大阪都構想の住民投票が教えてくれた日本の未来 週刊プレイボーイ連載(197)

大阪都構想の賛否を問う住民投票に敗れたことで、橋下徹大阪市長が政界引退を決意しました。賛成49.62%、反対50.38%の僅差で、逆の結果が出てもおかしくはありませんでしたが、大阪市を廃止して5つの特別行政区に再編する大改革を住民の半数が反対するなかで強行すれば混乱は避けられなかったでしょう。「民主主義は最後は多数決」といっても、実際には、反対派を圧倒する大勝でなければ政治的には敗北だったのです。橋下市長も引き際を飾ることができたのですから、有権者の絶妙な判断というべきでしょう。

橋下市長と維新の会の歴史を振り返ると、石原慎太郎の太陽の党との合併がつまずきのもとだったのは明らかです。

戦後の日本の政治は、右(保守)と左(リベラル)の不毛な論争をずっと続けてきました。維新の会は古臭い政治イデオロギーとは無縁のネオリベ=改革の党として支持を集めましたが、欧米から「極右」と見なされる政治家と組んだことでリベラルな支持層が離反していきました。そのうえ日本型組織の統治を批判してきたにもかかわらず、「共同代表制」による内紛と対立で自分たちの統治が崩壊してしまいます。自民党にも民主党にも「新自由主義」の議員はいるのですから、彼らを個別に支援し、地方政党としてキャスティングボードを握る戦略をとれば状況はずいぶんちがったでしょう。

毀誉褒貶ははげしかったものの、橋下市長が硬直化した日本の政治に新風を吹き込んだことは間違いありません。今後、彼のような魅力的なポピュリストが現われることは当分ないでしょう。

大阪都構想の住民投票では、出口調査に基づき、「50代以下の現役層が賛成したにもかかわらず、70代以上の高齢者の反対でつぶされた」「地域別に見れば、所得の高い北部で賛成が多く、所得の低い南部はほとんど反対した」などといわれています。

同様の傾向は、EUをめぐるヨーロッパの政治でも見られます。2005年にフランスとオランダの国民投票でEUの改革案が否決されたとき、欧州の統合に賛成したのは都市部の高所得者層で、移民規制の強化などを求めて反対票を投じたのは地方の低所得者層でした。自由と競争を好むのは知識層や富裕層で、改革によって既得権を奪われるひとたちが規制強化を求めたと考えると、ヨーロッパにおけるリベラルと保守の対立がよく理解できます。

大阪の住民投票でも、現在の福祉水準で生活が成り立っているひとたちはそれを変える理由がありませんから、改革に反対するのは合理的です。維新の会の敗因は高齢者の票を奪えなかったからではなく、20代や30代の若者層を投票所に向かわせることができなったことでしょう。

高齢者の投票率が高く、若者の投票率が低いのは世界共通の現象です。年金に依存する高齢者は政治の変化に敏感ですが、若者には仕事や恋愛など、もっと大切なことがたくさんあるからです。

高齢者の意向で選挙結果が決まるようになると、若者はますます政治に興味を失っていきます。この“デフレスパイラル”によって、いずれあらゆる現状変更が不可能になるでしょう。

今回の住民投票に意味があったとするならば、この単純な事実を教えてくれたことなのかもしれません。

『週刊プレイボーイ』2015年6月1日発売号
禁・無断転載

第50回 仙境は上海上場銘柄(橘玲の世界は損得勘定)

黄山は中国・安徽省にある名山で、伝説の王、黄帝がここで不老不死の霊薬を飲み、仙人になったという。切り立った岩山が雲に浮かぶ様はまさに仙境で、古来、多くの文人が水墨画や漢詩でその姿を称えた。中国ではもっとも有名な山で、世界遺産にも登録されている。

4月末にその黄山に登ったのだが、驚いたのは断崖絶壁が連なる岩山に長大な階段がうがたれていることだった。黄山登山とは、この階段をひたすら昇り降りすることなのだ。

観光用のロープウェイもあるが、せっかくなので徒歩で挑戦してみた。歩数計では目的地にたどり着くまで8000階段ほど昇ったことになる――とうぶん階段は見たくない、という行程だ。

平日だというのに、景勝ポイントはどこも中国人観光客でいっぱいだった。夏のシーズンには、ロープウェイが数時間待ちになるという。

あちこち歩きまわっているうちに日が傾いてきた。下山するときにわかったのだが、じつは距離が長くなると、階段は昇るより降りる方がずっとつらい。踊り場のない真っ直ぐな石段をえんえんと降りるのはスクワットを続けるようなもので、たちまち腿が張って膝が笑い出すのだ。

幸い私は大丈夫だったが、なかには膝を曲げるだけで激痛が走るひともいるらしい。そうなると、まずは手すりにつかまってカニ歩きし、次は後ろ向きで降りようとし、最後は四つんばいになって後ずさりする。

