中国を驚くということ(『橘玲の中国私論』はじめに)

新刊『橘玲の中国私論』より「はじめに」を掲載します。

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中国はいつも驚きを与えてくれる。日本から飛行機でわずか数時間のところにこんな面白い世界があるのに、日本人旅行者が減っているのはほんとうにもったいない。

中国の「驚き」のなかで、ここ数年のマイブームは不動産バブルだ。地方都市を訪れるたびに、唖然、愕然、呆然とするような都市開発の残骸を目にするようになった。

「なぜこんな途方もないことが起きるのか」「これはいったいどうなってしまうのだろう」という素朴な疑問から本書の企画は始まった。「鬼城」と呼ばれる中国のゴーストタウンを取材して、読者にも驚いてもらおうと思ったのだ。

だが取材を進めるにつれて、たんに各地の鬼城を紹介するだけでは面白くならないことに気がついた。

ロシア人形にマトリョーシカがある。胴体が上下に分かれ、なかに少し小さな人形が入っている。人形を開けるとまた同じ人形が出てくる入れ子構造で、ロシア旅行のお土産にもらったひともいるだろう。中国の鬼城は、このマトリョーシカを思い出させる。大都市、地方の中心都市、辺境の都市、町や村、どこを訪れてもまったく同じことが起きているのだ。そこには地域ごとの特色、といったものがまるでない。

そこで、「中国の鬼城はなぜこんなにそっくりなのか」ということが気になりだした。そこから出発して、中国についてあれこれ考えてみたのがこの本だ。

最初に断っておくと、満州からチベット、ウイグルまで中国のほぼ全土を旅行したものの、私は中国の専門家ではない。だからこれは一介の旅行者の記録、すなわち旅行記だ。

旅の意味はひとそれぞれだろうが、私の場合は「驚き」に出会うことだ。

アームチェアに座って事件を解決する探偵もいるが、たいていのひとは、思いもよらない出来事に遭遇しないとそれについて知りたいとは思わないだろう。私も同じで、自分で体験してからでないと本を手に取る気になれない。異国を旅することと書物の世界を旅することは一体なのだ。

結果として本書は、私家版の中国論のようなものになった。本書のアイデアはきわめてシンプルで、“人類史上最大”といわれる不動産バブルを含め、中国で起きているさまざまな驚くべきことの背後には、「中国人という体験」を生み出すひとつの外的要因があるのではないか、というものだ。その要因とは、「ひとが多い」ということだ――それも、とんでもなく。

国としての「日本」が誕生したのは7世紀だが、それ以来、中華帝国は日本人にとって脅威であると同時に、常に驚きでもあった。中国はあまりにも巨大なので、隣国である日本はいやおうなくその運命に巻き込まれざるを得ない。

だからこそ、一人ひとりが中国について考えてみることが大切なのではないだろうか。

『橘玲の中国私論』「はじめに」

『橘玲の中国私論』が発売されました

こんにちは。

ダイヤモンド社より『橘玲の中国私論』が発売されました。都内や地方の主要書店には今週末から並び始めると思います。Amazonでも予約が始まりました。

橘玲の中国私論

ここ数年、中国を旅するたびにとてつもない建築ラッシュにびっくりさせられました。いまではその多くが、“鬼城”と呼ばれるゴーストタウン(廃墟)と化しています。

なぜこんなことになってしまうのか? という疑問から始めて、中国と中国人について考えてみたのがこの本です。

「日本」という国が誕生した7世紀から、中国という巨大な隣人は日本人にとって、つねに脅威であると同時に驚きでした。そしてこれからも、さまざまな意味で中国は私たちを驚かすことになるでしょう。

「中国という大問題」の本質はなにか? 本書ではこの問いに、(おそらく)世界で最高水準にある現代日本の中国研究の成果をもとに、きわめてシンプルな結論を導き出しています。それは、「政治や経済、社会問題など中国で起きている大半の出来事は、“ひとが多すぎる”ということから説明できる」というものです。

