快感を理由に「表現の自由」を抑圧する権利はないと主張したのです。テロ事件後に「(ムハンマドを風刺する)表現の自由を守れ」の大合唱が起きたのは、市民革命発祥の地であるフランスだけでなく、ヨーロッパ全土でこうした考え方が広く支持されていることを示しています。

ヨーロッパの移民問題は、民族や人種の対立というよりも、市民社会の理念を受け入れない宗教との対立だと見なさるようになりました。現代社会の根幹がリベラルデモクラシー(自由な社会と民主政)である以上、変わるべきは宗教ということになりますが、それはとても困難な道なのでしょう。

『週刊プレイボーイ』2015年1月26日発売号
禁・無断転載