第45回 欧州の美食家は北欧に集う(橘玲の世界は損得勘定)

イギリスの雑誌『レストラン』が発表する「世界のベストレストラン50」は、ミシュランと並ぶレトランランキングだ。2014年の1位はコペンハーゲンのノーマで、この4年間で3回トップを獲得している。

今年の夏に北欧に行く機会があったので調べてみたら、料理は1コースのみ、値段はワイン込みで1人約6万円、予約は3カ月先まですべて埋まっていた。平日のランチにキャンセル待ちの枠が残っていたので申し込んでみたのだが、残念ながら連絡は来なかった。あとで聞いたらやり方が逆で、ノーマの予約が取れてからデンマーク行きの日程を決めるのだそうだ。

ノーマの料理は“分子ガストロノミー”と呼ばれるジャンルで、スペインのシェフ、フェラン・アドリアが開発した。彼のレストラン、エル・ブリが4年連続で雑誌『レストラン』の1位を獲得したことで世界にその名を知られることになった。

分子ガストロノミーは化学実験のような調理法で、食材を液体窒素で瞬間冷凍したり、亜酸化窒素で泡状にしたりして、これまで経験したことのない味や食感を演出する。アドリアはそれを、日本の懐石料理からヒントを得て、30~40種類の小皿料理で提供したのだ。

ノーマのシェフ、レネ・レゼッピはこのエル・ブリで修行したのち、25歳で地元に戻って開業し大成功を収めた。それに刺激を受けて、これまで料理といえばスモークサーモンくらいしかなかったスウェーデンやフィンランドにもガストロノミーのブームが起きた。いまではヨーロッパの富裕層は、美食を楽しみに、フランスやイタリアではなく北欧にやってくるのだ。

せっかくなのでストックホルムとヘルシンキのガストロノミー・レストランに行ってみた。料理の種類も料金もノーマの半分程度だが、特殊な調理法による味覚の驚きはじゅうぶんに楽しめた。

北欧はヨーロッパでももっとも物価が高く、旅行シーズンが限られていることもあって夏のホテル料金は東京の倍はする。フレンチやイタリアンのちょっとした店に入っても、銀座や六本木で食事をするのとコストは変わらない。そのため地元のひとたちは、コンビニ(雑貨店)で出来合いの料理を買っている。

だが物価が高いということは、高額の商品やサービスが相対的に安く感じられる、ということでもある。これが、北欧でたちまち“美食”が広まった理由ではないだろうか。

食の世界がグローバル化すると、一流シェフは高い料金で料理を提供できる国に移っていく。
「日本の食文化は世界一」と思われているが、雑誌『レストラン』のアジア版では香港、シンガポール、バンコク、上海のレストランが大きく評価を上げている(アジアのナンバーワンはバンコクのタイ料理店だ)。

一人当たりGDPで、日本はアジアのトップから転落した(1位はシンガポール)。海外に進出する日本の料理人も多い。そのうち、「本物の日本料理を食べにアジアへ」という時代が来るかもしれない。

橘玲の世界は損得勘定 Vol.45:『日経ヴェリタス』2014年10月5日号掲載
禁・無断転載

001
鶏レバー、メレンゲとリンゴを添えて
002
自家製醤油でマリネしたウズラの卵
003
酵母をトーストしたクリームの生マッシュルーム包み
Gastrologik 料理名の翻訳は自信ありません…

『黄金の羽根の拾い方2015』お詫びと訂正

『黄金の羽根の拾い方2015』P176に、「法人を設立すると、労働基準監督署(労災)や公共職業安定所(雇用保険)、社会保険事務所(年金・健康保険)にも登録することになっていますが、常時使用する従業員が5人未満(つまり4人以下)であれば厚生年金や協会けんぽへの加入義務はありません。」との記述がありますが、これは誤りでした。

従業員数で厚生年金等への加入義務が異なるのは、「常時5人以上の従業員を使用する個人事業所(旅館、飲食店、理容店などのサービス業は除きます。)」で、法人については従来どおり「常時従業員を使用する株式会社や、特例有限会社などの法人の事業所」でした(上記の説明は日本年金機構)。