1時間ほど下ったあたりから、修羅場は始まった。仲間から置いていかれたのか、携帯片手にぼろぼろと涙をこぼしながら歩く女の子や、地面に仰向けになって手足をばたばたさせて泣き叫ぶ若い女性など、ふだんは目にしない光景にも出会った。

日が落ちてしまえば街灯などないから、真っ暗闇で足元すら見えなくなる。動けなくなったらどうするのかと思ったら、あちこちに担ぎ屋がいて声をかけてくる。前後2人でかごを担ぎ、麓まで駆け下りるのだ。

だがその料金は、けっして安くない。ロープウェイの全行程を担いでもらうと5000元(約10万円)、途中からでも1000元(約2万円)はするという。値引きはいっさいなく、イヤなら山中に取り残されるだけだ。こうして、背に腹は変えられないひとたちが次々と担がれていく。

それを見て「ずいぶんビジネスライクだなあ」と思ったら、じつは黄山は株式会社化されていて、上海市場に上場していた。銘柄名は「黄山旅行開発」で筆頭株主は黄山市黄山風景区管理委員会。2014年の売上高は15億元(約300億円)、純利益2億元(約40億円)で、地方都市としては一大産業だ。

黄山内のロープウェイや宿泊施設は会社の経営で、売店の売り子から担ぎ屋までみんな「社員」なのだという。だから値引きにはいっさい応じないのだ。

黄山は入場するだけで250元(約5000円)。ロープウェイ、ホテル代、飲食代に“救出”費まで、観光客から効率的にお金を回収する仕組みが徹底されている。中国の“特色ある資本主義”だと、観光地もこうなるのだ。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.50:『日経ヴェリタス』2015年5月24日号掲載
禁・無断転載

002
石段をひたすら昇る
担ぎ屋に運ばれる登山客
担ぎ屋に運ばれる登山客

リベラルこそが憲法9条改正を主張すべきだ 週刊プレイボーイ連載(196)

オウム真理教の信者はなぜ脱会しないのか。ほとんどのひとは、洗脳が解けていないからだとこたえるでしょう。しかし地下鉄サリン事件から20年もたって、いまだに獄中の(それも明らかに精神を病んだ)教祖の言葉を信じつづけられるものでしょうか。

ひとは無意識のうちに、自分の選択を正当化しようとします。些細な間違いならすぐに修正できるでしょう。しかしそれがきわめて大きな過ちで、もう取り返しがつかないのなら、事実を直視するのは自分で自分を否定するのと同じことになってしまいます。

こういうときひとは、全身全霊で過去の選択を擁護しようとします。しかも始末に悪いことに、それがたんなる自己正当化であることすら否認するのです。

オウム真理教の信者は超能力や精神世界を信じる真面目な若者たちで、家庭や職業を捨て、資産のすべてを教団に譲渡し、周囲の強い反対を押し切って入信しています。それが、教祖はいかさま師で教団はテログループだったのですから、その衝撃は想像を絶するものでしょう。これほどまでに失ったものが大きいと、過ちを認めてやり直すより、教団にとどまって狂信に身を委ねることが合理的な選択になってしまうのです。

安全保障関連法案をめぐる議論を見ていると、オウム真理教の信者たちをつい思い出してしまいます。

この問題の本質は、日本国が自衛隊という巨大な“暴力装置”を保有しながらも、その存在を憲法に規定していなことにあります。その結果、憲法とは無関係に自衛隊関連法案をつくり、軍を管理する不安定な状態がつづいています。これはリベラルデモクラシーの常識ではあり得ない事態で、法律さえ変えれば、権力者は軍をどのように使うこともできてしまいます。

戦前までの憲法では、軍は議会や政府から独立した天皇の私兵でした。日本軍は満州や沖縄で日本人を見捨て戦力を温存しましたが、これは軍の目的が「国体(皇室)」を守ることで国民の保護ではなかったからです。

その反省を踏まえるならば、リベラルこそが真っ先に不完全な憲法の改正を主張し、自衛隊を「市民の軍隊」として完全な法の支配の下に置くことを求めなければなりませんでした。しかし残念なことに、“リベラルな知識人”と呼ばれたひとたちは戦後ずっと、欠陥のある憲法の条文を「不磨の大典」として崇め奉って触れることすら許さなかったのです。

自衛隊は海外では「軍」として扱われますから、紛争地域などで他国の軍と行動を共にする機会が増えれば矛盾が顕在化してくるのは当然です。その結果、安倍政権の下でご都合主義的な憲法解釈の変更が行なわれているのですが、これではますます自衛隊の存在が曖昧になってしまいます。

いまにして思えば、“リベラル”の最初の過ちは「戦争放棄」といっしょに国家の自衛権まで放棄してしまったことです。これは荒唐無稽な空理空論ですが、それを認めると「保守派」や「右翼」の批判が正しかったということになってしまいます。

そんな屈辱を味わうくらいなら、どれほど支離滅裂でも「平和真理教」にしがみつくほうがマシだと、自分で自分を洗脳するようになってしまったのでしょう。

『週刊プレイボーイ』2015年5月25日発売号
禁・無断転載