もちろん私は中国の専門家ではありませんから、これは一旅行者の私的見解(私論)に過ぎません。それでも、歴史認識の齟齬などで日中関係が戦後最悪といわれるなか、本書が「中国に驚く」きっかけになれば幸いです。

日本から飛行機でわずか数時間のところにこんな面白い世界があるのに、旅行者が減っているのはほんとうにもったいないことです。どれほど拒絶しても、地政学的にも、地経学的にも、日本は中国の影響から逃れることはできません。

日本でも中国でも、「正義」の名のもとに相手を一方的に批判するひとがたくさんいます。ひとはみな、自分の見たいものしか見ないし、自分の理解したいものしか理解しないのだから、どちらの歴史認識が正しいのかを議論することに意味はありません(歴史家に任せておけばいいことです)。

いま必要とされているのは、お互いに相手を知り、驚き、楽しむことではないでしょうか。

橘 玲

国家に母性愛を求めるのは気持ち悪い 週刊プレイボーイ連載(184)

以前のコラムで「自己責任は自由の原理」だと書きました。自己責任論を否定するあまり、「国家には国民の生命を守る義務がある」といいたてると、国家は国民の自由を制限するにちがいない、と述べたのですが、案の定、シリアへの渡航を計画していたフリーカメラマンに対し外務省がパスポートの返納命令を出す事態になりました。

この問題で不思議なのは、日ごろは「報道の自由」という錦の御旗を振りかざすマスメディアが妙に腰が引けていて、「国家権力の弾圧」を半ば容認していることです。

その理由のひとつは、マスメディアの“フリー”に対する蔑視でしょう。大企業の正社員である新聞やテレビの“ジャーナリスト”は、自分たちの権利が侵されるときには大騒ぎしますが、有象無象のフリーランスの「報道の自由」などどうなっても構わないと思っているのかもしれません。「報道」を独占するには、ヘンな人間が横からしゃしゃり出てくるのは邪魔なだけなのです。

もうひとつの理由は、憲法に定められた「言論・出版の自由」の侵害だと外務省を批判すると、「カメラマンがテロリストに拘束されたらどうするのか」という疑問にこたえなければならないからでしょう。いくら本人が「自己責任」だといったとしても、国家はどんなことをしても国民の生命を守らなければならないのですから、日本政府はまたテロリストとのあいだで右往左往しなければなりません。

17世紀の啓蒙思想家ジョン・ロックは、市民社会の基礎は国家と市民とのあいだの社会契約であるとしました。契約である以上、そこに「無条件」はあり得ません。国家というリヴァイアサンに無限の責任を求めれば、国民は国家に対して無限の義務を負うことになるとロックは気づいていました。

戦前の日本人は国家(天皇)に生命を捧げることを求められましたが、敗戦から70年たっても日本人はいまだにその失敗を理解できず、国家に対してマターナル(母性愛的)な庇護と愛情を求めているようです。首相もそれにこたえて、「日本人にはこれから先、指一本触れさせない」と大見得を切ってしまいます。これでは、「国家という母親」の愛情を受け入れない人間が非国民として断罪され、自由に対する配慮が放棄されるのも当然です。

この不毛な議論から抜け出すには、「国家の市民に対する義務は契約の範囲でしか履行されない」と認めることが必要です。シリアで取材することはいかなる国内法にも抵触しないのですから、本人の自由です。万が一テロリストに拘束されても、政府にできることはほとんどないと国民が了解していれば、国家も過剰な期待に振り回されることはなく「報道の自由」も守られるでしょう。

外務省の強硬な措置に対し、「アメリカでは旅券返納の議論はない」との指摘もありましたが、米国政府はテロリストと交渉せず、ジャーナリストは人質になれば見捨てられる(武力による救出以外の選択肢はない)ことを知ったうえで取材に行くのですから、これは当たり前です。

それとも日本のジャーナリズムは、国家の母性愛によって自分たちが守られるのが当然だと思っているのでしょうか――そんな気がしないでもないところが不気味です。

『週刊プレイボーイ』2015年2月23日発売号
禁・無断転載