このルールは『黄金の羽根』旧版や『貧乏はお金持ち』のときと同じですが、改訂版作成にあたって基準が変わったと勘違いしました。お詫びのうえ訂正させていただきます。

該当箇所の記述は、下記のように変更します。

「法人を設立すると、労働基準監督署(労災)や公共職業安定所(雇用保険)、社会保険事務所(年金・健康保険)にも登録することになっています。厚生労働省は未加入の事業者に対し、租税情報などを活用して厚生年金・協会けんぽへの加入を促すとしていますが、現実には、マイクロ法人を含む小規模企業の大半は国民年金・国民健康保険を利用しています。」

現代が「ストレス社会」ってホント? 週刊プレイボーイ連載(166)

現代はストレス社会だといわれます。メンタルヘルスのクリニックや診療科は増えつづけ、カウンセリングを受けたり、日常的に向精神薬を服用するひとも珍しくなりなりました。

ストレスを感じるのは、世の中がどんどん悪い方向に向かっているからです。経済格差は拡大し、国際金融資本主義は破綻寸前で、中国は軍事的攻勢を強め、安倍政権は戦争の準備に余念がありません。これでは将来のことが不安にならない方がどうかしています……。

しかし、いちど冷静になって考えてみましょう。

客観的なデータを見れば、日本人がものすごくゆたかになったのは間違いありません。昭和30年代を描いた映画がヒットしたことがありましたが、あの時代にはインターネットもゲームもディズニーランドもなく、車を持っているのはごく一部で、海外旅行など夢のまた夢でした。

それと同時に、日本人はずっと長生きになりました。昭和30年代の日本人は60代半ばで死んでいましたが、いまではさらに15年も人生を楽しむことができます(80歳時点での認知症の発症率は8%程度)。労働時間も、『女工哀史』の時代は年間3500時間が当たり前で、みんな土曜も日曜もなく朝から深夜まで働いていました。厚労省が定める過労死の基準が月80時間残業で、月20日勤務なら労働時間は合計240時間、これを1年間続けても2880時間ですから、戦前や終戦直後の労働がいかに過酷だったかわかります。

高校進学率はほぼ100%になり、大学も希望すればほぼ全員がどこかに入れます。治安の悪化が憂慮されていますが、「古きよき」昭和30年代の人口当たりの殺人件数は現在の2~3倍でした。

こうした変化を総合すれば、わたしたちが人類史上もっとも自由で安全な、とてつもなく幸福な時代に生きていることは明らかです。それなのになぜ、ストレスを感じるのでしょうか。

現代の脳科学はその疑問に、「ヒトがそのようにつくられているから」と答えます。

人間の脳は、快適なことにはすぐに慣れてしまいますが、不快なことはものすごく気にします。これをネガティブバイアスといいますが、なぜこのような歪なことになっているかというと、長い進化の歴史のなかで、その方が生き残るのに有利だったからです。こうしたネガティブバイアスは、ネズミのような哺乳類だけでなく、アメフラシにすらあることがわかっています。

ヒトはよいニュース(乳幼児死亡率の低下)を無視して、悪いニュース(自殺件数の増加)だけに反応します。メディアはそのことを熟知しているので、悪いニュースを大袈裟に報じてひとびとの関心をかきたてようとします。人類はいつの時代も、世界の終わり(終末)を生きてきたのです。

だったらどうすればいいのでしょうか。

ネガティブバイアスを克服する方法として、ポジティブシンキングや「嫌われる勇気」が唱えられています。こうした自己啓発もいいでしょうが、じつはもっと効果的な方法があります。

ストレスの原因のほとんどは家族や職場での人間関係です。だったら、「嫌いなひと」とつき合わないように自分の人生を設計できれば悩みの大半はなくなるはずです――もっともこれでは、ベストセラーはとうてい無理でしょうけど。

『週刊プレイボーイ』2014年10」月6日発売号
禁・無断転載